映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

この世界の片隅に

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とても漫画チックな?絵柄にも関わらず、ひとりの女性の半生を確かに見た、そんなどっしりとした印象がある。

 

昭和19年、広島市内から呉に嫁いできたすず、18歳。段々畑の中腹にあるその家からは、呉の軍港が見下ろせる。夫は海軍の書記官。やさしい義理の両親といけずな義姉。次第に戦況は悪化し、配給が少なくなり、空襲警報が頻繁に鳴るようになる。

 

流れる日常を淡々としっかりと細部まで描いてゆく。井戸での水くみ、かまどの炊事、野草の料理、砂糖壺にたかるアリの群れ。ある時、幼い姪を連れて歩きながら、米軍の時限爆弾が穴の奥にあることに気付くが…。  

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 監督は片渕須直。原作は「夕凪の街 桜の国」の、こうの史代こうの史代は原作のあとがきでこう述べている。

 

「わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるのかどうかわかりません。他者になったこともないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかも知れません。…そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の『誰か』の『生』の悲しみやきらめきを知ろうとしました。」

 

すずに実在感を与えているのはやはり、印象深いシーンをつなげながら、一筋縄ではいかない人間というものを描きこんでいるからだろう。たとえばこんなシーンがある。

 

昭和19年12月、巡洋艦「青葉」がマニラで負傷し呉に寄港した。水兵として勤務する幼なじみの水原が一時休暇ですずを訪ねてくる。ほのかな思いが二人にはあり、しかしそれが交わらずにいる。納屋の二階で水原は言う。

 

「あーあー普通じゃのう あたりまえのことで怒って あたりまえのことで謝りよる すず、お前はほんまに普通の人じゃ」
「わしはどこで人間のあたりまえから外されたんじゃろう じゃけえ すずが普通で安心した …ずうっとこの世界で普通で…まともでおってくれ」

 

普通とは何だろう。目の前のことに一生懸命になって、小さなことに一喜一憂して、みんなで笑って、時に怒ってけんかして、泣いたりわめいたり…。普通に生きていることがとてつもなくありがたく見える世界が、幸せなものであるはずがない。

 

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 やがて広島と長崎に原爆が落とされ、敗戦。玉音放送を聞いたすずが怒り、叫ぶ。

 

「そんなん覚悟のうえじゃないんかね?最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?うちはこんなん納得できん!!!」

 

そして、ひとりふらふらと段々畑を上る。

 

「飛び去ってゆく。うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから我慢しようと思ってきたその理由が」

 

原作ではこのあとこう呟くのだ。

 

「ああ…暴力で従えとったいう事か じゃけえ暴力に屈するという事かね それがこの国の正体かね うちも知らんまま死にたかったなあ」                                                                                    

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とても大きく広いこの世界の、とてもちいさな片隅で、私たちは生きてゆく。なぜとも知らずに。物語の終盤、焼け野原の広島ですずはボロボロになった孤児と出会う。すがりつくその子の手をとって言うのだ。

 

「あんた…よう広島で生きとってくれんさったね」

 

思えば、幼なじみの水原に最後に渡した手帳にも「立派に成って呉れて有難う」と書き、夫にも「うちを見つけてくれてありがとう」と語った、すず。感謝するとは相手の存在を認めることだ。「生きていいんだよ」と語りかけることだ。そんな言葉を、出会った一人ずつに手渡すためにすずは生きている、と思う。

 

監督:片渕須直
原作:こうの史代この世界の片隅に双葉社

声の出演:のん
日本 2016 年
 
公式サイト 

http://konosekai.jp/

手紙は憶えている

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目覚めると横に妻の姿を探す老人。その妻は1週間前に亡くなっているが、眠るたびにその事実を忘れてしまう。90歳のゼヴ・グットマン。認知症である。妻の葬儀を終えた彼は、同じ老人ホームに暮らす友人から一通の手紙を受け取る。そこには驚くべきことが書かれていた。

 

2人はともにアウシュヴィッツを生き延びたユダヤ人であり、ゼヴは彼らの家族を殺した男に復讐を果たす約束をしたというのだ。妻が亡くなった今、約束を果たす時が来た。元ナチスのその男はルディ・コランダーという別名を名乗り、アメリカにいる。該当者は4人。ゼヴは手紙に書かれたとおりに拳銃を手に入れ、順番にルディ・コランダーを訪ねてゆく―。

 

アウシュヴィッツをテーマにした映画では異色の作品である。通常はナチスの非人間性、収容所の恐るべき理不尽さを当時の時点に立ちかえって訴えるものなのだが、この作品はあくまで70年後という現時点にこだわり、今にアウシュヴィッツがもたらす意味を問うている。監督は「スウィート ヒアアフター」のアトム・エゴヤン
             

「その時代特有のトラウマが、世代を超えてどのように屈折していくか。そこに一番興味がある。『手紙は憶えている』で掘り下げたテーマも、まさにそこなんだ。…これは第二次世界大戦という題材を、現在進行形の問題として描く最後の映画になるだろう。」

   

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復讐を果たそうとするゼヴに迷いはない。記憶が混濁する中、手紙を唯一のよりどころに、彼は様々なルディ・コランダーに出会うことになる。

 

印象深いシーンがある。何人目だったか、ある病院に入院しているルディ・コランダーを訪ねる。アウシュヴィッツにいたことを確認するゼヴ。「お前のしたことは許せることじゃない」と拳銃を取り出すが、その時ルディの腕に彫られた数字が目に入る。囚人番号だ。

 

「その数字はどうしたんだ?」

 

「…同性愛者だったんだ」

 

ゼヴは「すまないことをした。許してくれ」と泣き崩れる。病院のベッドに寝かされたルディの胸に顔をうずめ、しばらく泣き止むことがない…。

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映画は復讐を軸に進んでゆくが、実のところ記憶と忘却を巡る物語と言っていいだろう。現実でも、ナチスの罪を追求する動きは終わっていない。今年6月、94歳の元ナチス親衛隊の男が、アウシュヴィッツで17万人の殺害に関与していたとして、ドイツの裁判所で有罪判決を受けた。禁固5年の刑である。戦後酪農業を営んでいた彼は、犠牲者らに「申し訳ない」と述べこう語ったという。

 

「家族は私がアウシュヴィッツで働いていたことを誰も知りませんでした。私はそのことを口にすることすらできなかったのです。恥じていました」(AFP記事)

 

70年たっても糾弾を続けることの社会的な意味、それは決して忘れてはならないというメッセージだと思う
                                                            

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人間の肉体は衰え、認知症となりすべてを忘れようとする。社会も同じなのか、時がたてば過去は忘れ去られようとする。しかしゼヴは両方の意味でそれと闘う。混濁する意識に苦しみながら記憶の喪失にあらがい、旅を続ける。そしてついに決定的な過去を思い出す。最後のルディ・コランダーを前にこうつぶやくのだ。

 

「憶えている」

 

それは、忘却にあらがい続けた旅の果てにたどり着くことの出来る、ひとつの境地には違いない。ただ、それが幸か不幸かは別にして。

 

監督:アトム・エゴヤン
脚本:ベンジャミン・オーガスト
主演:クリストファー・ブラマー
カナダ=ドイツ 2015 / 95分
 
公式サイト 

http://remember.asmik-ace.co.jp/

永い言い訳

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妻に髪を切られながら毒づく中年男が映し出される。小説家の津村啓。彼は、妻が客の前で本名の「さちおくん」と呼ぶのが気に入らない。「面子が立たない」という。彼の本名は、衣笠幸夫。広島カープ往年の名選手衣笠祥雄と同姓同名だ。それが長く彼の人生に影を落としてきた、らしい。妻の夏子はそんなことで「面子がつぶれたりしない」と当たり前のことを言う。

 

ブツブツとなじる幸夫も幸夫だが、嫌がっているのに自分の好みだけであえてそういうことをする夏子も夏子である。お互いよく付き合っているなと感心する。幸夫には妻に対する憎しみさえ感じる。このあと夏子はバス旅行に出かけ、幸夫は愛人を家に引き入れる。そして翌朝、夏子を乗せたバスが谷底に転落する…。

 

原作の小説、脚本、監督は西川美和

 

「日常の中で、近くに居るひとのことをなおざりにし、小さな諍いを起こし、どうせ夜には帰ってくる、明日だってある、またいくらでも修復のチャンスはある、と思ってそのままあっけなく手の中からこぼれ落したような縁も、私自身人生の中ですでに経験をしています。そしてその苦い別れの経験は、多くの場合誰にも語られることはなく、残された人の胸の内で孤独にわだかまり、ひそかに自らを責め続け、いつまでも癒えることはないでしょう。」

   

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映画では夏子のことがあまり語られないため、一方的に幸夫が妻を憎んでいるように見える。亡くなってからも天国にいる妻に毒づく。いったい何なのかと思うが、想像するに妻のある態度がこの男を深く傷つけてきた。それを憎み続けているうちにふいに居なくなった。憎んでいるはずなのにその対象がいなくなってバランスを失う。つんのめる。あちこちぶつける。また人を傷つける。

 

事故後、幸夫は一緒に亡くなった夏子の友人の夫、陽一と知り合う。陽一はトラックの運転手で、2人の子供がいる。幸夫はなぜか(小説のネタになると思ったのか)長男の勉強を応援するために、週2回自分が妹の面倒を見ると提案する。幸夫と子どもたちのシーンはとりわけいい。子どもとはこんなにも愛しいものなのかと改めて感じさせる。だがやがて幸夫の中の「虫」がまたうずき始める。

 

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その「虫」とは言葉だ。言葉が体の中を這いずり回り、外部の何かに接するとうごめき毒となって吐き出される。言葉で世界を理解しようと悪戦苦闘し、言葉におぼれ、人がどう思おうと自分の言葉を吐き出さずにいられない。人がどう思おうと、という意味で「幸夫くん」とあえて呼ぶ夏子と同じである。

 

「虫」が暴れて人も自分もさんざんな目に会ったある時、幸夫は言う。

 

「自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。そうしないと、ぼくみたいになる。ぼくみたいに、愛していい人が誰もいない人生になる。」

 

そして一人夜の客車にうずくまりながら書きつけるのだ。

 

「人生は○○である。」   (○○は映画で確認してもらえればと思います)

             

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それにしても題名の「言い訳」とはいったい何の言い訳だろう。
結婚した当初の愛情が続かなかったことの?
亡くなってもなお憎しみが消えないことの?
人生は○○である、なんて言葉で理解したつもりになることの?
関係をつなごうとしないのにやはりひとりではいられないことの?
そのためにまた人を傷つけることの?
でも生きていることの?
それでも生き続ける人間というものの?

 

生きていることは誰かに対する永い言い訳である。それが誰か、は重要ではない。その誰かが存在することが重要なのだと映画は告げている。

 

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原作・脚本・監督:西川美和
主演:本木雅弘深津絵里、竹原ピストル
日本 2016 / 124分

 

公式サイト 

http://nagai-iiwake.com/

淵に立つ

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止め忘れたオルガンのメトロノームが感情をざらつかせる。時の流れは味方にならない、と映画は最初に告げている。

 

山形のとある町で零細な工場を営む鈴岡のもとに、古い友人が訪ねてくる。刑務所から出てきたばかりの八坂だ。二人は何か因縁があるらしくその日から住み込みで働くことになる。家族は妻と小学生の女の子。最初は戸惑う二人だが、八坂の丁寧な物腰もあって次第に受け入れてゆく。だが…。

 

舞台が家族であるから「家族」がテーマと言われるが、家族でなくともいい。これは人間「関係」の深淵を覗き込むような恐ろしい映画だと思う。監督は深田晃司。

 

「私が描きたいのは家族の崩壊ではなく、もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣にいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなものです。」       

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突然の闖入者である八坂も不気味な人間だが、鈴岡はもっと不気味である。一見してごく普通であるのに、この不気味さは一体どこからきているのだろうか。

 

過去に犯した罪の意識が澱のように溜まって心に暗い穴を開けた。そのためにまともな人間関係を拒否するように生きている、ように見える。表面上はそこまで変ではないのだが、微妙な間合いによってそう感じさせる。その暗い穴と、一見の普通さとのアンバランスが不気味なのだ。演じるのは古館寛治。

 

「僕が面白いと思った点一つ挙げるとすれば、人間がいかに過去に操られて生きているかが描かれていると思いました。つまり、人生はその人の行動によって出来上がっているということです。」

 

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鈴岡は過去の時点で友人であったある男との「関係」によって半生を左右される。同時にまた、そうした鈴岡と「関係」を持ってしまったがゆえに、妻と娘は逃れがたい苦しみの中に生き続けることになる。「関係」は「関係」でつながり複雑に捩れあって身を縛る。

 

恐ろしいのは、八坂は後半、不在であるにもかかわらず、その存在を決して忘れられないようになってしまうという構造だ。時間は多くの物を押し流すが、この映画で時間に押し流されない「関係」のあることを、くっきりと浮き立たせてしまう。逃れられない「関係」の恐ろしさ。しかしそれでも孤独であることを選択できない人間という存在。

 

過去から逃げることができず、利己的であることで暗い穴から身を守ってきたともいえる鈴岡だったが、やがてある事柄から、その理不尽さに肉体がもだえ咆哮する。その咆哮は時を刻むメトロノームと重なり、やがて時間の中に消える。  

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脚本・監督・編集:深田晃司
音楽:小野川浩幸

英題:HARMONIUM
日本・フランス 2016 / 119分


公式サイト 

http://fuchi-movie.com/

レッドタートル ある島の物語

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暴風雨に会い、浜に打ち上げられた男。気づくとそこは無人島だった。男は竹を刈って筏を作り、島を出ようと試みる。しかし、何者かが邪魔をして何度も島に逆戻りしてしまう。ある時、その犯人が大きなウミガメだと気づいた男は、怒って浜に上がったウミガメを仰向けに転がすが…。

 

とてもシンプルな筆致のアニメーションである。監督はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットアカデミー賞短編アニメーション映画賞を受賞した「岸辺のふたり」を見たジブリ鈴木敏夫プロデューサーが制作を依頼した。高畑勲監督と議論しながら10年の歳月をかけたという。

 

「無人島にいる一人の男の題材は、私がずっと温めていたもののひとつでした。このような題材はありふれていますが、私はこういった典型的なものが好きなのです。ただ、無人島にいる彼がどのようにして生き延びたのかという話には興味がありませんでした。今回の映画では、それ以上の何かを描きたかったのです。」(監督インタビューから)        

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谷川俊太郎がこの映画に寄せた詩があり、一部映画のコピーに使われている。

 

どこから来たのか
どこへ行くのか いのちは?

 

人間にとって永遠の謎は、なぜ自分は今ここに生きているのか、ということだろう。誰にもわからないがゆえに何度も反芻される。

 

そういえば昔公園で、アリの動きを飽かず眺めていたことを思い出した。人間のいのちは個別のものだが、どんどんカメラがひいて俯瞰してゆくと、人間は個別の存在ではなくなり「人間」となる。そして人間のいのちは、なにか大きな流れの中の一部のように見えてくる。映画はそのようないのちの本質を伝えようとしている。だから監督はこのように語っているのだ。

 

「人間は死に抗い、それを恐れ、戦いますが、これは健全で自然なこと。それなのに、私たちは生命の純粋さや、死に抗う必要がないことを美しく直感的に理解しています。」

 

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個別のかけがえのなさを持ちながら、かつ全体の一部である。これは矛盾しているのか、それとも…。映画に答えはない。ただ人は個別でないと生きてゆけないが、一人でも生きてゆけない。存在のかなしみとはこのことだろう。映画では、そこに現れるもう一つのいのちが限りなく美しく、名前のない男の生をまさに個別のものにしているのだ。


谷川俊太郎の詩の続きはこうだ。

 

空と海の永遠に連なる
暦では計れない時
世界は言葉では答えない
もうひとつのいのちで答える

 

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原作・脚本・監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット
音楽:ローラン・ペレズ・デル・マール
日本・フランス・ベルギー 2016 / 81分
 
公式サイト 

http://red-turtle.jp/credit.html

怒り

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八王子の住宅街。ある一軒家に夫婦の惨殺死体が見つかる。壁には犯人が血で書いたと思われる「怒」の文字が…。1年後、犯人は整形を繰り返しながら逃亡を続け、日本の各地で、犯人の特徴を持つ男たちが現れる。

 

千葉の漁師町に住み着いた素性の知れない男。東京の盛り場をうろつく心優しいゲイの若者。沖縄の無人島で野宿するバックパッカー。この中に犯人がいるのかいないのか、3人とも犯人の指名手配写真と似ている。映画は、彼らと出会ってしまった人々の物語である。

 

原作は吉田修一。監督は李相日。「悪人」と同じコンビだが、今回脚本は李監督一人で書いたらしい。原作者の吉田修一が語っている。

 

「僕が李監督との会話の中で聞いたすごく好きな言葉があるんです。こちらが映画ってクライマックスに至るまでの流れってあるじゃないですか、みたいな話をしているときに、『いや、僕は全シーンをクライマックスとして撮りたいんです』って。『怒り』を観たときにまず思い出したのが、その言葉でしたね。本当に最初から最後までテンションが一切緩むことなく張りつめている。」

 

全編クライマックスシーンが果たしていい映画なのか、と言う疑問はあるが、圧倒的な熱量を湛えた映画という印象は残る。これだけの熱量の映像をまとめ切ったというのもすごいことなのだろう。ただ、ストーリーを進めるのに忙しく、余分なものをそぎ落としてしまっているために、リアルな物語にもかかわらず印象が寓話的である。いいも悪いも、まるでこれから始まる長い、長い物語の予告編のような。
   

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犯人の山神一也は犯行現場に「怒」の文字を遺した。怒りとは何か。それがこの映画の根本的なテーマなのだろう。李監督は語っている。

 

「この映画は<怒り>について特定の答えは明示していませんが、例えば犯人の山神に関しては、彼自身が<怒り>という怪物に全存在を支配されてしまった。紙一重で誰もが心の中に、発露できない怒りの火種を抱えて生きている。私たちは自分や、他者の奥底に漂う<眼に見えないもの>とどう向き合うべきなのか。」

 

自分の思い通りにならない苛立ちと、怒りは違う。怒りは人間になくてはならないとてもまっとうな感情だと思う。人は自らを守るために、時に相手を攻撃しなければならない。そのために必要な感情なのだろう。ただ統御することが難しいため、時に負の感情になり、時に正の感情になる。

 

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沖縄編ではこのテーマが際立つ。広瀬すずが演じる泉(いずみ)とそのボーイフレンド辰哉が、那覇で米軍基地反対のデモを見守るシーンがある。辰哉の父親が熱心な運動家なのだ。デモに参加する人々には、まっとうな怒りがある。しかし辰也は都会から来た泉に恥ずかしそうに言う。

 

「こんなことで何も変わらんさ。」

 

2人はその後、変わらない現実に打ちのめされる。泉はある事件に巻き込まれ、怒りさえ抱けぬほどに長い放心の日々を過ごすことになるのだ。

 

やがて、あることをきっかけに彼女は行動を起こす。そして離島の砂浜を彷徨いながら、咆哮する。何度も、何度も叫び続ける。その叫びは、彼女の中に生まれた「怒り」であり、それは、彼女が再び生きなおすための力となるまっとうな怒りである、と思う。

 

監督・監督:李相日

原作:吉田修一「怒り」(上下・中公文庫)

音楽:坂本龍一

主演:渡辺謙森山未來松山ケンイチ綾野剛広瀬すず宮崎あおい妻夫木聡

日本 2016 / 142分

 

公式サイト 

http://www.ikari-movie.com/

アスファルト

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フランスのとある郊外。今にも崩れそうな団地の一室に住民が集まっている。老朽化したエレベーターを補修すべきかどうか、話し合っているのだ。ほぼ全員が賛成したが一人だけ反対した住民がいる。2階に住む中年男のスタンコヴィッチだ。今までエレベーターを使ったことがない、使わないものにお金を出したくないという。「団結と言うことを知らないのか」となじられるが、結局お金は出さない代わりにエレベーターを使うな、と約束させられた。ところがある時、彼はひょんなことから車いすで暮らす羽目になってしまう…。はてさて。

 

映画はこの団地に住む3人の男女が、それぞれ誰かと出会う物語だ。車いす生活になってしまったスタンコヴィッチをはじめ、引っ越してきたばかりの落ちぶれた女優、なぜか団地の屋上に不時着した宇宙飛行士をかくまう羽目になった主婦。
監督はサミュエル・ベンシェトリ。小説家でもあるらしい。自身が書いた2つの短編にもうひとつエピドードをくわえて脚本化した。

 

「一言でいうなら『落ちてくる』3つの物語、といえるだろう。空から、車いすから、栄光の座から人はどんなふうに“落ち”、どのように再び上がっていくのか。」

           

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落ちてきた宇宙飛行士の若者はアメリカ人で、主婦とは言葉が通じない。主婦には同じ年頃の息子がいるが、服役中でひとり暮らし。寂しさを紛らわすように若者に好意を寄せる。得意のクスクス料理を食べ、片言で会話を交わす二人。宇宙はどんな感じ?と聞くと、飛行士が絵を描きながら答える。

                                                         

「宇宙は海の底のようなものさ。暗闇に囲まれてる。…ギリシャでは、星は天の穴というそうだ。そこには目があって我々を見ている。」
「神ね。」
「そう…神だ。こういう考え方が好きなんだけど、…つまり、暗闇の背後にはまぶしい光があるんだ。」

 

英語が分からない主婦にはおそらく最後の言葉はわからない。だが、言葉では伝わらないことがいい。闇の背後に別の世界があるというイメージ。私たちは闇から抜け出すことは困難なのだけれど、そう思うだけで心が静かに満たされる。その思いが二人に共振する。

 

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三人が三様に孤独であり、出会う人もまた孤独。しかしそれぞれがなぜか惹かれあう。老女優を演じたイザベル・ユペールはこう語っている。

 

「映画全体が孤独がひとつのテーマになっていると思う。孤独が何かのきっかけで表に出て、そしてそれが感動を呼ぶ。それがこの映画の成功の理由ね。それぞれの登場人物が何かしら傷を持っているということなの。」

 

映画の所々で、何かがきしむような不穏な音が流れる。誰もが気に掛けるが、誰もそれが何かを知らない。孤独とはこの不可解な音のようなものかもしれない。ある人は子供の泣き声のようだと言い、ある人は虎の唸り声のようだという。事実は大した問題ではない。聞こえたと人に話すこと。それをきっかけに生まれる想像。話すことで孤独ではなくなる。孤独について話すことで人は孤独でなくなる。

 

こういう物語ってなかなかないけどあってもいいよね、と思わせるうまさがある。そして、見終わった後は静かな勇気をもらえる。素晴らしい映画だと思う。                        

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監督:サミュエル・ベンシェトリ

脚本:サミュエル・ベンシェトリ、ガボル・ラソフ

主演:イザベル・ユペール、ギュスタヴ・ケルヴァン、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ

フランス 2015 / 100分

 

公式サイト 

http://www.asphalte-film.com/