映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ムーンライト

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マイアミ。麻薬地区と呼ばれる一角。瓦礫のようなアパートで、売人のファンはある男の子を見つける。女の子のような繊細な雰囲気をもつその子は、仲間からのいじめにあい、その場所に逃げ込んでいたのだ。ほとんど何も話さずうつむきがちな男の子。名前はシャロン。あだ名はリトルという。

 

シャロンは“おかま”といってからかわれていたのだが、彼はその意味も知らない。ファンはそんなシャロンを気にかけ、何かと面倒を見ようとする。マイアミのビーチでシャロンに泳ぎを教えるシーンが美しい。海面すれすれのカメラがとらえるシャロンは、驚くような戸惑うような不思議な表情をして、未知の世界を感じ取る。ファンは、自分が子どもの頃に言われた言葉をシャロンに伝える。

 

「月明かりの下でお前たちの肌は青く輝いて見える」

 

映画はシャロンが思春期を迎え、大人になるまでを3部で構成されている。それぞれに違う役者が演じるが、同じ雰囲気の「目」を持つ役者を選んだという。監督は長編2作目のバリー・ジェンキンス

 

「私自身、黒人やゲイの映画と思って作っているわけではなく、人物そのものを描いている。黒人であることは私の大きな一部だが、映画の全てではない。…人の心の奥底にいつも渦巻いている感情の変化を、見る人がたどれるような物語を作りたいと思った」(朝日新聞インタビュー)

   

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いじめられっ子のシャロンは高校生になっても変わらない。母親の麻薬中毒は次第に度を増してゆく。唯一心を許せるのが幼なじみのケヴィンだ。ある夜、月明かりの浜辺で偶然出会い語り合う。この映画の美しいシーンにはいつも海の匂いがある。そして頬を撫でる風がある。ケヴィンが言う。

 

「俺たちのところでもこんな風が吹く。風が吹くとみんな静かになる。風を感じたくて。」

「心臓の音しか聞こえないんだろ。」

「そうさ。」

 

シャロンはこの夜のことを後々まで忘れることがない。

 

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シャロンはあることをきっかけに、ケヴィンと離れる。そして生まれ変わる。生きてゆくために。やがて麻薬の売人となってのし上がったシャロンに、ある日ケヴィンから電話がかかる…。

 

どんなに外見が変わり、社会的な立ち位置が変わろうとも変わらないものがある。己が人生で本当に望んでいるものだ。それを守るために人は深い孤独を生きなければならない。そしてある時、その柔らかな生の心を差し出す時が来る。おずおずと。人生のほとんどすべてを掛け金にして。映画はそのことを静かに伝え、月明かりの中で終わる。 

 

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監督・脚本:バリー・ジェンキンス
主演:トレヴァンテ・ローズ、マハーシャラ・アリナオミ・ハリス
原案:タレル・アルバン・マクレイニー
アメリカ 2016 / 111分
 
公式サイト

http://moonlight-movie.jp/index.html

汚れたミルク あるセールスマンの告発

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回想は自らの結婚式で始まる。パキスタンの下町。自宅に花嫁を迎えたアヤンは、2階の部屋から隣家に声をかける。窓越しに隣家のテレビでインド映画を見るのだ。パキスタンの庶民の暮らしなのだろう。窓の前に二人並ぶ姿がなんとも慎ましい。

 

アヤンの仕事は製薬会社のセールスマンだ。国産の薬は医者に受けが悪い。アヤンは思い切って多国籍企業の試験を受け合格する。与えられたのは粉ミルクを病院に納品する営業だった。持ち前のセールスセンスと企業の資金で、着実に医師たちに食い込んでゆくアヤン。ある時、自分が売っている粉ミルクを飲んだ乳児が、死亡する事件が相次いでいることを知る。アヤンは仕事をやめ企業を訴えようとするのだが…。

 

映画はパキスタンで起きた実話だそうだ。パキスタンの貧しい地域では、粉ミルクを不衛生な水で溶かして飲ませるため、乳幼児が死亡してしまう。企業はそれを知りながら買収した医師を通じて粉ミルクを売り続け、今も子どもたちが亡くなっているという。

                                         

監督は「鉄くず拾いの物語」のダニス・タノヴィッチ。

「映画の中で述べたように、これは昔からの問題で、いつまでも繰り返されています。粉ミルク製造業者は、粉ミルクを与えられた赤ん坊が、母乳を与えられた赤ん坊より病気になりやすいこと、貧困の場合死ぬ可能性が高まることを知っています。それでも事態は変わらないのです。」
  

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アヤンはなぜ大企業を訴える勇気を持ち得たのか。

 

「自分の信念に背く夫を尊敬できない」

 

と妻に言われたからだ。シンプルな話だ。アヤンは一人ではない。父と母、妻、そして小さな娘。それらの関係の中でアヤンは生き方を定め、行動する。その意味でこれはアヤンの家族の物語でもある。

 

アヤンは自らと家族の身に危険が及ぶと、人権組織に助けを求める。人権組織はドイツのテレビ局を通じてこの問題を世界に知らしめようとするのだが、アヤンのある秘密が暴露され、放送は中止になってしまう…。

 

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この問題が今も続いていることに驚くが、その要因の一つはマスメディアが報じないということにあるのだろう。ドイツのテレビ局はアヤンの秘密を知って放送を中止したというが、アヤン抜きでも調査報道は出来た筈だった。しかし中止したのは相手が巨大企業であったからだ。この映画も、大きな枠として映画製作者たちがアヤンの証言を聞くという構成になっている。客観的な視点をあえて入れ込まないと訴えられるというのが理由のようだ。

 

この映画のパンフレットに載せられていた言葉が、とても印象に残っている。

  

「巨悪として描かれる企業だが、その一人ひとりの保身や怒りや正当化や諦めは、どれも経験あるなじみ深い感情だった。悪とは目をつぶる弱さの集合体なのだ。」
(末永絵里・乳児用液体ミルクプロジェクト代表)

 

私たちは小さな存在に過ぎない。それでも目を開き小さくでもつぶやく勇気が持てれば、と思う。

 

監督:ダニス・タノヴィッチ
主演:イムラン・ハシュミ
原題:Tigers
インド・フランス・イギリス 2014 / 94分
 
公式サイト

http://www.bitters.co.jp/tanovic/milk.html

彼らが本気で編むときは、

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小さなアパートの一室、洗濯物をたたみ終わると、テーブルに置いてあるコンビニおにぎりを食べる女の子。11歳のトモ。夜中に帰ってくる母親は酔って吐きながら眠ってしまう。いつものことなのか、寝起きの母親を残して学校に行く。しかしやがて母親は帰ってこなくなる。

 

困ったトモが頼れるのは母親の弟。つまり叔父さんのマキオだ。職場に行くと歓迎してくれたが、今はひとり暮らしじゃないという。ちょっと変わった同居人がいるらしい。そんなマキオの部屋でトモを待っていたのは、トランスジェンダーのリンコだった。それから3人の、奇妙であたたかな共同生活が始まる。

 

監督は「かもめ食堂」の荻上直子。新聞で、あるトランスジェンダーの女性の話を読んだのがきっかけだったという。

 

次男として生まれた彼女は、幼少期から可愛いものや女の子用の服を欲しがった。中学に入り『おっぱいが欲しい』と明かされると、彼女の母は、『あなたは女の子だもんね』と胸につける『ニセ乳』を一緒に作った、と記事にあった。そこには、女の子になった息子を自然のこととしてしっかり受けとめる母がいた。」

                    

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マキオは、介護施設で母親をていねいに洗う職員のリンコを見て、その美しさに一目惚れしたという。リンコはもともと男性として生まれた、ということを知ったのはそのあとのことらしい。そんなこともあるのだ。マキオは言う。

 

「リンコみたいな性格の人に惚れちゃったらね、それ以外のことはどうでも良くなっちゃうんだ。男とか、女とか、そういうことももはや関係ないんだ。」

 

映画を見ながら、「リンコみたいな性格」、すなわち「美しい性格」とはどういう性格なのかについて考えていた。他人に対する思いやりのあること、愛情の深いこと、そして考えられるのは、無私であること。「私」を捨てることの出来る人は美しい。しかしリンコは決して無私なひとではない。「私」の性に徹底的にこだわった末に行きついた生き方なのだから。しかし、逆にそこだけにこだわりぬくことで、あとのことは「無私」になることができるのか。

 

先日新聞を読んでいたら、哲学者の池田晶子氏の次の言葉が紹介されていた。

 

「君が自分を捨てて、無私の人であるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。真実だよ。」(「14歳からの哲学」)

 

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リンコはトモに愛情を抱き、やがて自分たちの子どもとして育てたいと考えるようになる。しかし乗り越えるべきハードルは多い。そんなとき、トモの母親が姿を現す。

 

荻上監督は語っている。

トランスジェンダーであっても心が女性であれば、子どもができたら母性がわいて、母と子という関係性が生まれてくる。今回一番描きたかったことはそれなんです。…そして、リンコのなんということのない日常を丁寧に描くことで、その延長線上にある『誰もが持っている孤独感』を出せればと思いました。」

 

トランスジェンダーの人が、決して美しい性格の人ばかりというわけではないだろう。しかし、黙って編み物を続けるリンコの横顔には、必要以上に傷つき、悲しみ、憤り、それでも「私」を捨てることができなかったひとりの女性の、近寄りがたい「孤独」が滲んではっとさせられる。

                

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監督・脚本:荻上直子
主演:生田斗真、桐谷健太、柿原りんか
日本映画 2017 / 127分

 
公式サイト 

http://kareamu.com/

 

海は燃えている 

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地中海。イタリア最南端の島、ランペドゥーサ島。海岸沿いの松の木が低い枝を四方に長く伸ばしている。11歳の少年サムエレは枝の錯綜する頭上に小鳥を探している。やがて小さな枝を折るとナイフで削り始める。パチンコを作るのだ。

 

サムエレは友だちにパチンコの作り方を得意げに語る。「木は松がいい」と。二人は海岸沿いに生えるサボテンの葉に穴を開け、人の顔に見せる。それらをめがけてパチンコで撃ち合う。サボテンは面白いように砕ける。サボテンの笑った顔がゆがむ。

 

島の住民は5500人。人々は漁で生活している。しかし、年間5万人を超える難民・移民がアフリカなどから押し寄せる。この島のセンターを通じてヨーロッパ大陸へ渡るのだ。しかしサムエレが彼らと交わることはない。映画は、この島に移り住み1年半の歳月をかけてその日常を記録した。

 

監督はジャンフランコ・ロージ。

 

「距離は近いはずなのにコミュニケーションがとれないのです。その図式はヨーロッパのメタファーのようだと思いました。」

                      

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難民たちがのるボートからは、救助の要請が無線でひっきりなしにくる。

 

「今の位置は?」

「助けてください。小さな子どもがいます…」

 

やってくる難民の状況はひどい。救助艇が近づくと極度の脱水症状で動けなくなった男たちが何人もいる。中には死体となった人も。まさに命をかけて大陸を抜け出してくるのだ。

センターではアフリカの男たちが、これまでの来し方を歌うように語っている。

 

…ナイジェリアから逃げてきた。砂漠にのがれたが脱水症状で俺たちはみな自分の小便を飲んだ。俺たちは自分の小便を飲んだんだ。リビアの監獄ではいつもいつも殴られた。そして海に出たんだ。海に出たからこうして助かった。仲間はほとんど死んだが、俺はこうして助かった…

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ジャンフランコ・ロージがこの映画を撮るきっかけとなったのは、島に住む一人の医師ピエトロ・バルトロとの出会いからだという。彼はこの20年間、救助された移民・難民の上陸にすべて立ち会ってきた。

 

「一時間半ほどの濃密な話し合いのあと、彼はコンピューターのスイッチを入れ、私が移民・難民の悲劇に『自分の手で触れるよう』、これまで誰にも見せたことのないいくつかの写真を見せてくれました。胸の張り裂けるような写真でした。…私はランペドゥーサ島に引っ越し、古い港の小さな家を借りました。私はこの悲劇を島民の目を通して語りたかったのです。」

 

バルトロ医師のもとにある日、サムエレ少年がやってくる。視力検査をすると左目をほとんど使っていなかったことが分かる。視力を回復するため、右目をマスクして左目を鍛えるようにと言われる。しかし左目だけだと何度打ってもパチンコが的に当たらない…。

 

漁師の父親からは「パチンコばっかりしてないで、胃を鍛えろ」と言われるサムエレ。実は父親の船に乗り、酔って吐いてしまったのだ。「早く一人前の船乗りにならないとな」。親子でスパゲティを黙々と食べる姿が、不思議と愛おしいものに感じられる。

             

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ドキュメンタリーで、撮影者の存在をほとんど感じさせない映画を久しぶりに見たような気がする。カメラがいることをあえて無視するのは逆に不自然、という考えからか、最近の多くのドキュメンタリーは取材相手とカメラとの関係性を軸に展開する。

 

しかしジャンフランコ・ロージはあえて取材者の存在を隠す。そのことで1カット1カットが独自の緊張感を帯びている。それが現実のドキュメントでありながら詩的な余韻を残す要因だろう。そして濃密なカットは、撮影されなかった膨大な現実を想起させる。これほどのドキュメンタリーになかなか出会えるものではない。

 

「いかに撮るかでなく、いかに見逃すかが重要なのです。」

 

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ロージ監督は来日した時の記者会見で、バルトロ医師の言葉を紹介した。なぜランペドゥーサがここまで、島にやってくる人々を受け入れるのか、と監督が問うた時のことだ。

 

『ランペドゥーサは漁師たちの島で、漁師たちは海からくるものを受け入れるからだろう。』

 

そしてこう語っている。

 

「これは美しい言葉だと思いました。未知への恐怖を受け入れる。彼らから魂を学ぶべきではないでしょうか。」

 

未知なるものを受け入れることが成熟である、ということか。少年サムエレは桟橋につながれた小舟に揺られながら、船酔いに備えてからだを慣らす。やがて左の視力が少し回復する。「もう少しだ、もう少しだ」とつぶやく。

 

監督・撮影:ジャンフランコ・ロージ
イタリア・フランス 2016 / 114分
 
公式サイト

http://www.bitters.co.jp/umi/

ブラインド・マッサージ

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中国、南京。繁盛するマッサージ院にある日、恋人を連れた王(ワン)がやってくる。院長と幼なじみの王はここで働くため、深圳からやってきたのだ。寮で寝泊まりしながら働くマッサージ師はすべて盲人。王とその恋人、孔(コン)の出現は、このマッサージ院にちょっとした波風を立てる。

 

若い小馬(シャオマー)が、ひょんなことから孔に触れ、女性の匂いに目覚めるのだ。ことあるごとに孔に触れようとする小馬。心配した先輩が、小馬を風俗店に連れてゆくのだが…。

 

この映画は、あるマッサージ院で働く盲人たちの、それぞれの恋愛の断片を描いた群像劇だ。たとえば客から美人と評判の都紅(ドゥホン)。客の声を何度も耳にする院長の沙(シャー)は、都紅の“見えない”美しさに惹かれてゆく。ある時都紅に近づき、その思いを告げる。

                      

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「目が見えないことで、今まで自分が惨めだと感じたことはない。しかし今、君の美しさを知ることができない自分を惨めに感じる。知りたいんだ。君が持つ“美”を。」

 

沙は都紅の顔を、手のひらと指で撫でてゆく。“美”を指先で捕まえようと。しかし沙が触れている都紅の肌、顔の輪郭は、はたして都紅の“美”なのか。目に見える美しさは、見えないものにとって一体どんな意味があるのか。都紅はこう言い放つ。

 

「あなたは私を愛していない。目が見えない女ほど、愛を見抜くの。」

 

監督は中国の俊英、ロウ・イエ

「(この作品は)現実の世界とのかかわりを暗喩(メタファー)として描いた作品だと言われることがありますが、目が見えない世界というのは、暗喩(メタファー)の世界なんかよりも奥が深くて、すごい世界ですよ。」

 

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先輩に連れられた風俗店で、マンを紹介された小馬。何度も通ううちそれはやがて恋愛感情に変わる。頻繁に通いすぎて警察の摘発の巻き添えを食う。ほかの客がいると知って部屋に乗り込み逆に散々に殴られる。とにかく小馬という男は一途だが、マンも次第に惹かれてゆき…。

 

作品中に盲人の声を代弁するようなナレーションが時折入る。そのなかに、小馬とマンのことを語るこういう言葉があった。

 

「運命は目に見えないから、盲人のほうが敏感にそれを感じ取る」

                      

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そして別のところでこういう言葉も。

 

「盲人にとって健常者は別の種類の動物だ」

 

目が見えないことは欠落ではない。この世には2種類の人間がいるのだ。目が見えない人間と目が見える人間。それぞれがまったく違う世界を生きている。そのことの生きづらさと、裏返しの誇り。映画はそれらを容赦なく映し出し、びりびりと見るものの感情を波立たせる。

 

監督:ロウ・イエ
原作:『ブラインド・マッサージ』ビー・フェイユイ著 白水社
主演:ホアン・シュエン、ホアン・ルー、メイ・ティンほか
中国・フランス 2014/115分

 

公式サイト

http://www.uplink.co.jp/blind/

人生フルーツ

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愛知県春日井市高蔵寺ニュータウンの一隅に、とても小さな雑木林がある。モミ、カエデ、ナラ、シイ、ケヤキ…。林の中を覗いてみると、その奥にはキッチンガーデンが広がる。野菜70種、果物50種。そしてぽつんと平屋建ての家屋。ここに住んでいるのは津端修一さん、英子さん夫婦。二人合わせて177歳。この映画は二人の2年間を記録したドキュメンタリーである。

 

津端修一さん(90歳)は建築家。平屋はなんと32畳のワンルームで吹き抜け。敬愛する建築家アントニン・レーニン氏の自邸を模して建てたという。自給自足で、多くを手仕事でまかなう生活。大変なことも多いだろうが、日々が充実していることは二人の表情を見ていると伝わってくる。映画では詳しく紹介されなかったが、出来得れば、野菜の種を植え、芽が出て、その成長を見守る日々の姿も追ってほしかったと思う。英子さんはある本でこんなことを語っている。

 

「毎日見回って、出てきた葉っぱを触ってあげることが大切なの。そうすると気持ちが伝わるのか、不思議と応えてくれるみたい。」(「ききがたり ときをためる暮らし」)        

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なぜ高蔵寺ニュータウンなのか。それは修一さんの仕事に関わっている。修一さんは日本住宅公団で、戦後の高度成長期に多くの宅地造成の計画に携わった。高根台団地、阿佐ヶ谷住宅、赤羽団地などだ。映画を見て、こんな非効率な暮らしをする人が、どうして効率住宅ともいえる団地を造っていたのか、まったく不思議だった。ただパンフレットにはこんなことが書いてあった。

 

「ツバタ君が入ってきて、団地は無機的から有機的へと方向を転換した」(建築家・藤森照信氏が聞いた話)

 

有機的とは建物の配置や道路の曲線、緑の多さなどのことらしい。そして公団のエースとして任されたのが高蔵寺ニュータウンだった。当初「道路以外は全部山で、山に沿って家を建てる」計画が、結局は山を平らにして住宅地を造成することになった。大きな挫折だ。

 

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「計画通りにはこの進まなかったこのニュータウンと、どうかかわっていったらいいのかと、ある時期までずいぶん悩んでいました。」(「ききがたり ときをためる暮らし」)

 

そしてたまたま、修一さんの母が老後のためにとニュータウンの一隅に購入していた300坪の土地を譲り受け、「自分が食べる野菜を、自分の庭で作る」ことを始めたのだ。50歳を過ぎた頃だった。

 

「自分が手がけたニュータウンを、自分ならどう生かせるのかをやってみようと。その取り組みの様子を、みなさんに見てもらえればいいと。そう思うと、深い霧がすっと晴れるように、なんだか元気が出てきたんですよ。」(「ききがたり ときをためる暮らし」)        

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その言葉通り、私たちはその生き方を見ることで、自分の「暮らし」の在り方について考えさせられている。結婚したばかりの頃、修一さんは英子さんにこう語ったという。

 

「自分ひとりでやれることを見つけてコツコツやれば、時間はかかるけれども何か見えてくるから、とにかく自分でやること」

 

監督は東海テレビの伏原健之。テレビ番組として制作され映画公開された。プロデューサーは阿武野勝彦。阿武野はタイトル「人生フルーツ」を思いついた瞬間をこう書いている。

 

「苦しんだ末、風呂に浸かっている時にプカーッと浮かんだ。湯気に煙る鏡に指で書いたら、字が涙のように流れた。…次の日、紙に筆ペンで大きく『人生フルーツ』と書いて、スタッフに見せた。しかし…。嘲笑に近いポカーンと抜けたような表情をしたスタッフ…。私は大いに傷ついた。」

 

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人生フルーツはいいタイトルである。フルーツは何より幸福をイメージさせる。そして甘いだけでも酸っぱいだけでもない複雑な味わいが、この老夫婦にぴたりとくる。甘くもあり酸っぱくもある、巷の人生のすべてが幸福でありますように。

 

監督:伏原健之
プロデューサー:阿武野勝彦
ナレーション:樹木希林
日本映画 2016 / 91分
 
公式サイト 

http://life-is-fruity.com/

沈黙 -サイレンス-

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長崎、雲仙。熱湯の温泉を体に浴びせられる外国人たち。肌が赤く灼け呻き声が地に満ち、地元で地獄と呼ばれる風景がまさにそこにある。江戸のはじめ、キリシタン禁制の時代に日本に来た宣教師たちだ。

 

多くの宣教師は拷問の末殉教するか、または棄教した。その中に長老のフェレイラ神父もいるという。フェレイラは不屈の信念を持つといわれる日本布教の責任者だ。そんな人がまさか棄教するはずはない―。若い宣教師ロドリゲスとガルペは、師フェレイラの消息を求めて日本に密航する。

 

隠れキリシタンたちに匿われ、ひそかに布教を行う二人だったが、やがて役人たちに見つかり、信徒たちは拷問死、自らも捕縛され棄教を迫られることになる。

 

なぜ信徒たちはこれほど苦しまねばならないのか。なぜその問いに神は答えないのか。映画は若いロドリゲスを主人公に、信仰と現実の苦悶の板挟みに揺らぐ姿を描いてゆく。                                                        

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原作は遠藤周作。監督はマーティン・スコセッシ。監督はこれまで様々な作品を通じて「信仰」の問題を考えてきたという。

 

「私は自分自身の信仰について葛藤がありました。信仰の意味を本当に理解しているのか。敵に屈するとはどういうことか、心が弱いとは何を意味するのか、自分の弱さを克服して再び強くなるとはどういうことなのか、が分からなかったのです。これら全てのコンセプトはロドリゲスという作中人物に集約されるわけです。」

 

役人の井上筑後守はロドリゴをすぐに拷問にかけるわけではない。かわりにいくつかの問いかけを行う。

 

「そもそも日本にはキリスト教は根付かない。なぜ無理して布教するのか。」

 

「殉教は宣教師の栄光だろうが、それに巻き込まれて多くの信者が死に、苦しむ。災いをもたらしているのは宣教師ではないのか。」

 

そして、「穴吊り」の拷問に昼夜苦しむ信者のところに連れてゆき、もし棄教すれば、彼らを助けると言うのだが…。

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映画は原作にほぼ忠実に作られている。ただその中でキチジローという男だけが少し印象が違う。キチジローは家族を見捨て自分だけ踏み絵をして命が助かった男だ。原作では弱きものの代表で卑しい人物として描かれる。あるいは誰の心にもある弱さの象徴として。そしてそのように強くない我々が、まっとうに生きていくにはどうすればいいのか、と問いかける。

 

しかし映画では、キチジローは卑しく見えない。弱くはあるが卑しく見えないのだ。なぜなのか。それは、演じた窪塚洋介のまなざしの強さのせいだと思う。むしろ、卑怯な行いを続けながらロドリゲスのそばを離れず信仰を捨てない彼が、妙に好もしく見える。

 

窪塚はあるインタビューでこう語っている。

 

遠藤周作さんは彼を弱き者として描いているけれど、おれは正直言うと、すごく弱いんだけど、強さの裏返しみたいな部分があると思ってました。よくその空気の中でそんなに何度も踏み絵踏めるなっていう。『逆に強くねえかお前』っていう思いにもなったんです。裏切って、走って逃げて、でも逃げるって全部背負っていくことだし、それでも生きるっていうことは人間が強くないとできない。」(The fashion post )

                                                             

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倫理観が希薄になった現代的な見方だと思うが、的を得ているかもしれない。遠藤は人間の弱さをわがこととして捉え、苦渋の末にそれを肯定する。一方、窪塚はひょうひょうとその弱さを逆に強さとして肯定する。その違いが人物像に表れる。

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ただ、強さも弱さも時と場合による。ある時は強いしある時は弱い。ある時は崇高なことを考えある時は卑しい。人はその間を行ったり来たりするのだと思う。だとすればキチジローはやはり誰の心にもいる。そして窪塚のように弱さを簡単に反転できない人間は、うちなるキチジローをなだめ、手なづけてゆくしかないのだ。映画のロドリゲスのように。

 

監督:マーティン・スコセッシ
主演:アンドリュー・ガーフィールド窪塚洋介イッセー尾形 ほか
原作:「沈黙」遠藤周作 新潮文庫

アメリカ映画 2016 / 161分
 
公式サイト

http://chinmoku.jp/