映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

サーミの血

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妹の葬儀に出席を拒む老婆。息子に促されてしぶしぶ出かけるが、故郷に宿泊することはかたくなに拒む。老婆の名前はクリスティーナ。しかし、本名ではない。名前を捨て、故郷を捨てたのだ。老婆は、窓越しに見えるなだらかな丘陵を見つめながら過去を回想する。

 

1930年代のスウェーデン。トナカイを放牧して暮らす先住民族サーミのエレ・マリャは、妹と寄宿学校に入るため故郷を後にする。そこではサーミ語が禁じられ、スウェーデン語が強制されていた。周辺の人々も彼らに対する差別意識を隠さない。人類学者が研究という名目で学校を訪れ、まるで野生動物の生態を観察するように、屈辱的な格好をさせる。

 

学校で優秀な成績のエレ・マリャは、将来教師になりたいと打ち明ける、しかし女教師は

 

「あなたたちの脳は文明に適応できない」

 

と冷たく告げる。自分の出自に嫌気がさすエレ・マリャ。なぜスウェーデン人でなくサーミ人なのか。ある時、民族衣装を捨て近所のパーティーにもぐりこむ。そこで都会から来た青年と知り合い、その青年を頼って寄宿舎を出ようとするのだが…。                    

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監督はアマンダ・シェーネル。スウェーデン人の母親とサーミ人父親の間に生まれた。長編は初めてだが、短編ではいくつもの賞を受賞している。

  

「多くのサーミ人が何もかも捨てスウェーデン人になったが、私は彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました。この映画は、故郷を離れた者、留まった者への愛情を少女エレ・マリャの視点から描いた作品です。」

 

エレ・マリャは、監督にとってみれば祖母の世代にあたる。あの時代、自らのアイデンティティを捨てた人生は果たして幸福だったのか。ただ、周りの人間が否定し続ける自我を持ち続けることなど、果たして出来るものだろうか。同じ寄宿学校に行った妹は、スウェーデンかぶれしてサーミを見下し始めた姉が許せない。

 

「あなたは自分のことしか考えない。」

 

しかしあふれる程の自尊心があるエレ・マリャは、妹も寄宿舎も捨て都会に出てクリスティーナとなる。

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今、福祉国家として名高いスウェーデンは、どのようにして少数民族抑圧のこういった過去を克服したのだろうか。パンフレットにコメントを寄せた明治大学鈴木賢志教授の言葉は、その秘密の一端を告げているように思えた。

 

スウェーデンを理想の国と思っている人には、ぜひこの映画を見てほしい。ただしそれはこの国が実際には理想郷とはほど遠いことを知ってほしいからではない。このような、いわば『自国の闇』に正面から向き合う映画を作る人々がおり、それを正当に評価する人々がいることが、スウェーデンの本当の良さだからである。」

                                 

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映画の終盤で老婆エレ・マリャは再び、妹の葬儀場を訪れ、棺桶の蓋を静かに外す。民族衣装を着た妹が安らかに横たわっている。妹の顔に自らの顔を近づけ、ささやく。

 

「許して」

 

一体何について許しを乞うのか。映画は多くを語らない。しかしこのささやきがエレ・マリャの、これまでの人生への違和を感じさせて深い感慨を誘う。

 

監督・脚本:アマンダ・シェーネル
音楽:クリスチャン・エイドネス・アナスン
主演:レーネ=セシリア・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ
スウェーデンノルウェーデンマーク 2016/ 108分

公式サイト

http://www.uplink.co.jp/sami/

ポルト

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ポルトガルの港町、ポルト。その日暮らしの青年ジェイクは、アルバイト先の発掘現場で、ひとりの女性とまなざしを交わす。考古学を学ぶ留学生の女性マティだ。その後不思議なことに、帰りの駅のホームで、入ったカフェで、ふたりはお互いを見出すことになる。

 

思い切って声をかけたのはジェイクだったが、「よそへ行きましょうと」誘ったのはマティだった。ふたりは幸福な一夜を過ごす。しかしマティには恋人がいた。翌日マティは恋人のもとに去り、ジェイクはその日から、この一夜の思い出に生きるようになる。

 

話しとしてはこれだけだ。映画はこのふたりに感情移入するようには作られていない。しかし、ふたりにとって二度とないこの時間を何度も反芻する。そのことで人生におけるある瞬間の重要性を寓話的に描き出す。その瞬間が、その後の人生にプラスであるかマイナスであるかは別として。                                                                                                                         f:id:mikanpro:20171017222204j:plain

監督はゲイブ・クリンガー。ドキュメンタリー映画出身で長編劇映画は一作目だそうだ。なお製作総指揮はジム・ジャームッシュ

 

「ジェイクとマティは、時間に囚われた人物です。彼らはある一夜に囚われている。ふたりとも、もうその夜を生きているわけではないのに、おそらく彼らは、その一夜のことを考え続けている。もしくは夢見続けているのです。心から共感できるジェームズ・ベニング(映画作家)の言葉があります。『時間なんてものは、ただの思い出に過ぎない』―これぞまさに、『ポルト』が言わんとしていることです。」

 

思い出に囚われると、現在と未来を見失う。敗残兵のようにうろつく。そしてかつて見つめあったカフェの窓ガラスから、在りし日のふたりを映画を観るように眺める。何度も何度も。やがてその思い出に出口が無くなる。 

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『時間なんてものは、ただの思い出に過ぎない』

 

そうだろうか。人はなぜ思い出に囚われるのか。それは「時間」が思い出を遠ざけるからだ。傷ついた思い出は「時間」が癒してくれるし、幸福な思い出は「時間」によって失われてゆく。マティはふたりの行く末を感じ取ってか、ジェイクにこのように語る。

 

「人は多くのことを忘れるけれど、忘れられたことは無くなったりしない。」

 

時間が流れていない世界があれば、そこに忘れ去られたものたちがうごめいているに違いない。私たちは変わらずにあるものに憧れる。以前ジャ・ジャンク―監督の「山河ノスタルジア」という映画の感想にもこう書いた。

 

「時の流れは多くの傷を癒してくれる。だから錯覚してしまうが、時の流れで色々なことが変わってしまうことに、実は私たちはとても傷つけられているのだ。・・・永遠に続くように思えた時間はいつか終わり、この雪もいつか止む。そのことに傷つき、同じそのことに救われる。」

→ 山河ノスタルジア - 映画のあとにも人生はつづく

 

至福の時間をたとえ持つことが出来てもそれは決して永遠に続かない。それでいいのだとも思える。変わってゆくことが、生きている証のような気もするからだ。                                                                                                                

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監督・脚本:ゲイブ・クリンガー
製作総指揮:ジム・ジャームッシュ

主演:アントン・イェルチン、ルシー・ルーカス
ポルトガル=フランス=アメリカ=ポーランド 2016/ 76分
 
公式サイト 

http://mermaidfilms.co.jp/porto/

わたしたち

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ドッチボールのチームを分けるためにじゃんけんをする。勝った方が味方を選ぶ。カメラはある一人の女の子の表情をとらえ続ける。いつ自分の名前が呼ばれるか、不安な面持ちだ。呼ばれないと参加もできない。じゃんけんの声と他の子の名前が次々に聞こえる。女の子はようやく最後に呼ばれた。しかし始まってすぐ、ラインを踏んだから「アウト」と言われる。しかも「アウト」と言ったのは味方の子どもだ。踏んでいないのに…。

 

「あの子、味方に言われてるよ…」

 

女の子の名前はスン。小学校の4年生。教室で友達はいない。幼馴染のボラがいるが、逆にその子から仲間外れのいじめを受けている。しかし夏休みに入ると、偶然転校してきた女の子と知り合い、とても仲良しになる。お金持ちだが両親が離婚して祖母と暮らすジアだ。もつれあうようにしてじゃれあい時間を過ごす二人。スンにとって幸福な時間。しかしある時、スンとジアの仲のいいことが、いじめっ子のボラに分かってしまい…。

 

監督・脚本は新鋭のユン・ガウン。この映画は「オアシス」のイ・チャンドンの企画で、脚本も共に練りあったという。

 

「実は大人の世界と子どもの世界はそれほど変わらないのではないかと思っています。大人の目には、子どもたちがとても小さな世界で、とても些細な出来事に向き合っているように見えるかもしれません。でも現実は、大人の世界が(実際よりも)大きく見えているだけではないでしょうか。」

 

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夏休みが終わり、再び教室の人間関係力学にもどると、ソンはまた居場所を無くす。ジアもボラのグループにからめとられてソンに冷たくあたるようになる。やがて感情のすれ違いが行き過ぎ、お互い触れてほしくない秘密をそれぞれが級友にばらしてしまう。どちらもプライドが傷つき、心が血を流す。大喧嘩する。

 

プライドというものはどうしてこう厄介なものなのか。小さな子どもも大人も同じ。そして国同士でも同じ。しかしプライドが無ければ生きてゆけない。どうすればいいのか。余計なのは、勝ち負け、他者との優劣に関わるプライドだ。それは比較することでしか生まれない。しかし生きてゆくために必要なのは、プライドというより「誇り」。誇りは自らの内にあり他と関係がない。それを静かに守り育てることができるか。

 

ソンとジアの二人は喧嘩しながら近づき、離れ、また近づきを繰り返す。微妙な距離を保ちながら。小さな二つの相撲独楽の様に。

 

「子どもたちは些細なきっかけで友だちとの関係がこじれたり距離が開いたりしても、相手を信じたり、守ってあげたいと思ったりします。何度失敗しても、好きな相手と友だちになりたいと願います。大人になるにつれて、そういう感情はなくなっていくような気がします。…(子どもたちは)きっと、いい意味で単純なんです。自分の心を大切にしていて、自分の心を守りたいから、相手を信じ続ける。…そのような単純な気持ちで生きていれば、人間関係を結びやすくなるのではないかと思っています。」

 

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ソンには幼い弟がいる。ユンだ。友達のヨノといつも遊んでいるが、いつもどこかを引っかかれたり叩かれたりしている。この日も目の周りが真っ赤だ。見かねたソンが尋ねる。

 

―どうしてヨノと遊ぶの?

―僕が叩いてね、そしたらヨノがここをバシーンと・・

―それでどうしたの?

―一緒に遊んだの

―やられたらやり返さないとダメよ

―でもそしたら、いつ遊ぶの?

―・・・

―ヨノが叩いて僕がまた叩いたら、いつ遊ぶの?

 

ジアと喧嘩をしているソンが、不思議な顔をして弟を見つめる。ソンはあることを決意する…。

 

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ソンは時々、弱い自分を押さえつけ振り絞るように自分の思うこと(本当の気持ち)を口にする。言い淀むが、思い切って言う。その表情と唇の動きがいじらしく、小さな勇気という言葉を思い出す。それは大人になって忘れてしまう種類の勇気なのかもしれない。しかし、とこの監督は言う。

 

「わたしたちは多様で複雑な理由で愛する人を傷つけ、愛する人に傷つけられる。それでもわたしたちは本当の気持ちを伝えることを諦めてはならない。」

 

監督・脚本:ユン・ガウン
企画:イ・チャンドン

主演:チェ・スイン、ソル・ヘイン
韓国映画 2016/ 94分
 
公式サイト 

http://www.watashitachi-movie.com/

三度目の殺人

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暗い川の岸辺にふらふらと歩く男。うしろから歩く男が不意にスパナを振り下ろす。顔にわずかな返り血を浴びた男は横たわった死体に火をつける。見下ろす顔が炎の照り返しに明るんで見える。今男は殺人を犯したのだ、とそう見える。普通に考えれば。

 

男は三隅。かつて殺人罪で長く服役していた。今回、すぐに捕まり自供もしている。弁護士の重盛は死刑を少しでも減刑させるのが仕事と考える。しかし三隅は事実関係や動機についてころころと証言を変え、弁護団を翻弄する。そんな折重盛は、被害者の娘が三隅を自宅に訪ねていた事実を突き止めるのだが…。

 

監督は、「海街Diary」「海よりもまだ深く」是枝裕和。 

「今回はまず弁護士の仕事をちゃんと描いてみたいと思いました。『そして父になる』の法律監修をお願いした弁護士の方と話をしていたときに『法廷は真実を解明する場所ではないと言われたんですよね。そんなの誰にもわかりませんからって。ああ、そうなんだ、面白いなと思ったんです。それなら結局、何が真実なのかわからないような法廷劇を撮ってみようと思いました。」                                            

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重盛にとって事実は問題ではない。つまり何があったかはどうでもいい。殺害したのが三隅かどうかも問題にならない。判明している事実から、量刑をなるべく少なくすることに専念するだけだ。しかし今回は勝手が違った。三隅が型にはまらない男だからだ。予想できないような理由で行動する(ように見える)男だからだ。重盛は三隅に興味を持ち、彼が何のために何をしたのかを知りたくなる。

 

「命は何者かに選別されている」

 

と三隅は言う。

 

「両親も妻も、何の落ち度もないのに、不幸のどん底で死んでいった」

 

三隅は小さな部屋で小鳥を飼って暮らしていた。捕まるときにすべて殺した。いや一羽だけ逃がした。この時、小鳥たちの命を手の内に握っているのは三隅だ。三隅は「その時の自分」のような存在を、自分の人生の上に重ね合わせる。小鳥のような自分の命を、手のうちに握っている存在。神?

 

そしてこう言うのだ。

 

「生まれてこなければよかった人間て、世の中にいるんです」

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神が裁かなければ自分が裁く、と言いたいのか。以前このブログで、「裁き」という映画を観たとき、

 

「事実を大切にしない社会で私たちは安心して暮らすことは出来ない。『人の運命や時には生死を決める人たち』が恣意的にふるまって平気な社会は恐ろしい。」

 

と書いた。事実を大切にしない社会。三隅はそのような社会に三隅なりのやり方で抗おうとしている。時に自分が「人の運命や時には生死を決める人」になってまで。三隅は三隅の考えで一本筋を通している。

 

人を裁くとはどういうことか。この世界に生きている限り、私は私が持っている欠点のために、やはり誰かに裁かれなければならないのだろうか。

 

中原中也の詩にこんなのがあった。

 

それよ、私は私が感じ得なかったことのために、

罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

(羊の歌)

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三隅が殺したのかどうか。結局真実は分からない。不思議なもので、監督がそういう意図だ(真実は分からない)というと、そう見える。しかし同じ映画でもし、真実は明らかです、と監督が言えばそう見えるような気もする。何より冒頭で三隅の殺人シーンがあるのだ。

 

映画はクリアなものではない。私が生きる私の人生が、決してクリアなものではないように。

 

監督・脚本・編集是枝裕和
主演:役所広司福山雅治広瀬すず

日本映画 2017/ 124分
 
公式サイト 

http://gaga.ne.jp/sandome/ 

 

※以前書いた記事です

海街diary - 映画のあとにも人生はつづく

 海よりもまだ深く - 映画のあとにも人生はつづく 

裁き - 映画のあとにも人生はつづく

ダンケルク

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1940年5月、フランス北部の港町ダンケルク。英軍の兵士が町中をさまよううち、空からビラが降って来る。ダンケルクを包囲したというドイツ軍のビラだ。直後に銃撃。逃げ惑う兵士が海岸に出ると、数千もの連合軍兵士が砂浜を埋めていた。追い詰められた敗残兵の群れだ。彼らはここから脱出し、海峡をイギリスに渡って帰るのを待っているのだ。

 

映画はまずその無名の英軍兵士の目線で語られる。彼は何とか帰還船に乗り込もうと画策する。必死の思いで掃海艇に乗り込むが、今度はUボートの魚雷が襲ってくる。命中。沈没してゆく掃海艇。果たして彼は無事に帰還できるのか…。

 

監督は「メメント」、「インターステラー」のクリストファー・ノーラン 

「『ダンケルク』は時間との戦いを描くサスペンスだと、僕は捉えている。人々が生き残ろうとする姿を描くスリラーだ。彼らは9日間であそこを脱出しなければならなかった。敵はすぐ近くにいて、その時間が迫るたびに、生存のチャンスは減っていくのさ」          

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実はダンケルクに追い詰められた英仏連合軍は40万という。これだけの数の兵士をイギリスに帰すために、海軍は本国で民間船に呼びかけた。それに応じた船主たちは生命の危険をかえりみず、ダンケルクへと向かう。

 

映画は、防波堤の兵士たちの1週間、救助船の1日、この帰還作戦を空から援護する空軍パイロットの1時間を、カットバックしながら描いてゆく。

 

「今作の視点と構成を決めるのに、僕はかなりの時間を費やしている。その結果、僕は、3つの違った視点からこの出来事を語ることに決めた。それらは同時に起こってはいるが、それぞれにかかった時間は違う。…それらの話を一緒にし、緊張感をどんどん高めてゆく。普通の映画で言う、いわゆる“サードアクト”(構成上最も盛り上がるところ)を、今作では最初からやりたかったんだ。」(ノーラン監督)

 

撤退を待つ兵士たちは、防波堤にいれば空から攻撃され、船に乗り込めば魚雷に攻撃され、海に放り出される。その臨場感は半端なものではない。こんなところには間違っても来たくない、と思わせる迫力がある。そしてそのような過酷な状況の中で、人間のエゴがむき出しになる。

 

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陸と空と海。監督の言う3つの視点は、単なる視点にとどまらず、戦争における役割によって、それぞれが経験することの違いを浮き彫りにする。救助船の船長は、民間人でありながら戦場に向かう、勇気と節度あるイギリス紳士の理想。ドイツ戦闘機を撃墜する空軍のパイロットは、英雄。そして、撤退を待つ兵士たちは、弱く醜い人間として描かれる。

 

物語の終盤、救助船に助けられ本土に帰った兵士は、人々に罵られるかもしれない不安に怯える。しかし待っていたのは兵士たちへの称賛だった。新聞は撤退作戦の成功を高々と歌い上げる。そして対ドイツ戦争に向けて人々を鼓舞する文章を連ねるのだ。ぼろくずのような帰還兵は、仲間のためにその記事を朗読する。美しい言葉の羅列。しかし、彼らの経験した現実は美しくない。

 

敗残兵の不安、思いもしない称賛。醜い現実、美しい言葉。延々と読み続ける兵士。監督が描きたかった美しいイギリスの心は、美しくない真実の中でほのかに輝く。 

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監督・脚本クリストファー・ノーラン
主演:フィン・ホワイトヘッド、マーク・ライランス
アメリカ 2017 / 106分
 
公式サイト  

http://wwws.warnerbros.co.jp/dunkirk/

幼な子われらに生まれ

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モザイクに色分けされた画面。その上を、人の足が踏みつけてゆく。色分けされた地面は遊園地の入り口だ。父と娘が手をつなぎ入ってゆく。楽しげに遊ぶ二人。よくあるシチュエーションなので、離婚した父親が、別に暮らす娘と定期的に会う日だと分かる。それにしても仲がいい。メリーゴーラウンドの中で父親の信が聞く。

 

「もしお母さんに、新しい赤ちゃんが出来たらどうする?」

 

「私がハブられちゃうってこと? でも今のお父さんはそんな人じゃないから…」

 

実は信にも新たな家族がおり、妻の連れ子である二人の姉妹のほかに、新しい生命を授かろうとしている。だが信は新しい子どもを受け入れることに迷いがある。「そうでなくてもツギハギだらけの家族」なのに、今以上に複雑になることに怯えているのだ。 

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家に帰ると、赤ちゃんが生まれると知ってナーバスになった長女の薫が、あからさまに反抗して見せる。「こんな人、家族じゃない。本当のお父さんに会いたい」とまで言う。その本当のお父さんはDV夫で、自分も殴られ歯を折られたこともあったのに。どうしたらいいか分からない信は、次第に追い詰められてゆく…。

 

監督は「しあわせのパン」の三島有紀子。デビュー作の「しあわせのパン」はずいぶん素人くさい作品だなと感じたものだが、今回はずいぶん玄人くさい作品だと感じた。どちらも悪い印象ではない。三島はなぜこの作品を撮ろうと思ったのかと聞かれてこう答えている。

 

「…登場人物たちが本当に不器用で誰もが正解を見つけられずにいる、だからこそ魅力的だったし、子供も含めて全員が自分の中に住んでいる気がしました。…何より信が異質な人間(生命含む)と出会って、抑えていたものがひとつひとつ剥がされ本質が剥き出しにされていくのがおもしろいなあと思ったからです。」 

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信はもともとこの家族は「ツギハギだらけ」、他人の寄せ集めと考えている。家庭第一と考える男が、血のつながっていないことは最初から分かっていながら選択した道なのに、今更そんなことを言うのかと驚く。またその本音を笑顔のうちに隠しているところが、たちが悪い。薫の反抗はエスカレートしてゆくばかりだ。

 

信を演じるのは浅野忠信。この人の抱えるエネルギーの熱量は半端なものではない。薫に追い詰められた信は次第に余裕を失ってゆき、内包していた怒りが次第に前景化してゆく。その怒りは、信の怒りなのか俳優浅野忠信の怒りなのか、マグマのようにドロドロと熱せられて近寄りがたくなってしまう。

 

そんな時、元妻の友佳から連絡があり、今の夫がガンで余命いくばくもないと知らされる。別れ際の車の中で、有佳にこう言われる。

 

「理由は訊くくせに、気持ちは聞かないの、あなたって、昔から」

                        

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かつて信に黙って子供を堕したとき、激しい言い合いになったが、その時も同じだという。堕した理由は執拗に聞くが、堕ろす時の私の気持ちは聞かない―。しかし信にしてみれば、理由が分からないと気持ちが聞けない、のではないか。普通理由を聞くよな、と思いながら見ていたが、彼女の言いたいことは別にあることが終盤で分かる。

 

物語の終盤、薫のある行いに対して、理由を聞かずに気持ちを聞く信がいた。理由を聞かないのは、聞かなくても分かっているからだ。ということは、その人のことが分かっていれば、理由ではなく気持ちを聞くことになる。有佳はこう言いたいのだ。

 

「わかって」

 

そして信は、少しだけ父というものに近づく。

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監督三島有紀子
主演:浅野忠信田中麗奈宮藤官九郎寺島しのぶ南沙良
原作:「幼な子われらに生まれ」重松清著 幻冬舎文庫

日本映画 2017/ 127分
 
公式サイト

http://osanago-movie.com

ギフト 僕がきみに残せるもの

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カメラに向かって語りかける男。背後にベビーベッドが見える。

 

「6週間後 あのベッドに きみがやって来る

このビデオを撮るのは僕がどんな人間か きみ分かってもらうため

できるうちに たくさん僕の姿を残しておくためだ」

 

男は元アメリカンフットボールのスター選手。スティーヴ・グリーソン。引退後、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された。そしてその6週間後、妻ミシェルの妊娠が分かる。余命2~5年と言われる難病だ。もしかすると子どもに話しかけることが出来ないかもしれない。スティーヴは1日5分間、生まれてくる子どものために、ビデオメッセージを撮り続けることにした。それがこのドキュメンタリー映画の元になった。

 

スティーヴは少しずつ運動神経が損なわれてゆく。歩きがぎこちなくなり、食事が困難になる。やがて話すことも、呼吸をすることも出来なくなってゆく。友人二人は、その様子を介護のかたわら撮り続けていた。ここまで撮影するのかというくらい、その日常を撮り続け、おかげスティーヴが何に苦しみ喜び涙するのかが痛いほどよくわかることになった。撮影時間は1500時間。それをドキュメンタリー作家のクレイ・トゥイールが111分に編集した。

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スティーヴは息子にリヴァース(川)という名前を付ける。

 

「川こそが火の源なんだ。火は木を燃料にして燃え、木を潤す水は川からくる。つまり川は火の燃料。僕という火にとって、君は川だ。」

 

普通は父親が息子の源だというイメージだが、スティーヴは息子が自分の源だという考え方をする。そして病気を自覚した彼は、これまでギクシャクとしていた自分の父親との関係を修復しようと試み始めるのだ。監督のクレイ・トゥイールは語っている。

 

「最初はこの映画は、主に悲劇的な環境で人生の目的を見つける男の物語になると思っていた。…僕が気づいていなかったのは、スティーヴと父親の関係で、その関係がスティーヴが彼の息子に残す教訓にも反映されていくところまで話が広がっていくということだった。世代を超えた父と息子の物語が現れて、驚かされた。」

 

スティーヴの父親はとても厳しい人だった。そして自分の考えを相手に押し付けようとする人らしい。映画では信仰を巡る父と子の対立が何度も描かれる。

 

「父さんの言うように信仰しないからこうなったと言いたいの?」

 

「そんなことはない。…まったく違う。」

 

そしてスティーヴはある時、泣きながら訴える。

 

「僕の心と神との関係を、無理に理解しようとしないでほしい」

 

泣くことも思うようにできないスティーヴが、それでも父親にすがって泣く姿が胸を打つ。ビデオメッセージでは、息子のリヴァースにこう語る。

 

「君はやがて僕と違う意見を持つようになる。それが楽しみだ。実際にそうなったらイラつくだろうけど。」

 

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映画の終盤、スティーヴが父親に正面から問いかける場面がある。

 

「もしやり直せるなら、どういう父親になりたいの?」

 

「もっと優しい父親に…」

 

「もう十分優しいよ」

 

その時スティーヴが少し笑ったような顔をしていたのがとても印象的だ。

 

いよいよ人工呼吸器を装着しなければ呼吸がままならないとなった時、彼はなお生きる道を選ぶ。24時間介護が必要で、アメリカでは保険がきかず、5%の人しか選ばない道だ。しかしスティーヴのモットーは、「白旗は掲げない」ということだ。苦しみながらそれでも延命を選択する。その力の源は、息子。そして同時に父親ではないかと思う。父、自分、息子、世代を通じてその中を滔々と流れ続ける「川」がある。それが生命だ。

 

「僕がきみを愛するくらい、僕を愛して欲しいな。無理かな。でも、君の息子たちは同じくらい愛して欲しい。」

 

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監督:クレイ・トゥイール

編集:クレイ・トゥイール、ブライアン・パルマ

撮影:タイ・ミントン=スモール、デヴィッド・リー

アメリカ 2016 / 111分
 
公式サイト  

http://www.transformer.co.jp/m/gift/