映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ロープ 戦場の生命線

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前方にほのかな明かりが見える。手前に何か羽根のようなものがゆっくりと回転している。暗い井戸の中から外を見上げた映像だ。やがて回転するものが人間だと分かる。井戸に落ちた人間をロープで引き上げているのだ。しかし水を含んだ死体は重く、ロープが切れてしまう。

 

1995年、民族間の紛争が続くバルカン半島のどこか。ようやく停戦が実現したが、戦争の余波が消えていない。“国境なき水と衛生管理団”は村人の生活用水である井戸水を確保するため、死体を引き上げなければならない。しかし肝心のロープが切れてしまい、なかなか手に入らない。

 

職員のマンブルゥは偶然知り合った地元の少年から、自宅にロープがあると告げられる。少年は両親と離れ祖父の家で暮らしているが、かつて住んでいた家にあるというのだ。マンブルゥは仲間と少年を連れて村に向かうが…。                    

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 監督・脚本はフェルナンド・レオン・デ・アラノア。ボスニア紛争や、ウガンダでの国境なき医師団のドキュメンタリーなども撮ってきたスペインの監督だ。

 

「この映画は戦争の風景ではなく、もうひとつの戦争、つまり静かな戦争に焦点を当てている。前線や和平協定を越えて展開する闘いであり、地雷や武装した子供たち、軍の検問所、一触即発となった隣人に対する憎悪、そしてそれよりも3倍強い母親たちの恐怖の中に起きている戦争である。」

 

車を走らせていると道の真ん中に牛の死体が横たわっている。牛をそこまで引きずってきた跡がある。つまりこれは罠だ。牛をよけて通ればそこに地雷が埋まっている。右か左か、それとも牛の中か。否応なしに理不尽な選択を迫られる。停戦してもそれがこの地域の実態なのだ。

 

映画はマンブルゥの元恋人、新人女性のソフィー、戦場に慣れたビー、現地通訳のダミールが、一本のロープ探索に奔走する中でそれぞれの人間味を発揮してゆく。少年の住んでいた村は破壊され、そこで彼らが見たものは紛争がもたらす過酷な現実だった。ソフィーはこの仕事にまだ慣れず、多くのことに驚き、憤慨し、住民を取り巻く現実の悲惨さに落ち込む。そんな時マンブルゥは彼女に向かってこう言う。

 

「ここでは過去も未来も考えるな。今だけを考えろ。」

 

ここに彼らが置かれた立ち位置がある。それを踏み外すことは即、生命の危険につながるということなのだろう。彼らが対処しなければならない現実とは、高邁な理想ではなく「今」そのものなのだ。

 

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“国境なき水と衛生管理団”というのは知らなかったが、考えてみればこういう人たちがいなければ、死者の数は計り知れないほどになってしまう。本当は戦争の根っこを断つことが重要だとは誰もが知っている。しかし、それを待っている間に大勢が亡くなってゆく。

 

果たしてロープは見つかるのか。井戸に沈んだ死体は引き上げられるのか。時折ブラックなユーモアを交えて物語は進む。監督のフェルナンド・レオン・デ・アラノアは語っている。

 

「大変な悲劇に見舞われていると、荒れ果てた埃だらけの絶望的な土地に、しばしば機知に富んだユーモアが生まれる。なぜなら地球上で、これほど冗談が必要な場所は他にないからである。」

 

原題は「A PERFECT DAY」という。パーフェクトな一日、というのも皮肉なユーモアである。ラストでこのタイトルの意味が理解でき、見ている私たちも苦く大笑いすることができる。

                                                 

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監督・脚本:フェルナンド・レオン・デ・アラノア
主演:ベニチオ・デル・トロティム・ロビンス、メラニー・ティエリー
スペイン  2015 / 106分

公式サイト

http://rope-movie.com/              

スリー・ビルボード

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アメリカ・ミズーリ州。さびれた道路に朽ちかけた3枚の広告看板が並ぶ。写真も剥がれ落ち、そこに何も読み取ることは出来ない。「あんな道は迷ったやつか、ぼんくらしか通らない」という道路で、今や広告を出す人間など誰もいない。ミルドレッドはこの3枚の看板に意見広告を出すことを思いつく。

 

1枚目:レイプされて死んだ
2枚目:犯人逮捕はまだなの?
3枚目:なぜ?ウィロビー署長

 

真っ赤な下地に黒字で大きくー。
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ミルドレッドは7か月前に娘を殺された。犯人逮捕のためにいったい警察は何をしている?―いらだちが文字となってほとばしる。警察がみな悪徳でどうしようもない連中ばかりなら話は単純だったろう。しかし名指しされたウィロビー署長は、職務に忠実な男で住民の信頼も厚い。しかもガンを患い余命が宣告されているのだ。もちろんミルドレッドはそれを知っている。しかし容赦しないと決めているのだ。

 

この看板はテレビでも報道され、町中の人が知るところとなる。テレビのインタビューでミルドレッドは、「黒人いじめに忙しくて警察は何もしない」と手厳しい。歯医者や神父、ウィロビー署長を敬愛する様々な人が、ミルドレッドを説得しようと試みるが…。

 

監督はマーティン・マクドナー
「主人公のミルドレッド・ヘイズは強く断固としていて、怒り狂っているが、それでいて心は深く傷ついている。これが物語の発端だった。…行き場のない怒りや喪失感を抱えた時、人はどこへ向かうのか? 希望が生まれるまで波風を立て続けると決めたらどうなるのか? これを探求するのはおもしろいと思った。」

 

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ミルドレッドには確信的な哲学がある。「あるグループに属するものはグループ内の誰かが罪を犯したとき、同じ罪をかぶる」というものだ。神父がミルドレッドの行き過ぎを注意するために訪れた時、こう言い放つ。

 

「教会では少年の性的虐待がある。教会に関係するあなたにはその責任がある。私を説教する資格なんかない」

 

これをおそらく警察にも当てはめているのだろう。「人種差別している警官がいる時、いくら人徳者でもウィロビー署長にその責任がある」と。

 

映画は、人種差別主義者でウィロビー署長を敬愛する警官ディクソンを登場させる。ディクソンはミルドレッドにとって明らかに敵。ふたりは捩れた縄のように絡まりあいながら物語が進んでゆく。だが、ディクソンは単なる人種差別主義警官のアイコンではない。複雑な内面を抱えた悩める若者なのだ。そのことが映画に一筋縄ではいかない捻じれた深みを与えている。


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ミルドレッドを見ていると、「強い思いは何かを変える」と思えてならない。軋轢を恐れ、言いたいこともなかなか言えない多くの人にとって(私もそうですが)、強い思いを貫徹できる人はある種のヒーローと言っていい。軋轢こそが何かを変えるのだ。ミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンドは語っている。

 

「(ミルドレッドは)悲しい時にも、流す涙がない。自分の弱さを見つけられないから、彼女にとっては、泣くよりも火炎瓶を投げるほうがずっと簡単なんです」

 

一連の軋轢によっていちばん変えられたのは、人種差別主義警官のディクソンかも知れない。ディクソンとミルドレッドは似ている。怒りを隠すことが出来ない。その結果生じた様々なことが、逆に自らの生きざまを変えてゆく。ディクソンはどう変わったのか。それは言葉ではうまく説明できないほど根本的な何かだ。

 

ディクソンが変わったのだ、ミルドレッドも変わったはずだ。そうは見えないが、そうに違いないと思える。そのことを示すさりげなさに感嘆する。

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監督・脚本マーティン・マクドナー
主演:フランシス・マクドーマンドサム・ロックウェルウディ・ハレルソン
イギリス・アメリカ  2017 / 116分

公式サイト

http://www.foxmovies-jp.com/threebillboards/

デトロイト

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1967年、アメリカミシガン州デトロイト。無許可で営業する黒人の酒場が摘発された。客と従業員を次々に車に乗せる白人の警察。やがて近隣の黒人たちが周りを取り囲みはじめる。最後の車が行ってしまうと、黒人たちはやりきれない怒りに任せて周囲の店を襲う。彼らの怒りは激しさを増し、町中で放火、略奪が繰り返される。

 

やがて州警察や軍隊まで出動する事態となったデトロイトは、戦場の様相を呈し始める。若い白人警官は治安を守るためと称して、窃盗で逃げる黒人を背後から打ち殺す。もはや理性が失われている。

 

地元の黒人ボーカルグループ「ザ・ドラマティックス」もこの暴動のあおりを受け、せっかくの舞台が中断されてしまう。まだ人気が出る前のチャンスを奪われ、リードシンガーのラリーは悔しさをおさえきれないまま、友人と安ホテルに落ち着く。

 

しかしその夜、別の部屋の若者がおもちゃのピストルを警官隊に向けて打ち鳴らしたことから、このホテルは修羅場と化す…。                     

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映画は当時ホテルにいた人々を探し出し、彼らが語る事実を忠実に再現した。監督は「ハートロッカー」のキャスリン・ビグロー。脚本・製作は「ハートロッカー」と同じマーク・ポール。

 

「これは必ず伝えなければならないストーリーだと思いました。なぜなら過去を振り返る価値のひとつには、それによって現在を別の視点から見ることができるということがあるからです。過去と比べてどのように変わったのか、もしくは何が変わっていないのか、という疑問を持つことができるのです。」(マーク・ポール)

 

50年前の実話だが、何も変わっていない。ここ数年アメリカでは警官が丸腰の黒人青年を射殺する事件が相次ぎ、大規模なデモにまで発展しているのだ。

 

映画で警官隊は狙撃を受けたと勘違いし、即座にホテルを取り囲んだ。逃げようとした若者を撃ち殺し、居合わせた若者たちすべてを拘束。ラリーと友人を含む黒人男性7人。白人女性2人。廊下に一列に並ばせ、誰が撃ったのか、ピストルはどこなのか、暴力と狂気に満ちた尋問が執拗に繰り返され、いつ終わるとも知れず続く。しかし若い白人警官もこうしたことが違法であることは十分認識している。それゆえに救いようがない。

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白人以外は人間じゃないと思っている人が一定数いる社会で、白人以外の人間が生きていくのは相当に苦しいだろうと思う。一定数の中に、ある主の権力を持つ人間がいる場合には特に。しかし皆ここで生まれてここで育ったのだ。ここで生きてゆくしかない。何とか折り合いがつかないものか。

 

理性はいつも不安定な積み木のように積み上げられ、少しの揺れで崩れ落ちる。後に残るのは素の人間なのだが、素の人間が理性によってほんの少しでも強くなることが出来ればいいのに。

 

ラリーは事件後、白人の前で歌うことができなくなる。ボーカルグループもやめた。極貧の中、生きていくために教会の聖歌隊の仕事に応募。そこで彼は黒人のために歌い続ける。ある意味でそれは彼なりの道を見つけたといえるだろう。だが、いつまでも心に響くその歌声が悲しくてやりきれない。                      

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監督:キャスリン・ビグロー

脚本:マーク・ポール

主演:アルジー・スミス、ウィル・ポールター、ジョン・ボイエガ

アメリカ 2017 / 142分

 

公式サイト

http://www.longride.jp/detroit/

はじめてのおもてなし

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ドイツ、ミュンヘン。ひとりの難民の青年が美容院で髪の毛を切っている。仲間から、その髪型だとドイツ人に嫌われるとアドバイスを受けたのだ。ナイジェリアから逃がれて来たディアロは、難民センターで暮らしながら、難民の認定を待っている。

 

と、ここで画面が一転する。閑静な住宅街の大邸宅。病院の医長をつとめるハートマン氏は、元教師の妻と二人暮らし。すでに老境だが、自分の「老い」は意地でも認めたくない。友人の整形外科医にヒアルロンサン注射をしてもらってしわを伸ばし、同じような整形女性が集うクラブに通っている。

 

息子はバツイチのシングルファーザー、加えてワーカホリック。娘は31歳にしてまだ大学生。それぞれに問題を抱えている。ある日、こうした家族を前に妻のアンゲリカが突然宣言する。

 

「難民をひとり家に受け入れることにしたわ」

 

ハートマン氏は口角泡を飛ばして大反対。だが妻の決心は固い。しぶしぶ難民センターに行くハートマン氏だったが…。                                                         

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これはコメディ映画である。監督はサイモン・バーホーベン。もともと制作のテーマは「難民」ではなく、「家族」だそうだ。

 

「今回の映画はまず家族の物語です。登場人物の構想は既に出来上がっていましたが、何かが足りなかった。そんな時、難民を絡めるアイデアが浮かびました。・・・生死にかかわる問題に直面したアフリカ人が、裕福なドイツの家庭に来たらどうなるのだろうか?」

 

まずハートマン氏は難民センターで「好きなのを選んでいいんですか?」と訪ねる。するとセンター職員はこう答えるのだ。

 

「動物保護施設じゃない」

 

難民センターではおとなしく暮らしていたディアロだったが、ハートマン家で暮らすようになると、いくつもの騒動に巻き込まれてしまう。しかし彼は難民として認定されないと追い返されてしまうのだ。果たしてこんなことで大丈夫なのか。登場人物のほとんどはカリカチュアされ面白おかしく物語は進んでゆく。

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ディアロは祖国で壮絶な経験をして、命からがらここにいるわけだが、多くを語らないのでハートマン一家はうまく想像できない。ただ彼が違う文化と価値観を持っているために、言葉のはしはしが意表をつくものになる。そのため、自らを客観的に見てしまう機会を与えられるのだ。

 

なかでもハートマン氏に食って掛かる娘に対して、「父親に敬意を持たなければいけない」と諭すシーンは面白い。ディアロはその理由を

 

「老人なのだから」

 

というのだ。その瞬間のハートマン氏の憮然とした表情が笑える。老人であることを忌避する社会と老人であることを誇りに思う社会。先進国というのはやはり、何か大事なものを捨て去ってきたのだと感じてしまう。その代わりに得たものはいったい何だったのだろうか。                                          

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ハートマン一家はこの異文化の申し子によって、硬直した関係に少しずつ変化を見せてゆく。一家にとってはいいことばかりのようだ。しかし物語の終盤、「親戚を大勢呼び寄せる」とディアロに言われ、ハートマン氏は絶句する。「冗談、冗談」と笑うディアロだが、そこに現実の苦い味がじわじわと染みてくる。

 

監督・脚本:サイモン・バーホーベン
主演:ハイナー・ラウターバッハ、センタ・バーガー、エリック・カボンゴ
ドイツ  2016 / 116分 

公式サイト

http://www.cetera.co.jp/welcome/

ラサへの歩き方 祈りの2400km

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五体投地という言葉に惹かれて映画を見た。―中国チベット自治区の東、マルカム県プラ村。薪をストーブにくべると子どもたちが目を覚ます。標高4000mの高地で人々はヤクを放牧し、薪を集めるために森に入る。父親を亡くしたばかりのニマは、父親の弟ヤンペルがラサに巡礼に行きたいと望んでいることを知り、共に出かけることを決意する。巡礼は父親が生前に思い残していたことだったのだ。

 

ニマが巡礼に出ることは村中に知れ渡り、多くの人が連れて行ってくれと声をかけてくる。家の新築で死者を2人も出してしまった男、家畜の解体を生業とするがその罪悪感に悩んできた男、そして妊娠6か月の女性や7歳くらいの少女、3家族11人のメンバーが集まった。

 

聖地ラサまで1200km、さらにカイラス山まで2400kmの道程だ。荷物をトラックに積み、運転手以外は五体投地という礼拝の作法で歩き続ける。両手に下駄のようなものを持ち、歩きながら手を上にあげ、一度打ち鳴らす。つぎに胸の前で二度。そして体全体を地面に投げ出し額をつける。それが延々と続く。                    

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何が起こるか待ち構えている雰囲気がドキュメンタリーのようであり、確実に美しく描かれているのが作られたシーンのようでもある。不思議な雰囲気の映画だ。見ていて途中までドキュメンタリーなのでは、と思ったほどだ。

 

監督は「胡同のひまわり」のチャン・ヤン。出演者はすべてプラ村の村人で、彼らが抱える日常の状況はそのまま映画に生かされている。

 

「この映画はドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーもフィクションもじっくりと時間をかけねばならないが、ドキュメンタリーのほうがより傍観者であり、この映画では、監督である私が出来事の中に入っていく必要があった。私は思考の幅を広げ、その時々にキャッチしたものを脚本家として映画の物語にはめ込んでいく。そして次に脚本家から抜け出し、今度は監督の手法で表現してゆく。」 

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1日に進める距離は長くて10km。途中崖が崩れ落石の中を進んだり、水に浸かった道の上に身を投げ出したり、過酷なことこの上ない。後半、急いでいた車とぶつかり荷物を運ぶトラックが壊れてしまうというアクシデントが起こる。ニマたちは荷台だけ切り離し、何人かで押したり引いたりしながら進むことにする。驚いたのは押したり引いたりする人たちがある程度進むと、動き始めた地点に戻り、そこから五体投地を始めたことだ。

 

遅れたら困るとか、時間を節約するなどの考えは一切ない。ここでは「時間」は彼らのものだ。あるいは彼らを越えたところで流れる何かだ。そのことが驚きであり、うらやましくもあった。                     

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この映画の多くのシーンはドキュメンタリーとして撮影したとしても描けるものだったと思う。しかし、なぜ監督はフィクションを選んだのか。おそらく唯一ドキュメンタリーで描けないシーンがあり、監督はそこに最もこだわったのに違いない。最終盤に来るその事を描くために延々とこの物語を紡いできたのだ。

 

それもまた、「時間」が我々の意識をはるかに超えて流れているものだということを、ひそやかに教えてくれる。

 

監督:チャン・ヤン
撮影:グォ・ダーミン
中国 2015 / 118分

公式サイト

http://www.moviola.jp/lhasa/news.html

※この映画は2016年日本公開。現在東京のシアター・イメージフォーラムでアンコール上映されています。

ルージュの手紙

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女性のいきむ声。助産婦の励ます声。生まれたばかりの赤ちゃんを取り出し、白く濡れた小さな体を母親の手のひらに渡す。赤ちゃんのかすかな泣き声。母親の静かなほほ笑み。人が誕生するために発するいくつもの声が生の温かみを伝える。

 

フランスのとある田舎町。助産婦は49歳のクレール。毎日のように出産に立ち会うベテランだ。ある夜勤明け、一本の留守番電話が入っていることに気付く。声の主は30年前、自分と父親をのもとから逃げた継母だった。

 

戸惑いながらもパリまで会いに行くクレール。なぜ今、連絡を取ってきたのか。再会した継母のベアトリスはすでに老い、自分は末期がんだと語る。人生で本当に愛した男はあなたの父親だけだ。だから会いたいのだ、と。しかし父親はベアトリスが逃げた後、そのことが原因で自死してしまっていた。

 

恨みを抱いて生きてきたクレールはベアトリスに「なぜ」と聞く。なぜ、あの時私たちを置いていったのか、と。ベアトリスは答える。

 

「人は誰でも失敗するわ。あなたはどうなの。あの人は地方で水泳教室の先生になりそうだった。つまらない男だと思ったわ。それが罪なの?」
                    

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監督は「ヴィオレット ある作家の肖像」のマルタン・プロヴォ。ベアトリスを演じるのはカトリーヌ・ドヌーヴ。 

「ベアトリスは大人の女性だけど、同時に子どもなのさ。愛らしくてチャーミングで楽しい人だけど、人に無関心な分、残酷だ。彼女は人生の終盤でようやく、自分のせいで、独りぼっちになってしまった事に気付くんだ。」(プロヴォ監督)

 

自由に生きてきたベアトリスは、相手が誰であろうと自分の在り方を変えることが出来ない。というより、病にあってなお自由であり続けるためにクレールを必要とした。そしてクレールは、戸惑いながらも継母を拒絶することが出来ない。

 

「自由とはベアトリスが考えているようなものじゃない。制限やルールがないところには存在しないんだ。ベアトリスを襲う病は、彼女の生き方や考え方を根本から覆してゆく。彼女が考える“自由”は常に逃避とセットだったけれど、突然それができなくなった時、彼女はクレールという存在が必要になるんだ。」

 

ベアトリスの自由はクレールにとってはた迷惑(不自由)なのだが、面白いのは、はた迷惑を拒絶できない関係が、クレール自身の在り方を少し変えてしまうことだ。恋に仕事に前向きな一歩を踏み出すのだ。不自由が自分の世界を変えることもある。

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父親が亡くなってから車庫にしまい込んでいたスライド写真。クレールは長く捨て置かれた思い出の品を取り出して、ベアトリスと見ることにする。

 

部屋の壁にかつて父親が生きていた姿が映し出される。写真というのはある種恐ろしい力を持っている。過去を呼び覚ますから恐ろしいのではなく、映し出された時点から今へと続く時間の長さを思い知らされるから恐ろしいのだ。

 

映画は、不意にクレールの息子シモンが、映し出された写真のすぐ横に現れることによってそのことを見事にあぶりだす。瓜二つの人間がそこにいることが、失われた過去への絶望と、同時に未来への希望を映し出す。ベアトリスは思わずシモンに口づけする。

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 父親の遺骨はセーヌ川に流した、という。クレールはセーヌ川のほとりに家庭菜園を持っている。そして息子シモンはこの川で泳ぐ。ある日クレールはベアトリスをこの菜園に案内するのだが、川のほとりに立った彼女が見つけたのは沈みかけたボートだった。

 

そのボートは何を意味するのか。長く見つめるベアトリス。川は時を流す。映画で繰り返される出産シーンが脳裏をよぎる。ベアトリスの言葉が胸を打つ。

 

「あなたの人生も私の人生も  そう悪いもんじゃないわ」

  

監督・脚本:マルタン・プロヴォ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、カトリーヌ・フロ
フランス 2017 / 117分 

公式サイト

http://rouge-letter.com/

否定と肯定

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1994年、アメリカジョージア州。「ホロコーストの真実」を書いた歴史学者デボラ・E・リップシュタットの講演が行われている。そこに乗り込んできたのが、ホロコースト否定論者のデヴィッド・アーヴィングだ。本の副題からして乗り込んできそうだ。「大量虐殺否定論者たちの嘘ともくろみ」。アーヴィングはリップシュタットを逆に嘘つき呼ばわりし挑発するが、彼女は「否定論者とは議論しない」と相手にしなかった。

 

アーヴィングは千ドルの札束を振りかざして聴衆に叫ぶ。

 

ヒトラーユダヤ人殺害を命じたと証明できるものにはこれをあげよう!」

 

2年後、アーヴィングはリップシュタットを名誉棄損で訴える。彼女は迷った末に受けて立つことにし、歴史的な裁判の幕が上がる。

 

監督は「ボディガード」のミック・ジャクソン。これは事実を基にした映画で、主人公の歴史学者デボラ・E・リップシュタットが書いた裁判の記録を下敷きにしている。

 

「これは“信頼すべき歴史学とは何か?”を問う裁判でした。私たちはアーヴィングの膨大な日記から差別的な言動を探り、彼の著作の注釈の出典をしらみつぶしに調べ、アウシュビッツの現地調査も行い、彼の虚偽を暴いていきました。歴史家は事実に対して独自の解釈をする権利はありますが、事実を故意に歪めて述べる権利はないのです。」(リップシュタット)

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映画ではリップシュタットの人間味も素直に描き出し、弁護団との確執などドラマに潤いを与えている。彼女は法廷でアーヴィングと直接対決したいのに弁護士に阻まれ、ホロコーストの生存者に証言させたいのにそれも断られてしまう。もちろんそれぞれ理由があるのだ。裁判の途中、あることからロンドンの弁護士を信頼するようになった彼女は、食事しながらこんなことを言う。

 

「私は自分の良心だけに従って生きてきたの」

 

でも、と彼女は暗に言う。でもあなたたちは、その生き方を変えろ、と言っている。今回はあなたたちに委ねる。この裁判は負けるわけにはいかないからだ、と。

 

「負けてしまったら嘘が世界に出回ることになる」

 

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それにしても自分の考えに合わないものは事実の方を曲げてしまえばいい、というのは随分と安易な話ではないだろうか。いったい誰に向かって何のためにこんなことをしているのか。逆にアーヴィングの内面を描いてみては、と思うほどだ。(それを描く事は、議論に値し得ることを認めることになり、できないのだろうか。)

 

昨今のアメリカではないが、嘘も言い募れば一定数信じる人が出てくる、というのは昔から戦略としてあるのかもしれない。リップシュタットはこうも語っている。

 

「人はよく“事実”と“見解”があり、両者は違うといいますが、私は“事実”“見解”“嘘”の3つに分けられると思っています。アーヴィングのような否定論者は“嘘”を“見解”として発信し、それを“事実”のように見せかける手法をとります。」

 

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4年後、長い戦いが終わり判決が下る。生存者に法廷で証言する場を与えることが出来ず、悔しい思いを抱え続けた彼女は判決の後このように言う。

 

「生存者と死者に言いたい。あなたたちは記憶される。苦しみは伝えられた。」

 

一方その数日後、テレビのニュース番組でアーヴィングが語った言葉を想像できるだろうか。それこそが、アーヴィングをアーヴィングたらしめているものとして、かすかに戦慄を覚える。

 

監督:ミック・ジャクソン
脚本:デヴィッド・ヘア
主演:レイチェル・ワイズティモシー・スポール
イギリス・アメリカ 2016/ 110分

公式サイト

http://hitei-koutei.com/