夜空はいつでも最高密度の青色だ
青森だったか、在来線の列車の窓から夕暮れの空を眺めていた。白い雪原の上の空はよく晴れ渡り、青色は時間がたつにつれてどんどん濃くなってゆく。このタイトルを見て思い出したのはその光景だった。青と黒のグラデーションはとても幻想的だったが、駅に着いたとたん、制服の中学生たちの喧騒に紛れた。
東京。ある病院で看護師として働く美香。幼い子どもを2人おいて亡くなった病人がいる。泣き崩れる夫。それを見つめながら美香はそっとつぶやく。
「大丈夫。すぐ忘れるから。」
建設現場で働く慎二。彼の見る風景は左半分がない。左目がほとんど見えない。なぜか何か意味のないことを喋らずにはいられない。仲間からはいつも「うるせー」と怒鳴られる。映画は美香と慎二が偶然出会うところから始まる。
脚本・監督は石井裕也。最果タヒの同名の詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を元に作った。詩集が原作という珍しい作品だ。
「最果タヒさんは現代の、特に都市に生きている人の心情とか気分みたいなもの、言葉にならない感覚を言葉によってつかもうとしているというか。いま都市で生きている、特に若い人たちの何かに触れようとしている詩集だと僕は思っていて。」
映画のタイトル(詩集のタイトルでもある)の詩句を含む「青色の詩」。
都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。
映画は東京という町にこだわる。東京は単純に人が多い。うるさい。なぜ東京にいるんだろうという問いは、なぜ生まれて来たんだろうっていう問いと同じ。美香と慎二はいつも嫌な予感を抱えている。あらゆる問いが、答えにならない答えを伴って空を舞っている。
「ねぇ、恋愛すると人間が凡庸になるって本当かな」
と美香が何度も問いかける。
「さあ」
凡庸なのは恋愛しないからだ、といういい方もできる。凡庸が悪だなんて誰が言ったんだろう。美香が失意にある時、慎二が「できることは何でも言って」という。すると美香が言う。「死ねばいいのに」。
最果タヒの詩句にある。
死ね、といえば簡単に、孤独を手に入れられていた。
(「ゆめかわいいは死後の色」)
慎二は「死ぬ」という言葉を嫌う。しかしここでは何も言わない。自分の「死」だからか。凡庸が嫌いな人間が、「孤独」を手に入れるために言葉で人を傷つける。美香は何かに傷ついているのだろうけれど、とてもめんどうくさい人である。しかし、慎二は惚れてしまう。とてもやさしい人である。
孤独になれば、特別になれると、思い込むぼくらは平凡だ。制服がかろうじてぼくらを意味のあるものにしてくれる。
(「かわいい平凡」)
慎二は美香の田舎で夜中に自転車をこぐ。美香を乗せて。街灯もない真っ暗な闇だ。東京には「黒」がないという美香。世界の半分しか見えないという慎二は、美香の背負うものをすべて半分にしてあげる、という…。肉体性を感じない、とても観念的な恋愛映画と言えなくもないのだが、そうならざるを得ないのが「いま」なのか。
青森で見た夕暮れの青色は、だんだん濃くなってゆくとやがて黒一色の夜になる。最高密度の青色は夕暮れから夜に変わる、その一瞬だ。その一瞬をとらえることが難しいので私たちは、東京の空をついに見上げることがない。
マンチェスター・バイ・ザ・シー
ボストン郊外。アパートの玄関先で雪かきをしている男。名前はリー。アパートの便利屋で、下水管の詰まりや浴室の水漏れを修理する。仕事を黙々とこなすが愛想が悪い。気に入らないことがあると住民を口汚く罵っては苦情がくる。酒を飲んでは喧嘩。同じ毎日の繰り返し。
そんなある日、兄のジョーが倒れたという知らせを受け、マンチェスター・バイ・ザ・シーに向かう。生まれ故郷の小さな海沿いの街だ。病院に着くとすでに兄は亡くなっていた。ジョーには一人息子で高校生のパトリックがいる。兄の遺言は、リーにこの町に戻って後見人になって欲しいという。しかし、リーにはこの町に住めない理由があり、パトリックをボストンに連れて行こうとするのだが…。
監督・脚本はケネス・ロナーガン。劇作家として活躍し長編監督は3作目。マンチェスター・バイ・ザ・シーは、元はマンチェスターという地名だったが、他のマンチェスターと混同しないように、30年近く前に改名されたという。
「美しさとわびしさを感じる場所だ。おもしろいことに、町自体は裕福なボストン人のリゾート地なのだけど、ブルーカラーの人々がボートのサービスなどで、休暇で訪れる人々をサポートしている。…実生活と自然の美しさが混在する町だ。」
いくつものヨット。煙突のあるカラフルな家々。しかし冬のこの町で空はいつも鈍色をしている。地面も凍って埋葬は春まで待たなければならない。甥のパトリックは彼の日常が続く。ガールフレンドに二股をかけ、バンド活動、アイスホッケー…。どこに行くにもリーが送り迎えをする。ある時彼女のひとりサンディーと部屋で二人きりになる時間を稼ぐため、彼女の母親と話をしてくれと頼まれる。30分でいいから、と。しかしリーはその30分がもたない。
「叔父さんは普通の世間話ができないの?」
と甥になじられる始末。映画は甥との日々の中に、かつてこの町で暮らしていたリーの日々が挟み込まれる。遺言を預かった弁護士が言う。
「リー、君の経験は創造を絶する。後見人になりたくないなら君の自由だ」
そしてリーの過去に何があったのかが明かされる。
「リーは、自らの身に起きた悲劇をきっかけに、世界が灰色になってしまったと感じている。だが、どんなにひどい不幸を体験しても、世界が灰色になることはない。なぜなら、人間は一人で生きているわけではなく、常に周囲でさまざまな興味深いことが起きているからだ。」(ケネス・ロナーガン監督)
兄が遺した一隻のボートはモーターがすでにいかれていた。リーの発案でようやくモーターを買うことができたパトリックは、彼女のひとりサンディーを乗せて海に出る。彼女に運転を任せるが、船が大きく旋回する。悲鳴が上がる。慌てることはない、舵をまっすぐにするだけだと教える。大きく旋回を続ける船の縁に腰かけたリーが大きく笑う。リーの背後でヨットハーバーが回ってゆく。めまいがする。
しかし同じ日、リーは町中で偶然、元妻のランディーと再会してしまう。
「あの時、私の心は壊れたの。あなたの心も。そして今もそのまま…」
再び大きく心がかきむしられる。記憶が消えてゆかない。狂い始める。酒を飲む。けんかをせずにはいられなくなる。人は何のために生きるのか。生き続けるのか。死に向かう心をかろうじて思いとどまらせるものは何なのか。
自分が苦しいとき、世界がまったく無関係に動いている。そのことに苛立ち、腹立ち、羨望せずにはいられない。しかし同時に、たった一人愛する人が、まったく別の世界で生きているという希望が、自身の足元をかすかに照らすこともある。海沿いの街の、鈍色の空からふるやわらかな光のように。
監督・脚本:ケネス・ロナーガン
主演:ケイシ―・アフレック、ミッシェル・ウィリアムズ、ルーカズ・ヘッジズ
アメリカ映画 2016 / 137分
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草原の河
チベット。標高3000メートルを超える高地に、羊を放牧して暮らす人々がいる。まだ春浅い日に、グルの一家は村を出て放牧のためのキャンプ地に移り住んだ。乾いた風が吹きつのり、強い日差しが肌を灼く。時折降る雪まじりの雨。家族は妻のルクドルと6歳の娘ヤンチェン・ラモ。
夜中に羊が騒ぎ目を覚ます。オオカミが羊を襲うのだ。ケガをした羊をテントに入れるが、翌朝には死んでしまう。死んだ羊の子どもなのか、子羊がテントの周りをぐるぐる回る。ヤンチェン・ラモは、その羊にミルクをあげジャチャと呼んで可愛がる。とてもシンプルな生活だ。
しかし、母親が妊娠したことで、ヤンチェン・ラモの思いは複雑だ。お気に入りのクマのぬいぐるみを、生まれてくるあかちゃんにあげなければいけないかもしれない。父親が「天珠」を見つけたから子が授かったと母親に聞いたヤンチェン・ラモは、その天珠を土の中に隠してしまうのだが…。
監督・脚本は、青海省のチベット族自治州生まれのソンタルジャ。長編二作目。親戚のヤンチェン・ラモに出会い、彼女を同名の主人公に撮影しながら物語を紡ぎ出したという。
「私は失われたものを描きたくてこの映画を撮ったわけではない。急激な発展によって失ったものは世界中にたくさんあるが、そんな中で人間はどう生きているのか。それはチベットも世界の他の地域も何ら変わりがないということを言いたかった。」
はるかに続く草原には、放牧される羊と3人の家族以外に何もない。グルの移動手段はバイクだ。娘のヤンチェン・ラモを連れて、村人から“行者さま”と呼ばれる父親のもとへ病気見舞いに行く。道中を遮るのは、河だ。暖かくなって氷が解け、バイクを落としてしまう。苦労の末ようやくたどり着いても、グルは父親には会わず、ヤンチェン・ラモだけにあいさつさせる。父親とは何かの理由で会うのを拒んでいるのだ。
父親は文革で一度は僧侶をやめさせられ、その時妻をめとりグルが生まれたが、文革が終わると家族を捨てて僧侶に戻っていったらしい。映画はこのグルと父親との確執、そしてヤンチェン・ラモとやがて生まれてくる赤ちゃんとの関係を軸に進む。それはここがチベットであろうがどこであろうが普遍的なものだ。しかし生活の単純さは、思いの一つ一つを深く長くする。
「私にとって映画を撮る意味は、自分とは何者なのかということを探し続けることなのです。チベットにはまだまだたくさんの物語がある。」(ソンタルジャ監督)
物語の終盤、やがて放牧の季節が終わろうとするころ、河が増水し行く手を阻む。しかし同じ岸辺にいる者たちは、河の前に佇み時を過ごすことができる。そして思いを共有する。
河は人を隔て、人を繋げる。そのような土地にヤンチェン・ラモは暮らし、やがて何ものかを残して生を終える。
監督・脚本:ソンタルジャ
主演:ヤンチェン・ラモ、グル・ツェテン、ルンゼン・ドルマ
原題:河 中国映画 2015 / 98分
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ぼくと魔法の言葉たち
アメリカ、マサチューセッツ州。プライベートなホームビデオが映し出される。ありふれた親子。しかし…。
3歳になる頃 オーウェンは突然消えた
自閉症だと医者は言った
一生話せないかもしれない、と医者は続ける。失意の家族。しかし転機は6歳の時に訪れる。オーウェンの発する言葉が、いつも見ているディズニーのセリフかも知れないと両親が気づいたのだ。これは、ディズニーアニメによって言葉を取り戻したオーウェン・サスカインドの、今を追ったドキュメンタリーである。
6歳の時、父親のロンがディズニーのキャラクターになりきって、彼に声をかけてみる話は感動的だ。オーウェンのお気に入りは、「アラジン」に出てくるオウムのイアーゴ。この時までほとんど言葉を発しなかったオーウェンに、ロンは声色を真似て背後から近づく。そして聞いてみる。
「君でいるのって、どういう気分?」
すると、オーウェンがきちんと答えたのだ。
「つまらないよ。友達がいないから。」
監督は、TVプロデューサーでありドキュメンタリー作家のロジャー・ウィリアムズ。
「ゲイの黒人である私自身もはみ出し者であると感じているので、世の中の声なき人たちに声を与えたいと考えてきました。そして私たちみんなが共に暮らし、互いを理解し合える方法を見つける努力を続けてきました。」
オーウェンから世界はどのようにみえるのか。映画は音と映像を駆使し、彼の内面世界を描こうとする。彼に聞こえているであろう外界の音を作り出し、彼が考えた独自の物語はアニメ化して見せる。監督とサスカインド一家はもともと知り合いだったという。制作には2年の歳月をかけた。
「正直に言えば、自閉症の人たちに対して、少し恐れを抱いていました。どのように触れ合い、コミュニケーションを取ればいいかが分からなかったからです。しかしこの作品のお陰で自閉症への考え方が完全に変わりました。自閉症が欠点や障害であるという見方はなくなり、相違点だと思うようになりました。」
オーウェンとわれわれは違う。明らかに違う点がある。ただし、「われわれ」の、我とあなたも違う。同じように明らかに違う点がある。私以外の人が私と違うことに苛立ったり、怒ったりしても詮無いことである。厳密な意味で「普通の人」というのは存在しないのだ。だとすれば人間の社会というのは、違いを許容しない限りお互いにとても生きづらいものだと思う。
オーウェンは成長し、両親のもとを離れる。映画はその後を追いかけ、誰にも訪れる青春の試練、すなわち「失恋」がオーウェンにも訪れるさまを記録する。ディズニーでその試練を乗り切ることができるか、私たちはハラハラドキドキしながら見守ることになる。
それにしてもオーウェンの、失恋相手に対する自制心に満ちた態度には驚かされる。自閉症は対人コミュニケーションに難があるという。しかしこういう時の絶望の深さに違いはなかろうに、強いひとである。
監督:ロジャー・ロス・ウィリアムズ
原作:「ディズニー・セラピー 自閉症のわが子が教えてくれたこと」(ビジネス社)
アメリカ 2016 / 91分
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はじまりへの旅
アメリカ北西部。鬱蒼とした森の中に7人の家族が暮らしている。父親と、高校生くらいの長男をはじめに男女6人の子ども。鹿を狩り解体して食べ、夜は読書。そして音楽。昼は訓練と称して山道を走り、格闘術を覚え、ロッククライミング。すべて父親のベンが指導する。
世間とのつながりはほとんどない。しかし子どもたちはとても優秀だ。六か国語を話し、手を骨折しながらも自力で岩棚をよじ登る。ある時、入院のため離れていた母親が自殺したとの報が入る。悲しみに暮れる家族は、母親の実家が行う葬儀に出席しようと2400キロの旅に出る。しかしそこは、自分たちとは違う考えの人たちが住む別世界だった…。
監督・脚本はマット・ロス。この作品でカンヌ映画祭「ある視点」監督賞を受賞した。この物語は自らの生い立ちと関係があるという。
「僕自身子どもの頃に、北カリフォルニアとオレゴンのコミューンで生活し、テレビや最新テクノロジーのない人里離れた場所にいたんだ。…このストーリーは普遍的でどこの国にも通用するものだと思う。親がどんな教育をするか、子どもに自由に考えさせるのか、親の考えを押し付けるのか。僕らが生きる時間は限られている。その時間、いったい何を考え、何をするのか。そういうことをこの映画を観た人に考えてもらえたらと思う。」
子どもたちは、基本的には父親がつぎからつぎへと出す課題をこなし続ける優秀な生徒だ。とても真面目でとても従順である。「巨人の星」の星一徹と飛雄馬のようなものだ。おかげで6歳の子どもが権利章典の内容と意味について語ることができる。
しかし問題は彼らが成人した後どう生きるか、ということだと思う。このまま世間と隔絶した社会に生きるのであれば、果たして六か国語が必要だろうか。他人と隔絶した社会に暮らせば、もしかすると能力を効果的に向上させることができるかもしれない。しかし、他者とのかかわりの中で生きるという人間の宿命のようなものから逃げているという感じがしないでもない。言ってみれば他者とのかかわりの中で生きるから権利章典も必要なのだ。
やがて子どもたちの中からも少しずつ父親への反旗の心が芽生えてくる。長男のボウは隠れて大学を受験し、次男のレリアンは時折あからさまな反抗の態度を見せる。この一家のヒーローは言語学者のノーム・チョムスキーだ。彼の誕生日はクリスマスのように祝うのが慣例らしい。旅の途中、誕生を祝う家族の中で、次男のレリアンだけが浮かない顔をしてこう言い放つ。
「チョムスキーの誕生日を祝うなんておかしいでしょ!」
すると父親のベンは、
「ちょうどいい機会だからお前の考えを言ってみろ」
と迫る。それに対してレリアンは何も言うことができない。おそらくチョムスキーを自分でも尊敬しているからだろう。理論的に正しいことと感情的に気に食わないことがうまく整理できない。正しくても気に食わないことだってあるのだ。逆に間違っていても好きになることもある。
母親の葬儀に参列するというだけで家族に様々な困難が降りかかる。自らの自由は他人の不自由を前提とする、そんな状況があちこちで発生する。そして、ついに絶対的な支配者(教育係?)であった父親にも迷いが生じ、あることを決断するのだが…。
父親を演じたヴィゴ・モーテンセンは語っている。
「この物語は、一個人でありながら社会の一員であることの新しい、より良いバランスを探るために常に努力することと、自分の間違いを認めてより良い人間になるために学ぶことについて語っているんだ。」
子どもにとってぶれない父親がいいのか、迷いながら進む父親がいいのか。これまで何の迷いもなかったような父親が旅の途中で迷い始める。父親が迷う分、子どもたちが意志的になる。社会に対して閉じていた目を開き始める。絶対者の迷いは、時に大きな教育的課題を与えることになる、映画を観てそう感じた。これはあらゆるコミュニティに当てはまることかもしれない。
監督・脚本:マット・ロス
主演:ヴィゴ・モーテンセン、ジョージ・マッケイ
原題:CAPTAIN FANTASTIC
アメリカ 2016 / 119分
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ムーンライト
マイアミ。麻薬地区と呼ばれる一角。瓦礫のようなアパートで、売人のファンはある男の子を見つける。女の子のような繊細な雰囲気をもつその子は、仲間からのいじめにあい、その場所に逃げ込んでいたのだ。ほとんど何も話さずうつむきがちな男の子。名前はシャロン。あだ名はリトルという。
シャロンは“おかま”といってからかわれていたのだが、彼はその意味も知らない。ファンはそんなシャロンを気にかけ、何かと面倒を見ようとする。マイアミのビーチでシャロンに泳ぎを教えるシーンが美しい。海面すれすれのカメラがとらえるシャロンは、驚くような戸惑うような不思議な表情をして、未知の世界を感じ取る。ファンは、自分が子どもの頃に言われた言葉をシャロンに伝える。
「月明かりの下でお前たちの肌は青く輝いて見える」
映画はシャロンが思春期を迎え、大人になるまでを3部で構成されている。それぞれに違う役者が演じるが、同じ雰囲気の「目」を持つ役者を選んだという。監督は長編2作目のバリー・ジェンキンス。
「私自身、黒人やゲイの映画と思って作っているわけではなく、人物そのものを描いている。黒人であることは私の大きな一部だが、映画の全てではない。…人の心の奥底にいつも渦巻いている感情の変化を、見る人がたどれるような物語を作りたいと思った」(朝日新聞インタビュー)
いじめられっ子のシャロンは高校生になっても変わらない。母親の麻薬中毒は次第に度を増してゆく。唯一心を許せるのが幼なじみのケヴィンだ。ある夜、月明かりの浜辺で偶然出会い語り合う。この映画の美しいシーンにはいつも海の匂いがある。そして頬を撫でる風がある。ケヴィンが言う。
「俺たちのところでもこんな風が吹く。風が吹くとみんな静かになる。風を感じたくて。」
「心臓の音しか聞こえないんだろ。」
「そうさ。」
シャロンはこの夜のことを後々まで忘れることがない。
シャロンはあることをきっかけに、ケヴィンと離れる。そして生まれ変わる。生きてゆくために。やがて麻薬の売人となってのし上がったシャロンに、ある日ケヴィンから電話がかかる…。
どんなに外見が変わり、社会的な立ち位置が変わろうとも変わらないものがある。己が人生で本当に望んでいるものだ。それを守るために人は深い孤独を生きなければならない。そしてある時、その柔らかな生の心を差し出す時が来る。おずおずと。人生のほとんどすべてを掛け金にして。映画はそのことを静かに伝え、月明かりの中で終わる。
監督・脚本:バリー・ジェンキンス
主演:トレヴァンテ・ローズ、マハーシャラ・アリ、ナオミ・ハリス
原案:タレル・アルバン・マクレイニー
アメリカ 2016 / 111分
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汚れたミルク あるセールスマンの告発
回想は自らの結婚式で始まる。パキスタンの下町。自宅に花嫁を迎えたアヤンは、2階の部屋から隣家に声をかける。窓越しに隣家のテレビでインド映画を見るのだ。パキスタンの庶民の暮らしなのだろう。窓の前に二人並ぶ姿がなんとも慎ましい。
アヤンの仕事は製薬会社のセールスマンだ。国産の薬は医者に受けが悪い。アヤンは思い切って多国籍企業の試験を受け合格する。与えられたのは粉ミルクを病院に納品する営業だった。持ち前のセールスセンスと企業の資金で、着実に医師たちに食い込んでゆくアヤン。ある時、自分が売っている粉ミルクを飲んだ乳児が、死亡する事件が相次いでいることを知る。アヤンは仕事をやめ企業を訴えようとするのだが…。
映画はパキスタンで起きた実話だそうだ。パキスタンの貧しい地域では、粉ミルクを不衛生な水で溶かして飲ませるため、乳幼児が死亡してしまう。企業はそれを知りながら買収した医師を通じて粉ミルクを売り続け、今も子どもたちが亡くなっているという。
監督は「鉄くず拾いの物語」のダニス・タノヴィッチ。
「映画の中で述べたように、これは昔からの問題で、いつまでも繰り返されています。粉ミルク製造業者は、粉ミルクを与えられた赤ん坊が、母乳を与えられた赤ん坊より病気になりやすいこと、貧困の場合死ぬ可能性が高まることを知っています。それでも事態は変わらないのです。」
アヤンはなぜ大企業を訴える勇気を持ち得たのか。
「自分の信念に背く夫を尊敬できない」
と妻に言われたからだ。シンプルな話だ。アヤンは一人ではない。父と母、妻、そして小さな娘。それらの関係の中でアヤンは生き方を定め、行動する。その意味でこれはアヤンの家族の物語でもある。
アヤンは自らと家族の身に危険が及ぶと、人権組織に助けを求める。人権組織はドイツのテレビ局を通じてこの問題を世界に知らしめようとするのだが、アヤンのある秘密が暴露され、放送は中止になってしまう…。
この問題が今も続いていることに驚くが、その要因の一つはマスメディアが報じないということにあるのだろう。ドイツのテレビ局はアヤンの秘密を知って放送を中止したというが、アヤン抜きでも調査報道は出来た筈だった。しかし中止したのは相手が巨大企業であったからだ。この映画も、大きな枠として映画製作者たちがアヤンの証言を聞くという構成になっている。客観的な視点をあえて入れ込まないと訴えられるというのが理由のようだ。
この映画のパンフレットに載せられていた言葉が、とても印象に残っている。
「巨悪として描かれる企業だが、その一人ひとりの保身や怒りや正当化や諦めは、どれも経験あるなじみ深い感情だった。悪とは目をつぶる弱さの集合体なのだ。」
(末永絵里・乳児用液体ミルクプロジェクト代表)
私たちは小さな存在に過ぎない。それでも目を開き小さくでもつぶやく勇気が持てれば、と思う。
監督:ダニス・タノヴィッチ
主演:イムラン・ハシュミ
原題:Tigers
インド・フランス・イギリス 2014 / 94分
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