子どもが教えてくれたこと
小さな子どもが病院の廊下を走り抜ける。追いかけるカメラ。
「ジェゾンは食堂にいるよ!」
シャルルが食堂のドアを勢いよく開けると、仲良しのジェゾンが確かにそこにいる。シャルルはジェゾンに本を読んであげてと院内教室の先生に頼まれたのだ。それにしても病気じゃないの?
シャルルは8歳。表皮水疱症という病気を患って平日は病院で過ごしている。元気に病院を走り回っているが、定期的に薬の浴槽につかり全身の包帯を取り替える。その姿はなんとも痛々しい。
「ぼくの皮膚はチョウの羽みたいに弱いんだ」
この映画は、シャルルのように病院で暮らす5人の子どもたちの日常を追ったドキュメンタリーだ。監督はジャーナリストのアンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン。長女タイスを幼くして病気で亡くした。
「娘であるタイスの病気、そして彼女の死を通して、私たち家族は言葉では言い表せないような経験をしました。でも、そうした経験をしたのは、決して私たちだけではなかった。病気の子どもを持つ家族は、子どもたちの生き方に勇気づけられ、支えられているんだ、ということを一つの作品として描きたいと思うようになりました。」
去年2017年、次女アズィリスもタイスと同じ病気で亡くなった、という。何という打撃!短くしか生きられなかった生を目の当たりにすると、苦しみの中でもその人生の意味を考えずにはいられない。監督も考え続けたに違いない。そして苦しい時、悲しい時どのように対処すればよいのかを、逆に子どもたちに教えられていたことに気づく。子どもたちに教わる、その自分の経験こそが彼らの生の意味なのだ、と。
監督は自分の経験をこう語っている。
「長女であるタイスの病気が分かったのは、彼女の2歳の誕生日のことでした。病院から戻り、夫は子どもたちに全てを話すことにしました。その時長男のガスパールは4歳。みんなで沢山泣きました。泣いて泣いてなんとか涙を拭くと、ガスパールはこう口にしたんです。
『さあ、タイスのお誕生日会を始めるよ!』
…この経験から私は学んだ気がします。人生には困難が待ち受けていることもある。そこで沢山の悲しい思いをするかもしれない。でも、その瞬間瞬間をどのように生きるかは、自ら選ぶことができる。」
映画に登場する神経芽腫を患うテュデュアルも、同じように語っている。
「病気だって幸せになることは出来る。友達が亡くなると悲しい気持ちが続く。でもそれは不幸じゃない。気持ち次第で幸せになれるんだ」
彼らは
『C’est ma vie(これはボク<ワタシ>の人生)』
という言葉をよく使ったという。そのように自分の人生を達観することが私たちに出来るだろうか。邦題は何ともシンプルだが、子どもたちの生へのリスペクトに溢れた佳品だと思う。
監督・脚本:アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン
出演:アンブル、カミーユ、イマド、シャルル、テュデュアル
フランス 2016 / 80分
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万引き家族
スーパーに入ってくる親子。互いに合図しながら店員の目を盗み、息子の方がかばんに商品を入れてゆく。うまくいくと帰りに商店街で温かなコロッケを買う。寒い時期の物語だ。ふと見るとアパートのベランダに凍えるように女の子が座っている。昨日も見たと父親が言う。
「コロッケ食べる?」
物であふれかえる居間に家族が大勢。息子の祥太はカップラーメンにコロッケを入れて食べている。こたつを囲んでうどんのようなものを食べているのは、お婆さんと、娘?さっきの女の子も座っている。よく見ると腕にあざが、服をめくると体中にあざがある。
「食べさせたら返してきなよ」
と嫁が言う。
「外寒いんだよな」
と答えるが、結局2人で返しにゆく。しかしアパートの傍まで来ると部屋の中から夫婦で罵り合う声が聞こえる。
「産みたくて産んだんじゃないんだから」
すると嫁の方が返すことをやめる。そして家族が一人増える。
監督は是枝裕和。この作品で今年のカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞した。
「僕がへそ曲がりだからかもしれませんが、特に震災以降、世間で家族の絆が連呼されることに居心地の悪さを感じていました。絆って何だろうなと。だから犯罪でつながった家族を描くことによって、あらためて絆について考えてみたいと思いました。」
2か月後、テレビのニュースで新しく家族になった女の子、じゅりが映し出される。行方不明だという。両親は「親戚の家に預けた」と嘘をついていた。帰るかここに残るか、女の子に問う。
「自分で選んだ方が強いんじゃないかな。…絆っていうの?」
だがこの家族はもろい。仮の住まいみたいにゴタゴタと落ち着かない居間。そこでは、暖かな笑いにつつまれながら、それぞれがそれぞれの事情で浮足立っている。やがて、この家族の誰にも血のつながりのないことが分かってくる。ある日祥太は、近くの駄菓子屋で万引きをしようとして主人に言われる。
「妹にはさせんなよ、これ」
この一言に祥太は衝撃を受ける。やがてその余波が押し寄せ、「犯罪でつながった」家族の「絆」がほつれてゆく…。
児童虐待、年金不正受給、さまざまな社会の問題がてんこ盛りのような映画だが、この作品は決してテーマに収斂していかない。テーマを内包させながらテーマを描く事を避けているような印象すらある。ただおそらくはそのために、人間が誰しも社会の中で生きていながら個別の生を生きているという当たり前のことを思い出させる。
最も印象に残るのは父親の治だ。演じるリリー・フランキーは監督との事前の話で、決して成長しない男を演じてくれと言われたという。しかし、息子に嘘をつくことをやめ、息子に謝り、父親であることをやめた時、この父親は成長する。
「おとうちゃん、もとのおじさんに戻るわ」
こんなセリフを弱い男は言わない。映画には映し出されないのだが、息子のバスを追いかけて走る治の姿が、いつまでも脳裏に明滅され続ける。
監督・脚本・編集:是枝裕和
主演:リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、樹木希林、城桧吏、佐々木みゆ
日本 2018 / 120分
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友罪
ある町工場に、二人の若者が新入りとして入ってくる。元週刊誌記者の益田と、工場を転々としているらしい鈴木。二人は、会社の寮となっている一軒家に先輩社員と暮らし始める。益田は先輩たちともそつなく付き合うが、鈴木は愛想が悪い。部屋がとなり同士の二人は、やがて相手が夜中にうなされていることに気づく。
実は益田は中学生の時、自殺した友人がいる。そのことと関連のある何かで苦しんでいるらしい。一方の鈴木は謎だらけだ。寮の仲間を避け、夜はひとりで町をさまよう。どこか現実離れした鈴木の雰囲気は、親しみを持つのをためらわせる何かがある。益田はある時、自殺した友人と雰囲気が似ていると、鈴木に言う。
「俺が自殺したら悲しいと思える?」
と鈴木が聞く。
「悲しいに決まってるだろ」
ためらいがちに答える益田。
しかし、益田はひょんなことから、鈴木がかつて世間を震撼させた事件の犯人、少年Aではないかと考え始める…。
監督は「64-ロクヨン‐」の瀬々敬久。原作は薬丸岳の同名小説。パンフレットのプロダクションノートにはこう書かれている。
「原作は『神戸連続児童殺傷事件』から着想を得ているが、本作は実際にあった事件の余波や現在地を、憶測を元に再現するための映画化ではない。脚本開発で最も重視されたのは『業に囚われても生きてゆく人間の姿、そのもの』である。そのために今回は映画の主たる視点を、あえて加害者側のものに寄せると決めた。すべての人が受け入れられるものではないかもしれないが、人間というものに対するある種の“願い”を、表現者として提示する、その決意に行き着いた。」
“願い”とは何か。
映画は、鈴木が偶然知り合って友だちとなった元AV女優、交通事故で子どもを3人死なせた息子の贖罪に生きるタクシー運転手など、自らの過去が現在をがんじがらめにしている人たちが登場する。もちろん鈴木も益田もそうだ。やがて鈴木は、益田の落ち度によって週刊誌に登場してしまうことになる。鈴木が少年Aであったことを知った人々の反応はほろ苦い。
大小にかかわらず、後悔がまったくない、という人間は少ないに違いない。ただ振り返ってみれば誰しも、このようにしか生きられないからこのように生きた、という面があるのだと思う。しかしそこに自分の行為の被害者がいたら…。精神科医の斎藤環は「罪を背負った人間は幸福になれるのか」と自ら問い、こう答えている。
「私は『なれる』と答えたい。彼らの自己愛を救済する手立ては、ある。それが、心を打ち明けられ、信頼することができる仲間やパートナーの存在だ。進んで孤立を選んでいた鈴木が自分を「友だち」と言ってくれた益田に罪を告白し、過去にAV出演を強要された傷を持つ藤沢と惹かれあうのは、そこにこそ自分の居場所を見出したからではないか。」
鈴木は、益田に自らのことを打ち明けながらこう叫ぶ。
「それでも生きたいんだよ」
映画は「業に囚われても生きてゆく」人間の苦しさを伝える。そのことを糾弾せずに見守ることの出来る人間でいられるか、社会でいられるか。自分が被害者であったり、その関係者であったりすると無理かもしれないと思ってしまう。しかしそれでもそうあってほしいと、“願”わずにはいられない“思い”をこの映画に感じる。
監督:瀬々敬久
主演:瑛太、生田斗真、佐藤浩市、夏帆
日本 2018 / 129分
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フロリダ・プロジェクト
アメリカ、オーランド。夏休みの子どもたち。新しい車がやってくると、6歳の女の子ムーニーは、友だちとモーテル2階の廊下から唾を飛ばしっこする。車のフロントはベタベタ。やがて持ち主の中年女性が、ムーニーのいる部屋に怒鳴り込んでくる。
「今度は何をしたの。ムーニー?」
若い母親のヘイリーはあきれ顔だが別に叱るわけでもない。ムーニーとその友だちを連れて車の掃除をさせる。ここはディズニーランドの裏の安モーテル。ヘイリーとムーニー母子はここで暮らしている。ヘイリーは仕事にあぶれ、その日の生活費にも事欠くありさまだが、いたずら好きのムーニーはお構いなし。
宿泊に来た客をからかったり、モーテルの電気室に忍び込んだり、廃墟となったリゾートホテルで暖炉に火をつけようとしたり…。華やかなディズニーランドの裏側の、打ち捨てられたような場所だが、子どもたちにとってはここが夢の遊び場なのだ。
しかし、いたずらの度が過ぎたことで、母親たちの間に軋みが生じ、徐々に子どもたちの夢が現実の圧力に押され始める…。
監督はショーン・ベイカー。アメリカでは今、アパートを借りることができない人々が、安モーテルに住み続けるという現実があるという。その数は増加の一途をたどり、およそ4割が家族連れである。
「彼らは“定住する家を持たない”という意味でのホームレスだ。2週間モーテルに泊まって、一度外泊をする。リサーチをしていくうちにこれは国家的な問題にもかかわらず、知っている人がほとんどいないということがわかり、よりこの問題について深く知りたいと思った。」
なかなか職が見つからないヘイリーはニセの香水を、近くの高級ホテルの敷地で売りつけることにする。しばらくはうまくいくがやがて警備員に咎められ、あえなく退散。いよいよ金に窮したヘイリーはある行動に出る。そのことがやがて児童相談所の査察を招くことになるのだが。
映画は終始子どもたちの目線で描かれる。その憎たらしさも可愛さもどこにでもいる子どもそのままだ。ここまで子どもに寄り添うことができるのか、と思うほどカメラとの距離が近い。カラフルなモーテルの外観と青空。明るい色彩の氾濫の中で、現実の厳しさが黒い影のように体を離れず、少しずつヘイリーを飲み込んでゆく。
終盤、ヘイリーはカメラに向かって大声で叫ぶ。
「ファックユー」
誰に対してか。何に対してか。自分自身にか。
宣伝文句では、ラストシーンは「誰も見たことのないマジカルエンド」ということだ。しかし、こんなにも悲しいラストシーンはない。このあと時間は流れ続ける。ムーニーは生き続ける。ムーニーの人生が続いてゆく。大好きな母親が太刀打ちできなかったこの世界で。
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー
主演:ブルックリン・キンバリー・プリンス、ブリア・ヴィネイト、ウィレム・デフォー
アメリカ 2017 / 112分
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オー・ルーシー!
混みあった駅のホーム。さえない年配のOLが所在無げに電車を待っている。うしろから若い男性が何かを耳打ちすると、ホームに入ってくる電車に飛び込む。呆然とする女性、節子。出勤すれば自分よりさらに年配の女性が、興味深げに聞いてくる。しかし日常は変わらない。
ある時、姪が連絡してきて、英会話教室に前払いしているのだが、自分の代わりに通ってくれないかと頼まれる。お金が無くなったというのだ。60万だという。仕方がない。教室を訪ねてみると、怪しげなビルの一室で、いきなり教師にハグされ、ルーシーという名前を付けられ、金髪のかつらをかぶせられる。驚くが、悪い気はしない。それどころか、このイケメン先生に惚れてしまうのだ。
しかし、次に行くとイケメン先生はもういなくなっている。実は、彼は節子の姪と恋人同士で、二人してアメリカに行ってしまったのだ。節子は娘を心配する姉とアメリカ行きを決意するが…。
監督は平栁敦子。ニューヨーク大学大学院映画学科修了作品の短編「Oh Lucy!」が各国で賞を受賞。これはその長編バージョンだという。
「語学力や年齢にかかわらず、本当のことを言っていいのか、言わない方がいいのか、迷うことってありませんか? 特に『女の子なんだから静かにしなさい』と言われて育った日本の女性には多いような気がします。『目立つことはしないように』と言われがちなOLの節子に、ルーシーというキャラクターを通して自分の本音を叫んでほしいと思いました。」
節子はルーシーという名前をもらい、カツラをかぶってからタガが外れてくる。自分の気持ちに正直になる、と言えば聞こえはいいが、心の中のどろどろまで一緒に吐き出してしまうようになる。それは、これまで外に出るのを押さえつけ、体内にたまって腐食し続けていた欲望のようなものだ。これは吐き出しきるまで終わらない。吐き出しきってもどうなるか分からない。ただルーシーという名前を与えられただけで、なんと人間は繊細で単純なものだと改めて思う。
イケメン先生からは「狂ってる」とまで言われ、結果的に姪にもひどい仕打ちをすることになる節子。若ければ一連の出来事は青春だったかもしれないが、ある年齢に達すると同じ事が悲劇に見える。
人はいくつもの人格を場合によって使い分けたりするものだと思う。同時に、素の自分と社会の中で見せる自分にもギャップがある。しかしそのギャップが、人間としての複雑な魅力を生んだりもするのではないか。節子の悲劇はその複雑さがうまく醸成されないで水と油のようになっていることなのだろう。
映画には英会話教室で知り合った小森という中年男性が出てくる。短いが重要な役割を果たす小森を役所広司が演じている。教室での名前はトム。節子演じる寺島しのぶと役所広司が、へたくそな英語で会話するシーンは笑ってしまう名場面である。
この男性が最後にとった行動は常識を少し外しているのだが、それは小森の行動なのか、それともトムなのか。それとも…。
監督:平栁敦子
主演:寺島しのぶ、南果歩、役所広司、忽那汐里、ジョシュ・ハートネット
日本・アメリカ 2017 / 95分
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タクシー運転手
1980年5月、ソウル。タクシー運転手のキム・マンソプは、学生たちがデモを行い道がふさがれることに苛立つ。客は今にも生まれそうな妊婦で病院へ急いでいるのだ。なぜデモなんかするのか。
「デモをするために大学に入ったんじゃないだろうに」
家に帰ると小学生の一人娘が大家の息子と喧嘩しておでこを擦りむいている。怒鳴り込むサボクだが、家賃を滞納していることを責められると言い返せなくなってしまう。傍らで父親を見つめる娘がいる。父と娘二人暮らしでつまりとても貧乏である。
そんなマンソプは、ひょんなことから外国人記者を乗せて光州へいくことになった。謝礼がいいのにつられて行ったはいいが、そこでは、戒厳令下で軍とデモ隊が衝突する緊迫の事態が進行していた。サボクは記者を置いて逃げ帰ろうとするが、お婆さんが道端でタクシーを求めているのを発見し…。
監督は韓国のチャン・フン。
「この話は平凡なタクシー運転手と外国人記者、それから光州で出会う2人の視線を通じて描かれる“あの日”に対する物語だ。そして平凡なある個人と時代が生んだ、危険な状況に負けず、最後まで自分の仕事を成し遂げたという話でもある。」
この話は実話だそうだ。ドイツ人記者はユルゲン・ヒンツペーター。彼は1980年5月の光州事件を取材し記録した唯一の外国人記者だという。2003年には韓国の民主化に寄与した功労者として第2回ソン・ゴノ言論賞を受賞、その様子は映画でも描かれている。授賞式で彼はこう語っている。
「自分の目で真実を見て伝えたいだけだった。勇敢な韓国人タクシー運転手キム・サボク氏と献身的な光州の若者たちがいなければ、このドキュメンタリーを撮ることは出来なかった。」
この時光州で起きていたことは常軌を逸していた。軍が丸腰の自国民に発砲を続け、傷ついて倒れた人を助けに行く人たちも皆殺しにしているのだ。正気ではない。軍は事実を隠蔽しマスコミも報じない。しかし、タクシー運転手のマンソプは一人娘を思い、記者を置いてソウルに帰ろうとする。
途中娘にこれまで買ってやれなかった新しい靴を買い、喜ぶ姿を想像しながら走るのだが、光州を離れるにつれ、次第に後ろ髪をひかれ始める。このまま客を見捨てて帰っていいのか、しかしあのままあそこにいると危険だ、それに娘が一人なのだから帰らなければ、思いが交錯し道路の真ん中で止まってしまう。
「歴史上の偉人が成し遂げた大きな事柄ではなく、普通の人々の小さな決断と勇気が積み重なり何かが成し遂げられるといった、近くで見ていなければ知り得ない事柄を描きたかった。マンソプのタクシーに乗りながら、観客の皆さんにも、自分たちの話として考えてもらえる機会になれば嬉しい。」(チャン・フン監督)
映画はいくつもの小さな決断と勇気が描かれる。それによって少しずつ政治が変わってゆく。しかし民主主義とはこんなにも犠牲を払わなければならないものなのか。マンソプは逡巡しながら決断を下す。その決断は政治変革のためではなく、友情といったもののためなのだ。そのことが小さな決断と勇気の可能性を信じさせてくれる。
監督:チャン・フン
主演:ソン・ガンホ、トーマス・クレッチマン
韓国 2017 / 137分
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ニッポン国VS泉南石綿村
2015年4月、大阪府泉南市で「泉南石綿の碑」の除幕式が行われている。この地域は明治の終わりから100年にわたって石綿紡織業が地場産業だったという。
資料写真を背景に監督の原一男がナレーションで説明している。石綿は耐火性や耐久性に優れ安価で生産されることから、建築資材として重宝された。だが、その石綿は極めて恐ろしい側面を持っていた。人間の体にはいると20年以上の潜伏期間を経て、肺がんや中皮種などを発症させるのだ。
「静かなる時限爆弾と言われるゆえんである」
大阪泉南地域で石綿の被害にあった人たちは、2006年、黙認してきた国の責任を問う裁判を起こした。この映画は、その戦いを8年にわたって記録したドキュメンタリーである。監督の原一男にとっては、これまでにない取材対象だったという。「製作ノート」にこう記している。
「二十代の頃に、ドキュメンタリー作品を作る、という生き方を選択した時点で私には思い決めたことがあった。“生活者は絶対に撮らない”。“撮りたいのは表現者である”と固く自分に言い聞かせたのだ。…これからカメラを向ける人たちは、“生活者は絶対に撮らない”と、私のルールとして思い決めたまさにその人たちなのであった。果たして普通の人を撮ってオモシロイ映画になるだろうか、という不安を抱えながらのスタートだった。」
この疑問と不安は、撮影の最後まで残っていたらしい。しかしでは、なぜ原監督は「普通の人」である彼らを8年間も(!)撮影し続けたのだろう。なぜ途中でやめて別の“表現者”を撮影しに行かなかったのだろうか。
考え得るのは、彼らの“何か”に惹かれ続けたからだ。想像するにそれは、普通の人が普通でない状況にある、ということではないのか。だから確信を持てずにいながらカメラを回し続けたのではないのか。その普通と普通でないものの落差に、見るものが考えさせられる要素が潜んでいるのに違いない。映像はないが、原告団のさまざまなインタビューを聞きながら、私たちはその落差を想像するのだ。
ただ原監督はあくまで“表現者”にこだわり続けた。そのことが映画の後半になってよくわかってくる。
休憩をはさんで、映画の後半が始まる(この映画は3時間35分と長いので丁度半分くらいのところで10分間の休憩が入るのだ)と、画面には原監督が登場し、取材相手に向けて語り始める。
「あの、原告の人たち、もっと怒っていいんじゃないかっていうような不満が私にはあります。…皆さんの動きを私はカメラを回しながら思うのは、何かこうじれったさと、何か本当にこういうことしかできないのかっていう悔しさとがね、いつも入り交じってんですよ」
すると相手が答える。
「なるほど。まあ、極端な話ね、厚労省前、総理官邸前で焼身自殺? いうことですよね、極端な話、フフ」
「いや、あの……そこまでは言いませんが」
この部分について原監督は、心の中では「はい!その通りです」と考えていた、という。撮影でそういうことを本当に狙っているのなら、それは不満が鬱積していくだろうなと思う。そもそも取材相手を間違えているのだ。
ところがこれ以降、映画に登場する取材相手は、何か「怒り」が増しているように感じられた。抱える熱量の大きさを感じられるほど、受け取る側の印象が強くなるのは間違いない。だが彼らは原監督にアジられて怒っているのかもしれないのだ。そのことが奇妙に冷めた感覚を与え続ける。
このテーマであくまで“表現者”を撮ることにこだわるのであれば、撮影する監督自身に最初から最後までカメラを向けるべきだったのではないかと思う。映画に登場する人たちの中で、おそらく唯一の“表現者”なのだから。
監督・撮影:原一男
構成:小林佐智子
編集:秦岳志
日本映画 2017/ 215分
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