映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ラサへの歩き方 祈りの2400km

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五体投地という言葉に惹かれて映画を見た。―中国チベット自治区の東、マルカム県プラ村。薪をストーブにくべると子どもたちが目を覚ます。標高4000mの高地で人々はヤクを放牧し、薪を集めるために森に入る。父親を亡くしたばかりのニマは、父親の弟ヤンペルがラサに巡礼に行きたいと望んでいることを知り、共に出かけることを決意する。巡礼は父親が生前に思い残していたことだったのだ。

 

ニマが巡礼に出ることは村中に知れ渡り、多くの人が連れて行ってくれと声をかけてくる。家の新築で死者を2人も出してしまった男、家畜の解体を生業とするがその罪悪感に悩んできた男、そして妊娠6か月の女性や7歳くらいの少女、3家族11人のメンバーが集まった。

 

聖地ラサまで1200km、さらにカイラス山まで2400kmの道程だ。荷物をトラックに積み、運転手以外は五体投地という礼拝の作法で歩き続ける。両手に下駄のようなものを持ち、歩きながら手を上にあげ、一度打ち鳴らす。つぎに胸の前で二度。そして体全体を地面に投げ出し額をつける。それが延々と続く。                    

                                                                               f:id:mikanpro:20180109185717j:plain

何が起こるか待ち構えている雰囲気がドキュメンタリーのようであり、確実に美しく描かれているのが作られたシーンのようでもある。不思議な雰囲気の映画だ。見ていて途中までドキュメンタリーなのでは、と思ったほどだ。

 

監督は「胡同のひまわり」のチャン・ヤン。出演者はすべてプラ村の村人で、彼らが抱える日常の状況はそのまま映画に生かされている。

 

「この映画はドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーもフィクションもじっくりと時間をかけねばならないが、ドキュメンタリーのほうがより傍観者であり、この映画では、監督である私が出来事の中に入っていく必要があった。私は思考の幅を広げ、その時々にキャッチしたものを脚本家として映画の物語にはめ込んでいく。そして次に脚本家から抜け出し、今度は監督の手法で表現してゆく。」 

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1日に進める距離は長くて10km。途中崖が崩れ落石の中を進んだり、水に浸かった道の上に身を投げ出したり、過酷なことこの上ない。後半、急いでいた車とぶつかり荷物を運ぶトラックが壊れてしまうというアクシデントが起こる。ニマたちは荷台だけ切り離し、何人かで押したり引いたりしながら進むことにする。驚いたのは押したり引いたりする人たちがある程度進むと、動き始めた地点に戻り、そこから五体投地を始めたことだ。

 

遅れたら困るとか、時間を節約するなどの考えは一切ない。ここでは「時間」は彼らのものだ。あるいは彼らを越えたところで流れる何かだ。そのことが驚きであり、うらやましくもあった。                     

                                                                               f:id:mikanpro:20180109185823j:plain
この映画の多くのシーンはドキュメンタリーとして撮影したとしても描けるものだったと思う。しかし、なぜ監督はフィクションを選んだのか。おそらく唯一ドキュメンタリーで描けないシーンがあり、監督はそこに最もこだわったのに違いない。最終盤に来るその事を描くために延々とこの物語を紡いできたのだ。

 

それもまた、「時間」が我々の意識をはるかに超えて流れているものだということを、ひそやかに教えてくれる。

 

監督:チャン・ヤン
撮影:グォ・ダーミン
中国 2015 / 118分

公式サイト

http://www.moviola.jp/lhasa/news.html

※この映画は2016年日本公開。現在東京のシアター・イメージフォーラムでアンコール上映されています。

ルージュの手紙

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女性のいきむ声。助産婦の励ます声。生まれたばかりの赤ちゃんを取り出し、白く濡れた小さな体を母親の手のひらに渡す。赤ちゃんのかすかな泣き声。母親の静かなほほ笑み。人が誕生するために発するいくつもの声が生の温かみを伝える。

 

フランスのとある田舎町。助産婦は49歳のクレール。毎日のように出産に立ち会うベテランだ。ある夜勤明け、一本の留守番電話が入っていることに気付く。声の主は30年前、自分と父親をのもとから逃げた継母だった。

 

戸惑いながらもパリまで会いに行くクレール。なぜ今、連絡を取ってきたのか。再会した継母のベアトリスはすでに老い、自分は末期がんだと語る。人生で本当に愛した男はあなたの父親だけだ。だから会いたいのだ、と。しかし父親はベアトリスが逃げた後、そのことが原因で自死してしまっていた。

 

恨みを抱いて生きてきたクレールはベアトリスに「なぜ」と聞く。なぜ、あの時私たちを置いていったのか、と。ベアトリスは答える。

 

「人は誰でも失敗するわ。あなたはどうなの。あの人は地方で水泳教室の先生になりそうだった。つまらない男だと思ったわ。それが罪なの?」
                    

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監督は「ヴィオレット ある作家の肖像」のマルタン・プロヴォ。ベアトリスを演じるのはカトリーヌ・ドヌーヴ。 

「ベアトリスは大人の女性だけど、同時に子どもなのさ。愛らしくてチャーミングで楽しい人だけど、人に無関心な分、残酷だ。彼女は人生の終盤でようやく、自分のせいで、独りぼっちになってしまった事に気付くんだ。」(プロヴォ監督)

 

自由に生きてきたベアトリスは、相手が誰であろうと自分の在り方を変えることが出来ない。というより、病にあってなお自由であり続けるためにクレールを必要とした。そしてクレールは、戸惑いながらも継母を拒絶することが出来ない。

 

「自由とはベアトリスが考えているようなものじゃない。制限やルールがないところには存在しないんだ。ベアトリスを襲う病は、彼女の生き方や考え方を根本から覆してゆく。彼女が考える“自由”は常に逃避とセットだったけれど、突然それができなくなった時、彼女はクレールという存在が必要になるんだ。」

 

ベアトリスの自由はクレールにとってはた迷惑(不自由)なのだが、面白いのは、はた迷惑を拒絶できない関係が、クレール自身の在り方を少し変えてしまうことだ。恋に仕事に前向きな一歩を踏み出すのだ。不自由が自分の世界を変えることもある。

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父親が亡くなってから車庫にしまい込んでいたスライド写真。クレールは長く捨て置かれた思い出の品を取り出して、ベアトリスと見ることにする。

 

部屋の壁にかつて父親が生きていた姿が映し出される。写真というのはある種恐ろしい力を持っている。過去を呼び覚ますから恐ろしいのではなく、映し出された時点から今へと続く時間の長さを思い知らされるから恐ろしいのだ。

 

映画は、不意にクレールの息子シモンが、映し出された写真のすぐ横に現れることによってそのことを見事にあぶりだす。瓜二つの人間がそこにいることが、失われた過去への絶望と、同時に未来への希望を映し出す。ベアトリスは思わずシモンに口づけする。

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 父親の遺骨はセーヌ川に流した、という。クレールはセーヌ川のほとりに家庭菜園を持っている。そして息子シモンはこの川で泳ぐ。ある日クレールはベアトリスをこの菜園に案内するのだが、川のほとりに立った彼女が見つけたのは沈みかけたボートだった。

 

そのボートは何を意味するのか。長く見つめるベアトリス。川は時を流す。映画で繰り返される出産シーンが脳裏をよぎる。ベアトリスの言葉が胸を打つ。

 

「あなたの人生も私の人生も  そう悪いもんじゃないわ」

  

監督・脚本:マルタン・プロヴォ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、カトリーヌ・フロ
フランス 2017 / 117分 

公式サイト

http://rouge-letter.com/

否定と肯定

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1994年、アメリカジョージア州。「ホロコーストの真実」を書いた歴史学者デボラ・E・リップシュタットの講演が行われている。そこに乗り込んできたのが、ホロコースト否定論者のデヴィッド・アーヴィングだ。本の副題からして乗り込んできそうだ。「大量虐殺否定論者たちの嘘ともくろみ」。アーヴィングはリップシュタットを逆に嘘つき呼ばわりし挑発するが、彼女は「否定論者とは議論しない」と相手にしなかった。

 

アーヴィングは千ドルの札束を振りかざして聴衆に叫ぶ。

 

ヒトラーユダヤ人殺害を命じたと証明できるものにはこれをあげよう!」

 

2年後、アーヴィングはリップシュタットを名誉棄損で訴える。彼女は迷った末に受けて立つことにし、歴史的な裁判の幕が上がる。

 

監督は「ボディガード」のミック・ジャクソン。これは事実を基にした映画で、主人公の歴史学者デボラ・E・リップシュタットが書いた裁判の記録を下敷きにしている。

 

「これは“信頼すべき歴史学とは何か?”を問う裁判でした。私たちはアーヴィングの膨大な日記から差別的な言動を探り、彼の著作の注釈の出典をしらみつぶしに調べ、アウシュビッツの現地調査も行い、彼の虚偽を暴いていきました。歴史家は事実に対して独自の解釈をする権利はありますが、事実を故意に歪めて述べる権利はないのです。」(リップシュタット)

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映画ではリップシュタットの人間味も素直に描き出し、弁護団との確執などドラマに潤いを与えている。彼女は法廷でアーヴィングと直接対決したいのに弁護士に阻まれ、ホロコーストの生存者に証言させたいのにそれも断られてしまう。もちろんそれぞれ理由があるのだ。裁判の途中、あることからロンドンの弁護士を信頼するようになった彼女は、食事しながらこんなことを言う。

 

「私は自分の良心だけに従って生きてきたの」

 

でも、と彼女は暗に言う。でもあなたたちは、その生き方を変えろ、と言っている。今回はあなたたちに委ねる。この裁判は負けるわけにはいかないからだ、と。

 

「負けてしまったら嘘が世界に出回ることになる」

 

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それにしても自分の考えに合わないものは事実の方を曲げてしまえばいい、というのは随分と安易な話ではないだろうか。いったい誰に向かって何のためにこんなことをしているのか。逆にアーヴィングの内面を描いてみては、と思うほどだ。(それを描く事は、議論に値し得ることを認めることになり、できないのだろうか。)

 

昨今のアメリカではないが、嘘も言い募れば一定数信じる人が出てくる、というのは昔から戦略としてあるのかもしれない。リップシュタットはこうも語っている。

 

「人はよく“事実”と“見解”があり、両者は違うといいますが、私は“事実”“見解”“嘘”の3つに分けられると思っています。アーヴィングのような否定論者は“嘘”を“見解”として発信し、それを“事実”のように見せかける手法をとります。」

 

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4年後、長い戦いが終わり判決が下る。生存者に法廷で証言する場を与えることが出来ず、悔しい思いを抱え続けた彼女は判決の後このように言う。

 

「生存者と死者に言いたい。あなたたちは記憶される。苦しみは伝えられた。」

 

一方その数日後、テレビのニュース番組でアーヴィングが語った言葉を想像できるだろうか。それこそが、アーヴィングをアーヴィングたらしめているものとして、かすかに戦慄を覚える。

 

監督:ミック・ジャクソン
脚本:デヴィッド・ヘア
主演:レイチェル・ワイズティモシー・スポール
イギリス・アメリカ 2016/ 110分

公式サイト

http://hitei-koutei.com/

希望のかなた

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フィンランドの港町。岸壁に打ち付けるたぷたぷという音が、潮のにおいを感じさせる。運ばれてくるのは石炭。真っ黒な石炭の中からひょいと、大きな目をした男が顔を出す。男は町でシャワーを浴び、警察署に出向く。難民申請するためだ。

 

この男カーリドはシリアからやってきた。空爆で家と家族を失い、生き残った妹とは逃亡中にハンガリーの国境ではぐれた。

 

映画はもう一人の男を登場させる。身じまいを但し、出ていく老年の男。服のセールスマンだ。どういう関係か、座って酒を飲む老婆にカギと指輪を置いてゆく。そのまますべての服を売ってしまうと、賭博場に出向き、そのお金をすべて賭けてしまう。

 

どちらも過去を捨て新たな道をあるく男だ。この二人は出会わなければならない。そのことで映画の提示する現実が少し変わらなければならない。ライブハウスでは男が歌っている。

 

♪音楽か死か 音楽がすべて 理由などない
♪運がよけりゃうまくいく 賭けない奴は臆病なのさ

                

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監督は「ル・アーブルの靴磨き」のアキ・カウリスマキ。映画の背景をこう語っている。

フィンランドに3万人の若いイラク人が突然押し寄せてきた時、多くのフィンランド人が60年まえのように攻めこまれていると言い出した。新しい車とかワックスとかガソリンが、奴らに盗まれると言うんだ。」

 

そしてユーモアを交えた口調でこう付け加える。

「私はとても謙虚なので、観客ではなくて、世界を変えたかったんだよ。……映画にそんな影響力はない。だけど正直に言えば、その中の3人くらいにはこの映画を見せて、みんな同じ人間だと分かってもらいたかった。今日は“彼”や“彼女”が難民だけど、明日はあなたが難民になるかもしれないんだ。」

 

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カーリドは入国管理局で問われる。なぜフィンランドに来たのか、と。彼がこの国に来たのはただの偶然だった。しかし、石炭船に紛れ込んだとき親切にしてくれたフィンランド人が、このように語ったとカーリドは言う。フィンランドは皆が平等でいい国だ。内戦を経験して難民も出した。国民は決してそれを忘れない」と。

 

しかし申請の結果は不可。なぜかシリアには重大な害がないとされたのだ。翌日には本国に送還される。その夜、皮肉なことにシリアの小児病院が空爆されたニュースが流れ、カーリドはある決意をする…。

 

一方、賭博で儲けた老年の男は、その金でレストランを買う。かねて念願のレストラン経営に乗り出したのだが、居ついている従業員はそれぞれ一癖ある人物の様だ。ただ、男は意に介することもない。癖は癖のまま飲み込む。茫洋としてつかみどころがないが、大きな男だ。ある時、ごみ置き場の隅にカーリドがうずくまっているのを見つけるが…。

 

寛容とは、理性で計り知れない人間の器を要求するように思う。そのような器を誰しも持てるわけではない。ただ、なにがしか人生に問題が起こった時、この茫洋とした男の顔を思い出すのがいいかもしれない。少しは心の幅が広がるかもしれない。人間の幅が結局は人間を救うのだ。             

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映画は映画でしか表現できない不思議なユーモアを湛えて、時に大笑いしてしまう。そのあとで、笑いに含まれたペシミスティックな苦みを噛みしめることになる。監督は言う。

 

「文化なんて、人間の肩に積もった1mmの塵のようなものなんだ。」

 

大切なものほど、意識していないとすぐに消えてしまうのかもしれない。

 

監督・脚本:アキ・カウリスマキ
主演:シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン
フィンランド 2017 / 98分 

公式サイト 

http://kibou-film.com/

ギフテッド

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フロリダ。小学校1年のクラス。3+3なんてばかばかしい。6に決まってる、と偉そうに言う少女。カチンときた先生は次々に問題を出すが、少女は3ケタの掛け算まですべて答えてしまう。

 

「天才じゃないか?」

 

驚いた先生は、保護者のフランクに「この子には特別な才能がある」というが、フランクは単純な暗算方法があるんだと言って取り合わない。しかしこの子、メアリーは確かに天才なのだ。すでに高等数学までマスターしているのだから。ただフランクは特別な教育を施すのでなく、普通の学校で同年代の子どもたちと育った方が幸せだと考えている。

 

まったく知らなかったが、こうした特別な才能のある子どもを「ギフテッド」というらしい。神様から特別な能力を授かった、という意味なのだろうか。メアリーはフランクの姉の子、つまり姪だ。姉は優秀な数学者だったが、メアリーが生まれてすぐ自死してしまう。普通に育てたいというのは姉の遺志でもある。校長からギフテッドのための特別な学校に行っては?と勧められたフランクはこう言い放つ。

 

「ばかになっても、普通に育てば、みんなが喜ぶ」

 

だがフランクは、何がメアリーにとっての幸せか、確信を持つことが出来ない。居酒屋で飲みながら、「最大の恐怖は?」と問われると「メアリーの人生を壊すこと」と答えるのだ。そんな時、メアリーの祖母(つまり自分の母親)が家にやってきて、メアリーは私が育てると言い出すのだが…。     

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                                                                    監督は「アメイジングスパイダーマン」シリーズのマーク・ウェブ。「ギフテッド」の脚本に出会った時のことをこう語っている。

 

「そこには、宇宙船のレーダーには映らない、人間の営みがとても深く描かれていた。ハリウッドの大きなスタジオがシニカルになって、人々を刺激するものだけを作るようになっている一方で、この脚本には人間の持つ小さな情熱を祝福するような感覚があった。それも、とてもリアルなものとしてね。」

 

フランクは海沿いの町でボートの修理をして暮らしている。貧乏なアパート暮らし。家族はメアリーと片目の猫フレッドだ。メアリーの祖母は環境が良くない、とフランクから親権を奪う裁判を起こす。しかしフランクの姉はその母に操られるように生き、最後に自死してしまったのだ。同じようにさせられない、とフランクが思うのは無理もない。

 

数学の専門書にかじりつくメアリーを、無理やり外に連れ出し、海辺で語り合うシーンが美しい。フランクは「何があっても俺たちは一緒だ」と繰り返し告げる。

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私たち凡人は才能のある人たちの活躍を見ることで、生きる勇気や力をもらうことがある。そういう意味で、メアリーがそうした人に育ってもいいのじゃないか、と思う。しかしそこにメアリーの不幸感が前提としてあるならどうだろうか。

 

いろいろな天才たちの例が示すように、才能の開花と幸福とはなかなか両立しない。飛びぬけた才能とは幸福の追求のためにあるのではなく、それを持つ本人を苦しめるためにあるかのようだ。育てる方はそこに悩みが生じ、正解もなく苦しむことになる。
            

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メアリー役のマッケナ・グレイスは11歳。この映画のメッセージについて問われ、なるほどと思わせることを話していた。

 

「結局、ある人の家族が完璧かどうかなんて誰にも言えないってこと。…完璧な家族には、お母さんとお父さん、大きな家にたくさんのお金がなければならないと人は言う。でも、愛と思いやりのある人と暮らしているかぎり、それがその人にとって完璧なんだと思うわ。」

 

完璧を幸福と言い換えてもいい。そしてこう続ける。

 

「だから、ハッピーな気持ちで映画館を出てほしいな。幸せを感じて誰かを抱きしめたくなるような気持ちで。みんなが幸せで、人にはそれぞれ事情があることをわかり合って、人に優しくしなきゃって感じてほしいって思ってるの。」

 

映画は紆余曲折を経てある解答を見出す。もちろん何が正しいかなんてわからない。ただ、マッケナ・グレイスが届ける幸福のイメージは、まさしく「贈り物」として心に刻むことになる。

 

監督:マーク・ウェブ
脚本トム・フリン
主演:クリス・エヴァンス、マッケナ・グレイス
アメリカ 2017/ 102分

公式サイト

http://www.foxmovies-jp.com/gifted/

我は神なり

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韓国の片田舎。やがてダムができて村は水没する運命にある。そんな村に、嫌われ者のキム・インチョルが数年ぶりに帰って来る。賭場や酒場、行く先々で面倒を起こす。高校生の娘が大学の学費にと貯めていた貯金にも手を付ける。ある時、飲み屋で喧嘩し殴られた相手が、詐欺で指名手配されていることを知る。

 

その男の後をつけてみると、最近村に建てられた大きな教会に入ってゆく。そこで男は若い牧師と一緒に、車いすの人間が立ち上って歩く「奇跡」を演じていた。「そいつは詐欺師だ!」と叫ぶインチョル。しかし村人は誰一人その言葉を信じようとしない。それどころかみな、水没後に建設されるという「祈祷院」のために、ダムの補償金をつぎこんでいる。

 

男の仲間は、必死で訴えるインチョルを半殺しの目にあわせる。若い牧師は騙されていることを薄々感じながら、何も言うことが出来ない。翌日、詐欺師の男は大学を諦めたインチョルの娘に、学費を出してやる…、とささやくのだが。 

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 監督は「新感染 ファイナルエクスプレス」のヨン・サンホ。「新感染」は実写映画だが、ヨン監督はもともとアニメーション作家だ。2013年に作られたこの作品もアニメ映画である。

 

「当初の企画から、『真実を語る悪人』と『偽りを言う善人』の対決を描くのが目標でした。私たちはしばしば、ある人が真実を語っているにもかかわらず、その語っている人のイメージが自分が望むものと違っていたり、自分が認めることのできない悪人であったりする時、彼の言葉を嘘とみなしてしまいます。逆に語っている人が善人だという理由で、彼の話をすべて真実だと思ったりします。これが、人が間違った信念を持つようになる契機だと思いました。」

 

娘は詐欺師の男のいいなりになって、町のいかがわしい飲み屋で働く。半狂乱のようになって娘を連れ戻すインチョル。「騙されている!」と言い募る父親に娘はこう答える。

 

「神に愛されていると言われた。人は神に愛されるために生まれてきたの。そうでないなら何で生きているの?」

 

人はなぜ生きるか、その答えは普通には簡単に得られない。しかし宗教はその答えを与えてくれる。そこにつけこまれるスキができるのだろう。ただ生きている意味を探すのは人間の性ではないだろうか。娘の質問に対するインチョルの答えはこうだ。

 

「運命だからだ」

 

そこには、「人はなぜ生きるか」という問いを拒否する強い思いがあるように感じられた。

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 そもそも騙されることは不幸なのか。インチョルの弟分の妻は病気で寝込んでいたが、教団の売る「奇跡の水」を飲み続け、天国に行けるようにと献金を急ぐ。はたから見れば騙されているわけだが、彼女が亡くなったとき、その死に顔の穏やかさに夫は感動する。このように穏やかに死ねるのは、信仰のおかげだというわけだ。自分たちのお金をつぎ込むだけだ。誰もそれを責めることはできない。ウソでも幸せをもたらすことが出来る。

 

映画は終盤になって怒涛の展開を見せる。善人に見える人は本当に善人か。悪人に見える人間は悪人なのか。何が善で何が悪か。真実とは?嘘とは?ーその混乱の中で、自分は何を拠り所に生きていけばいいのか、深く考えさせられる。失意のインチョンは最後にこうつぶやくのだ。


「俺は真実を言っただけなのに…」

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監督・脚本:ヨン・サンホ
声の出演:ヤン・イクチュン、オ・ジョンセ
韓国映画 2013/ 101分
 
公式サイト   

https://warekami-movie.com/            

We Love Television?

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深夜の住宅街。車の中である男の帰宅を待つ。帰ってきたのは欽ちゃん、萩本欽一だ。待っていた金髪の中年男は「大将!」と声をかける。驚いて振り向く欽ちゃん。

 

「もう一回視聴率30%の番組を作りましょう!」

 

というと、

 

「うわぁ、こんなにうれしい話をするの?最高だね。ほんと?最高だね。うわぁ……泣いちゃうよ、おれ。もう、欽ちゃん、泣いちゃう。」

 

と大感激。欽ちゃんは80年代、週に3本のレギュラー番組がすべて30%を超えるという伝説を持っている。その伝説をもう一度再現したい。30%超えを目指す番組の制作だ。この日から半年後の放送に向けて、萩本欽一70歳の挑戦が始まった…。

                        

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金髪の中年男の名は土屋敏男日本テレビのプロデューサーであり、この映画の監督だ。90年代、「進め!電波少年」で最盛期、やはり30%を記録した。映画は時に自身が登場し、時に欽ちゃんに預けたビデオを駆使して、番組完成までの半年間を克明に追ったドキュメンタリーである。

 

「この映画で、僕の積年の思いが完結しました。…僕にとって追いつきたいけど追いつけない師匠であり、常に動き続けている運動体、萩本欽一の最初で最後の貴重な映像になったと思います。」

 

番組の準備が進み、ディレクターとの顔合わせの場面で欽ちゃんはこんなことを言う。

 

「台本が出来てくると、ディレクターは面白くしようとして手を入れる。100%みなそうなの。だけど台本を面白くすると番組はつまらなくなる。だからそのままでいいの。手を入れないで。」

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この映画で欽ちゃんが繰り返し語ることがある。それは、「熱」だ。本番でタレントが出す「熱」に視聴者は惹かれる。「熱」を出すためにどうすればいいかを常に考えている。そのひとつは予定調和を避けることだ。本番でどうすればいいか困ったとき、タレントは必死になる。タレントの「熱」が出る。欽ちゃんはテレビがドキュメントであることを発見した、と土屋監督は言う。欽ちゃんが発見した鉱脈を掘り進めて行ったのが「進め!電波少年」の土屋監督自身だった。

 

「いまの若い人は、何をやるのでも、事前に安心したがるのかもしれないなぁ。テレビを作るのでも、やる内容を早く決めたがる。本番前に安心したいのね。番組の内容が決まれば、安心して、ずっと同じことをやっているわけだけど。でも、『安心したい』って何なの?テレビを観る人は、安心を観たいわけ?いや、『熱さ』を観たいんじゃないの?『夢中さ』を観たいんじゃないの?」(欽ちゃん)

 

あまり熱心に見ていなかったせいか、欽ちゃんが「型」を壊すことにこんなに熱心な人だとは知らなかった。欽ちゃんという「型」を壊すことに欽ちゃん以後のお笑いがあるのだと勝手に思っていたのだ。

                      

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土屋監督はさまざまなタレントを使い、欽ちゃんの素の面白さを引き出そうとする。そしてメインとなるコントの収録直前、出演者を巡ってある事件が起きる。欽ちゃんはこの事態に果たしてどう対処するのか…。この映画のクライマックスだが、あとで考えるとこれも土屋監督の演出ではないかと思えてきた。欽ちゃんの「熱」を引き出すための。どうも油断ならない男である。

 

ただ、そこまで視聴率にこだわらなくてもいいのでは?とか、30%超え週3本で100%視聴率男、というのもちょっと違うんじゃないか、とか感じる人も多いのではないだろうか。(確かにすごいことではあるのですが。)私が見た回では終了後にトークショーがあり、土屋監督が登壇し、こんなことを語っていた。

 

「我々は視聴率をビジネスツールとして考えるけれど、欽ちゃんの言う30%って、我々が考える30%とちょっと違っている。ただ純粋に、とんでもなく面白い番組を作りたいということなんだと思う。」
                      
70歳を超えてこの「熱さ」。トークショーでもう一人のゲスト齋藤精一氏はこんな風に語っている。

 

「ラストシーンで欽ちゃんがにこやかに歩く場面は、周囲に幸せを振りまく『花咲かじいさん』のようだ」 

 

この言葉に深く頷く。

 

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企画構成・監督:土屋敏男

出演:田中美佐子河本準一 ほか

日本映画 2017/ 120分
 
公式サイト 

http://kinchan-movie.com/