彼女の人生は間違いじゃない
薄もやの桜並木の向こうからヘッドランプが近づいてくる。やがて車が現れると、防護服に身を包んだ人たちが降りてくる。原発関係の作業員のようだ。そこでカットが切り替わる。どこかの町の空撮。小さな部屋で目覚める女性。冷蔵庫から水を飲むと、炊けたばかりのご飯を小皿によそい、立てかけた写真の前に置く。
福島県いわき市。金沢みゆきは仮設住宅で父親と二人暮らし。母親を津波で亡くしている。みゆきは市役所に勤めているが、父親の修は補償金をつぎ込んでパチンコ漬けの毎日。修は酒を飲むと、秋田出身の母親をこの町に連れてきたことを悔やむ。
「俺と一緒にならなきゃ、秋田で幸せに暮らしていたはず…」
みゆきは土曜になるとバスで東京に出かける。見るともなく車窓をながめるみゆきの物憂げな表情。朝の美しい雲が広がる。いつまでも車窓を眺めつづける。東京でのみゆきはデリヘル嬢だ。なぜ?という疑問が映画を駆動させる。
監督は「さよなら歌舞伎町」の廣木隆一。みゆき役は瀧内公美。瀧内はインタビューでこう答えている。
「これであってるのか。正しいのか。自分でもわからない道を揺られながら向かっている。でも、東京から帰ってくるときは、これからもまた、こんなことを繰り返すのかな?と思っている。でも、自分は生きている。それを感じるバスの時間でした。女性として。人間として。バスに乗っている時間は、生きている自覚を持つ時間でした。」
パチンコで日々を過ごす人、原発の汚染水処理を仕事にして周囲から白い目で見られる夫婦、被災者に壺を売りつけようとする男…、出てくる人たちはマスメディアではほとんど取り上げられることのない被災者だ。どう捉えていいのかわからないのでメディアが目を留めない、「素」の人間。みゆきも表向きには、東京の英語学校に通っていることになっている。
みゆきは震災後に、それまで付き合っていた恋人と別れたらしい。
「こんな時、デートなんてしていていいのかな?」
と言った彼の一言で。
もしかするとみゆきは、生き残っている自分に負い目を感じていたのかもしれない。だからこそ自らを傷つけるためにデリヘル嬢になった。ならなければならなかった…。映画を観てそう思ったのだが、瀧内公美のインタビューを読んで、違うのかもしれないと感じた。
もう少しポジティブな感覚、生きることに貪欲な本能、強い生命力。瀧内はデリヘルについてこうも語っている。
「自分を傷つけるところもあるかもしれない。でも、傷つけるだけじゃなくて、何かを取り戻す、そういう仕事でもあるんですね。」
廣木隆一は飾りのない女性を描くのがうまい。「素」といえるような「女」。しかしなぜ?という問いの答えは誰にも分からない。だからみゆきの、何か思いつめるような表情をじっとみつめてしまう。監督も同じなのだろう。彼女を遠くからみつめ「君の人生は間違いじゃない」とつぶやく。そのつぶやきが映画を包み込んでいる。
物語の終盤、朝帰りしたみゆきが父親に「朝ごはん作ろうか」とたずねて米をとぎ始めるシーンがある。人生の何気ない習慣が、その人を救うかもしれない希望を感じさせる、とても美しい場面だと思う。米をとぐその音が、見終わっていつまでも心に落ちてくる。
監督:廣木隆一
主演:瀧内公美、高良健吾、柄本時生
原作:「彼女の人生は間違いじゃない」廣木隆一著 河出書房新社
日本映画 2017/ 119分
公式サイト
裁き
インド、ムンバイ。小さな部屋で子どもたちに地理を教えている白鬚の男。ナーラーヤン・カンブレ、65歳。時間が来ると町を横切って、イベント会場に向かう。そこではみなが待ちかねたように迎え、カンブレはステージに立って歌う。社会問題を訴える歌だ。とてもキレがいい。
♪ 大混乱の始まりだ
♪ 立て 反乱の時は来た
突然警察がやってきて、カンブレは逮捕される。しかし、この時歌った歌のせいではない、自殺ほう助の罪だという。彼の歌を聞いた下水清掃人が自殺したというのだ。裁判所で検事は、
“下水清掃人は下水道で窒息死しろ”
と彼が歌ったと主張する。否定するカンブレだが、目撃証人がいるらしい。理不尽な裁判劇が始まる…。
映画は裁判の進行にあわせて、検事、弁護士、裁判官それぞれの私生活を織り込みながら進む。監督は1987年ムンバイ生まれのチャイタニヤ・タームハネー。これが長編第一作。
「一番興味があったのは、裁判所における権威者、人の運命や時には生死を決める人たちも普通の人間であるということでした。それは、彼らの個人的な思想が裁判での決定に影響を及ぼしているということでもあります。もちろん、彼らも法律に従って仕事をしているのですが、解釈には彼らの個性が反映されてしまいます。それはすごく恐ろしいことだと思ったんです。」(ハフィントンポスト・インタビュー)
裁判が進むにつれ、証拠のいい加減さが次々に明らかになる。証人はプロの証言者で、いくつもの裁判で証言している男だし、下水清掃人はプロだからめったなことで事故は起きないとされていたが、実は満足な用具も与えられず、劣悪な環境で作業に従事していたことが分かる。
しかしいったい何のために、こんな嘘で逮捕されなければならないのか。結局は警察が逮捕したい、という人間を拘束するために、状況をねつ造しているだけなのだ。警察にはもちろん彼らなりの理由があり、カンブレは国家に害を加える人間と目されている。ただねつ造はねつ造だ。
しかも検事は検事でカンブレがどうなろうと知ったことではない。たんたんと有罪にするべく理由を語りつづけるだけだ。仲間の検事との会話では、同じ顔触れでもうあきたから早く20年で決まらないかな、などとうそぶく。そして休日にはよそ者を排斥する芝居を家族で楽しむ。それが「人の運命や時には生死を決める人たち」の姿なのだ。監督はこうも語っている。
「裁判所の所長や検事も市井の人間となんら変わらないのですが、だからこそ裁判所で見られる欠点は、ある種社会の欠点の反映なのではないかと考えたのです。」
見ていてインドの問題でありながら、日本の国会の状況を髣髴とさせるものがある。嘘や言い逃れがはびこり、事実に対するリスペクトがない。事実を大切にしない社会で私たちは安心して暮らすことは出来ない。「人の運命や時には生死を決める人たち」が恣意的にふるまって平気な社会は恐ろしい。
カンブレはこの先どうなるのだろうか。しかしこの男は淡々として動じない。このような社会に慣れてしまっているのか。ねつ造に慣れるというのもまた恐ろしく、淡々とした演出がそのことを静かにあぶりだす。
監督・脚本:チャイタニヤ・タームハネー
主演:ヴィーラー・サーティダル
原題:COURT
インド映画 2014 / 116分
公式サイト
ハクソー・リッジ
アメリカ・ヴァージニア州。野山を駆け巡る2人の少年。仲のいい兄弟。20世紀初めの情景。飲んだくれの父親の前で取っ組み合いのケンカ。止める母親。少年デズモンドは落ちていたレンガで弟を殴ってしまう。気を失い倒れこむ弟。「死んでしまうかもしれない…」自分がしたことにショックを受けたデズモンドは、部屋に飾られていた「汝殺すなかれ」の文字を呆然と見つめ続ける。
成長したデズモンドは、日本の真珠湾攻撃に衝撃を受け、陸軍に志願する。しかし、訓練の際、「信仰のため武器に触れることは出来ない」と銃を取ることを拒否したことから、上官や仲間から様々な嫌がらせを受ける。
「自分は武器を持たずに衛生兵として戦場に行き、仲間を救いたい」
そう主張するが、上官は「銃を取らない人間は信用できない」と除隊を宣告する…。
これは沖縄戦で武器を持たずに最前線に赴き、衛生兵として75人の負傷兵を救助した実在の人物の物語だ。監督は10年ぶりにメガホンをとった「ブレイブハート」のメル・ギブソン。
「デズモンドは自らの主義と信仰に反するものとして、暴力を忌み嫌っていた。だが彼は、第二次世界大戦において衛生兵として祖国に奉仕したいと考えていた。最悪の戦場に武器も持たずに赴こうだなんて、いったい誰が考えるだろう?そのことが、僕の心をとらえて放さない。」
実在するデズモンド・ドスは1950年、“良心的兵役拒否者”として最初の名誉勲章を授かった。映画化の話はそのころからあったが、実現までに50年以上を要した。デズモンドが静かな生活を送ることを選んだからだという。
見ていて分かりづらいとすれば、デズモンドが“良心的兵役拒否者”にあたるということだろう。彼は兵役を拒否しているわけではない。むしろ志願しているのだ。しかし銃を取ることは拒否した。つまり戦争には参加したいが、戦うことは拒否したい、というのだ。上官が「?」となるのも無理はない。
デズモンドはどんなに過酷な目に会っても、「汝殺すなかれ」の信念を曲げなかった。しかし、それほど強い信念があるなら戦争そのものに反対した方がいいのでは、とも思ってしまう。このあたり、人にはそれぞれ役割があるとしか言いようがない。
おそらく彼の認識の中では、戦わなければより多くの同胞が敵に殺される。そのため戦争は避けることは出来ないし、敵を殺さなければならない。自分もその行為に参加しなければならない。しかし殺す役目は自分ではない、ということなのだろう。
戦争を肯定しながら戦いを否定する、というアクロバットを成し遂げるために、デズモンドは死を恐れず、獅子奮迅の活躍で仲間を救出し続けるしかなかった。いやそれほど難しい話ではないのかもしれない。常に自分に出来ることは何かを問い、どのような場面にあってもその答えを実行し続けた、ひとりの男の物語なのだ。
デズモンドを徹底的にしごく軍曹の役を演じたヴィンス・ヴォーンの言葉が、この映画の核心をついている。
「デズモンドは自分自身に正直に生き、信念を貫き通そうとしていた。もし誰かが、自分の信念に基づいた行動をして、その結果を潔く受け入れようという態度を見せたとしたら、その人物を尊敬せずにはいられないはずだ。」
監督:メル・ギブソン
主演:アンドリュー・ガーフィールド、テリーサ・パーマー、ヴィンス・ヴォーン
アメリカ。オーストラリア 2016 / 139分
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セールスマン
暗闇にうかびあがるベッド。照明を移動させる音。次にソファ。そして正面に派手なネオン看板。これは演劇の舞台だ。しかし人はいない。
一転して叫び声。ドヤドヤと階段を駆け下る音。アパートが倒壊しそうだという。これは現実だ。主人公らしき男が、助けの必要な隣人を抱えて降りてゆく。窓にひびが入る。外にはブルドーザーがうなりをあげている。
イランの首都テヘラン。乱開発のひずみで住む場所を失ったエマッドと妻のラナは、ともに舞台俳優だ。稽古中の舞台はアメリカの劇作家アーサー・ミラーの「セールスマンの死」。劇団仲間が紹介してくれたアパートに急いで引っ越した二人だったが、ある夜、ラナは呼び鈴を夫のものと勘違いし、見知らぬ他人にドアを開けてしまう…。
監督・脚本は「別離」が世界的にヒットした、イランのアスガ―・ファルハディ。
「私は学生の時に、「セールスマンの死」を読み、とても胸を打たれました。…とても重要なポイントは、都会であるアメリカの突然の変化によって、ある社会階級が崩壊していく時代の社会批判です。急速な近代化に適応できない人々が崩壊するのです。その意味で、この戯曲は、私の国イランの現在の状況をうまく捉えています。」
映画を観た後、パンフレットに並べて売られていた「セールスマンの死」の文庫本を買って読んでみた。筋として共通する部分はほとんどないと言っていい。落ちぶれた老セールスマンが、期待をかけた息子ともうまくいかず、起死回生で保険金目当てに自死するという悲劇だ。敗残の人間に厳しいアメリカ社会、自己欺瞞と欲、父と子、様々なテーマが折り重なって考えさせられる。しかし映画は「急速な近代化に適応できない人々が崩壊する」話ではない。
映画のラナはその夜に闖入した何者かによって乱暴されケガを負う。エマッドは怒り、警察に行こうというが、精神的にも憔悴したラマは事件を表ざたにしたくないと拒む。しかしエマッドの怒りは収まらない。傍にいて欲しいというラマをひとり置いてまで、犯人を見つけ出そうと捜索を始める。その果てに彼が見つけ出したのは意外な人物だった…。
だが映画のタイトルは「セールスマン」なのだ。「セールスマンの死」のモチーフが映画の中に潜んでいるに違いない。それはいったい何なのだろう。
映画の中で稽古として紹介される「セールスマンの死」のシーンがある。老セールスマンが若かりし頃、浮気現場を息子に見られる決定的な場面だ。以来、息子に対する負い目が消えず、それに比例するように過大な期待を寄せ、結果として息子をダメにしてゆく、その発端の事件である。老セールスマンが泊まっていたホテルを訪ねてきた息子。その時、見えない浴室から聞こえてくる女の笑い声。これが映画では後半への微妙な伏線になっている。
そして両者に伏在するのは人間の「プライド」の扱いがたさだ。老セールスマンは羽振りが良かった過去のプライドから自己欺瞞に陥り、現実を見ようとしなくなる。またエマッドは隣人たちの視線を気にして、プライドを保つために復讐せずにはいられなくなる。どちらもそのことが周囲(家族)に軋轢をもたらし、遂に破滅へと至る。
人は己の心に潜む、何か虫のようなものに縛られずにはいない生き物なのだ。それは時にプライドであり、時に憎しみであり、時に欲望であったりする。後悔はするがまた同じ虫がうごめくと同じ結果をもたらす。夫婦であっても、家族の中にいても、虫に対処するのは結局自分しかいない。虫は自分自身だから。その意味でどんなに孤独にみえなくても、人は孤独である。
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
主演:シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリドゥスティ
イラン・フランス 2016 / 124分
公式サイト
残像
ポーランド。なだらかな草原で絵を描く学生たち。そこにひとりの女学生が訪ねてくる。
「ストゥシェミンスキ教授は?」
「あそこにいますよ」
指さす方を見ると、丘の上に松葉杖をついた初老の男がいる。
「見ててごらんなさい」
男は斜面を寝転がりながら降りてくる。丘の上にいた学生たちも、それを見ると次々に寝転がって降りてくる。笑い声が草原にこだまする。訪ねてきた学生の前に立つと男は言う。
「ウッチ造形大学、ストゥシェミンスキの課外授業にようこそ!」
男はヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ。20世紀前半に実在したポーランドの前衛画家だ。ある時、自宅でキャンバスに絵を描こうとすると、キャンバスが白から赤に変色していった。みると窓の外にスターリンの巨大な垂れ幕が掲げられようとしていたのだ。驚き怒ったストゥシェミンスキは窓を開け、垂れ幕を引き裂いてしまう。警察は即座に彼を連行してゆくが…。
監督は去年90歳で亡くなったアンジェイ・ワイダ。最後の作品である。舞台は第2次大戦後、スターリン主義が浸透していくポーランド。
「『残像』は、自分の決断を信じ、芸術にすべてをささげた、ひとりの不屈の男の肖像です。…私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の威厳ある人間との闘いを描きたかったのです。」
ストゥシェミンスキは国家の意向に沿った創作を拒否、次第にポーランドで地位を失ってゆく。どうして同じ方向に向かないのかと、当局者はいぶかる。しかし、周囲と同じ方向を向かないのが芸術家なのだから、求める方が間違っている。(日本はこれが間違いであるという社会でありつづけて欲しいが)
かつて金子光晴が書いた詩句を思いだす。
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おつとせいのきらひなおつとせい。
だが、やっぱりおつとせいはおつとせいで
ただ
「むかうむきになつてる
おつとせい」
さらに間違っているのは同じ方向を向かない人間、「むかうむき」の人間を迫害することだ。ストゥシェミンスキは大学での職を失い、信奉する学生のあっせんでようやく得た看板描きの仕事も取り上げられてしまう。そしてついには、食べることもままならず、飢えから皿をなめるようにまでなるのだ。
当局に「あなたはどちら側なのだ」と問われたとき、ストゥシェミンスキは即座にこう答える。
「私の側だ」
そして歩き去りながら、再び自らに確認するようにつぶやく。
「自分の側なんだよ」
ストゥシェミンスキは、苦境に陥っても少しも妥協しない。彼を助ける女学生が捕まり、協力しなければ彼女を「痛めつける」と脅されても決して意思を曲げることがない。この世界で彼は敗北者である。しかしワイダは一貫しておのれの理想に殉じる敗北者を描いてきた。それは決して人生の敗北ではないという意思を込めて。
彼が学生たちに教える絵画理論にこういうものがある。
「人は認識したものしか見ていない」
ということは、認識せずに見ていないものがある、ということだ。勝手に解釈すれば、見ていない世界になにがしかの真実が隠れているかもしれず、そのことに少しは思いをはせるべきだと語っているのだ。そして社会というものもそうなのだ、と。
「一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これらは過去の問題と思われていましたが、今もゆっくりと私たちを苦しめ始めています。」
遺作「残像」に寄せたコメントでワイダはこう語り、次のように続く。やはり、遺言というべきものだと思う。
「どのような答えを出すべきか、私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならないのです。」
監督・脚本:アンジェイ・ワイダ
主演:ボグスワフ・リンダ、ゾフィア・ヴィフワチ
ポーランド映画 2016 / 99分
公式サイト
光
ある会議室。モニターを見ながら映像を言葉にして語る女性、尾崎美佐子。目の見えない人に映画を楽しんでもらうための音声ガイドだ。映画が終わると、その場にいた視覚障がいを持つ人たちが、ガイドの内容について意見を言う。目が見えない立場で、映画を楽しめたかどうか、表現は適切か、など口々に指摘する。ボランティアで行う音声ガイドに対する遠慮からか、当たり障りのない言葉が続く中、ある男だけが厳しく言い放つ。
「今回のガイドは、今のままだと邪魔なだけです」
美佐子のガイドは意見の押し付けだという。男は中森雅哉。元は知られたカメラマンだったが、徐々に視力を失いつつある。言葉の激しさに戸惑い、怒りさえ覚える美佐子だったが…。
「『あん』のときに音声ガイドを制作して、初めて今作のモチーフになっている世界に触れたのですが、音声ガイドの皆さんの映画への愛に本当に感動したんですよ。その愛で、目の不自由な人たちに映画を届けようとしていて。私は、そういう愛を持って誰かとコネクトしていこうとする人たちの物語を作りたい。」(シンラネットインタビュー)
映画は劇中でもう一つの映画を新撮している。「その砂の行方」という作品だ。認知症の妻をもつ年老いた男が、ラストで砂浜をさ迷い歩く。音声ガイドの美佐子はそのラストで映像をこうガイドする。
「重三の顔は希望に満ちている」
中森が美佐子のガイドで特に引っかかっていたのは、このラストシーンだ。後日、美佐子が自分のガイドについて意見を聞きたいと監督を訪ねるシーンがある。監督はその個所を読んで少し考え込んでしまう。
「あのね、重三はもう死ぬかもしれないんだよ。そういう年齢なんだ。死ぬかもしれないし、まだ死なないかもしれない…」
すると美佐子が強い口調で言い返す。
「そんなあやふやなものじゃなくて、映画はもっとはっきりした希望が必要なんです」
少し驚く監督。助監督が休憩時間の終わりを告げる。立ち上がりながら監督は言う。
「この映画が君の希望になったことをうれしく思うよ」
美佐子の父親は失踪しており、認知症の母親が田舎でサポートを受けながらひとり暮らしをしている。この映画は「希望」について語ろうとしているのだ。
映画は美佐子がこのラストシーンをどうガイドするのかを縦軸に、元カメラマン中森との交流を横軸に進む。中森の絶望は深い。視覚を失う中で、生きる証のようなカメラマンという職業を捨てなければならないのだ。
演じる永瀬正敏は、映画からは本来感じ取れない、視覚と聴覚以外の感覚、つまり匂いや体温、息遣いなど人間の生理に由来するものを感じさせる。永瀬の演技によるものなのか、タイトなカメラワークによるものなのか、両方なのか。とにかく永瀬の中森のおかげで、この作品は不思議ななまもののような映画になっている。
加えて作品中にあふれる光。河瀬監督は舞台あいさつで
「世界に存在する愛とか光とかを全部集めて刻みたかった」
と話したという。しかし、映画が語る希望は「光」にあるのではない。闇に閉ざされようとする中森にとって光は希望ではない。
白杖をつきながら美佐子に向かってふらふら歩く中森の足元、崩れる砂浜を一歩一歩踏みしめる劇中映画の重三の足元、かろうじて踏み出すそのわずかな一歩に、希望はあると思える。
そして映画は私たちに、こう問いかけているのだ。
「あなたにとって、いやむしろあなたの隣にいる人にとって、希望とは何ですか」
と。
夜空はいつでも最高密度の青色だ
青森だったか、在来線の列車の窓から夕暮れの空を眺めていた。白い雪原の上の空はよく晴れ渡り、青色は時間がたつにつれてどんどん濃くなってゆく。このタイトルを見て思い出したのはその光景だった。青と黒のグラデーションはとても幻想的だったが、駅に着いたとたん、制服の中学生たちの喧騒に紛れた。
東京。ある病院で看護師として働く美香。幼い子どもを2人おいて亡くなった病人がいる。泣き崩れる夫。それを見つめながら美香はそっとつぶやく。
「大丈夫。すぐ忘れるから。」
建設現場で働く慎二。彼の見る風景は左半分がない。左目がほとんど見えない。なぜか何か意味のないことを喋らずにはいられない。仲間からはいつも「うるせー」と怒鳴られる。映画は美香と慎二が偶然出会うところから始まる。
脚本・監督は石井裕也。最果タヒの同名の詩集「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を元に作った。詩集が原作という珍しい作品だ。
「最果タヒさんは現代の、特に都市に生きている人の心情とか気分みたいなもの、言葉にならない感覚を言葉によってつかもうとしているというか。いま都市で生きている、特に若い人たちの何かに触れようとしている詩集だと僕は思っていて。」
映画のタイトル(詩集のタイトルでもある)の詩句を含む「青色の詩」。
都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。
映画は東京という町にこだわる。東京は単純に人が多い。うるさい。なぜ東京にいるんだろうという問いは、なぜ生まれて来たんだろうっていう問いと同じ。美香と慎二はいつも嫌な予感を抱えている。あらゆる問いが、答えにならない答えを伴って空を舞っている。
「ねぇ、恋愛すると人間が凡庸になるって本当かな」
と美香が何度も問いかける。
「さあ」
凡庸なのは恋愛しないからだ、といういい方もできる。凡庸が悪だなんて誰が言ったんだろう。美香が失意にある時、慎二が「できることは何でも言って」という。すると美香が言う。「死ねばいいのに」。
最果タヒの詩句にある。
死ね、といえば簡単に、孤独を手に入れられていた。
(「ゆめかわいいは死後の色」)
慎二は「死ぬ」という言葉を嫌う。しかしここでは何も言わない。自分の「死」だからか。凡庸が嫌いな人間が、「孤独」を手に入れるために言葉で人を傷つける。美香は何かに傷ついているのだろうけれど、とてもめんどうくさい人である。しかし、慎二は惚れてしまう。とてもやさしい人である。
孤独になれば、特別になれると、思い込むぼくらは平凡だ。制服がかろうじてぼくらを意味のあるものにしてくれる。
(「かわいい平凡」)
慎二は美香の田舎で夜中に自転車をこぐ。美香を乗せて。街灯もない真っ暗な闇だ。東京には「黒」がないという美香。世界の半分しか見えないという慎二は、美香の背負うものをすべて半分にしてあげる、という…。肉体性を感じない、とても観念的な恋愛映画と言えなくもないのだが、そうならざるを得ないのが「いま」なのか。
青森で見た夕暮れの青色は、だんだん濃くなってゆくとやがて黒一色の夜になる。最高密度の青色は夕暮れから夜に変わる、その一瞬だ。その一瞬をとらえることが難しいので私たちは、東京の空をついに見上げることがない。