日日是好日
家族でフェリーニの「道」を見に行った。小学校5年だった。典子は何がいいか、さっぱり分からなかった。しかし、
「世の中には『すぐわかるもの』と、『すぐわからないもの』の二種類がある。すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる。」
という。「道」も、「お茶」も。
原作はエッセイストの森下典子が書いた「日日是好日」で、実話。映画は原作にほぼ忠実に作られている。
大学生の典子(黒木華)は、従姉の美智子(多部未華子)と近所の武田先生(樹木希林)のもとで「お茶」を習い始める。それから四半世紀、人生の折々に体験することがらが、お茶の体験と交差しながら、それぞれの意味を深めてゆく。
お茶には細かな決まりごとが無数にあるが、その決まりごとの意味を先生は教えてくれるわけではない。なぜ茶室に入るときに左足から入るのか、なぜ畳一帖を六歩で歩かなければならないのか、なぜお茶を飲み干す時、ずずっと音を立てるのか―。
「意味なんてわからなくていいの。お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」
監督の大森立嗣は言う。
「原作で特に面白かったのは、お茶の世界って、まず形を作って、そこに心を入れてくるんだというところ。自分が、自分が、という感じの個性を主張しないで、どんどん個性を無くしていったはずなのに、でもそこに間違いなく自分がいる。その様子が、なんとなく黒木さんの印象とつながっているような気がしました。」
「形」とはおそらく最もベーシックな部分であり、それを守ることで最低限の水準をクリアできるものだ。しかし「形」を繰り返し繰り返し辿ることで、やがて「形」の別の意味が現れてくる。「形」は「形」でなくなり「形」を踏襲する「人間」が反映されてくるのだろう。
ただ、それまでにどのくらいの時間がかかるかは誰にも分からない。そんな気の長い話に付き合いきれない、という人はさっさと「自己」を探しはじめ、他にはない「個性」を見つけるのに躍起となる。どちらがいいとか正しいとかいう話ではない。ただ「形」を無くすことは自由であるがゆえに、自分で一からすべてを見出してゆくという、気楽に見えて最も困難な道となる。
この映画はクライマックスがあるわけではなく(まああると言えばあるのですが)、すべてのエピソードが等価で描かれる。終わりそうで終わらない物語は、人生という当たり前の時間の流れを感じさせる。自分の人生のクライマックスなんて誰にも分からないのだ。
特に茶室の場面では、映画館で流れてくるはずのない日本間の畳の匂いであったり、鼻先を潤す雨の匂いを感じる。細やかな季節の移ろいがいかに美しいものであるか、日本という国に暮らしながらその美しさを十分には甘受できていない自分に対する、憐れみのような感情さえ湧きおこってくる。そんな映画である。
監督・脚本:大森立嗣
主演:黒木華、樹木希林、多部未華子
日本 2018 / 100分
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判決、ふたつの希望
レバノン、ベイルート。ある政治集会の模様が映し出される。人々は党首の演説に酔いしれている。キリスト教右派系のこの政党を支持するトニーは、アパートに帰ると身重の妻と二人暮らしだ。ある日、ベランダの水漏れ修理をしたいと現場監督の男が訪ねてくる。トニーはけんもほろろに追い返す。一目見るなりパレスチナ難民と気づいたからだ。
ヤーセルという現場監督は強引に修理を始めるが、トニーはそれを見るや、取り付けた配水管を叩き壊してしまう。怒ったヤーセルはトニーに「くず野郎!」と罵声を浴びせる。これにはトニーが黙っていられず、建設会社に乗り込んで謝罪を要求する…。うまくコミュニケーションが取れず事態が悪化する典型のような話が展開してゆく。
映画を見るまでよく知らなかったが、レバノンは18もの宗派が混在するモザイク国家だという。キリスト教、イスラム教各宗派それぞれに対立する要素を抱えているわけだが、そうした中でパレスチナ難民は、キリスト教徒にとって、戦火を招く厄介な存在と思われている。イスラエルのレバノン侵攻は彼らのせいだと考えているらしいのだ。二人のつまらない諍いには、根強い社会的な背景がある。
トニーは執拗に謝罪を求めるが、悪いのはトニーとしか見えない。どう考えればいいのかと思いながら映画は進んでゆく。建設会社の社長に言わせれば、ヤーセルは「謝罪が苦手な人間」だが、会社のことを考えついには謝罪に赴く。ところがここでトニーが逆に罵声を浴びせてしまう。
「お前らはろくでなしだ。シャロンに抹殺されていれば良かったのにな」
シャロンとは対パレスチナ強硬派の元イスラエル首相のこと。ヤーセルは何も言わず、トニーに近づくやその腹を殴りつけ、ろっ骨を骨折させた。映画はこの後、裁判劇へと展開する…。
監督は55歳のジアド・ドゥエイリ。
「この映画をひと言で要約するなら、『尊厳の探求』となるでしょう。ふたりの主人公はそれぞれ名誉と尊厳を傷つけられ、互いに相手に問題の責任を押しつけて非難し合います。本作は断固として楽観的で人道主義的な映画であり、和解に至るために可能な道を提示しています。」
裁判が進むにつれ、それぞれの背景(キリスト教右派とパレスチナ難民)に属する外野の人たちが参戦し、やがて国中の大騒ぎとなる。テレビ番組では、トニーの支持する政党の党首が、トニーにこう呼びかける。
「誰もが過去に傷を負って生きている。つらいだろうが歴史は変えられない。忘れぬこと。歴史を踏まえ、進むこと。もはや戦いは終わったんだ。」
憎しみあう者同士が和解することは、果たして可能なのだろうか。その昔、和解するためには“許す”必要はない、と聞いたことがある。許さないままに和解する? そんなことが可能なのか、思ったが、それはやはり一種の社会的な知恵なのだと後で気づいた。先ほどの党首の言葉は、許さなくとも良い、和解しなければならないと言っているのだ。
ただし映画は別の希望を提示する。外野の喧騒の中で、トニーとヤーセルが少し気持ちを交わすシーンがある。ごく些細で個人的な事柄によって。お互いの背景とは関係のないシチュエーションで。
監督は、
「少しずつアドリブで作っていったシーンで、自分でも何がしたいかまったく分からないまま手探りだったが、結果的に映画で最高のシーンになった。」
映画がここで語っているのは、和解は“個人的には”可能だということだ。宗派や政党同士では無理なことも、個人にかえると可能になる。建前で許せないことも許せたりするのだ、おそらく。
裁判の後半、トニーの秘密が明らかにされる。それを知ったヤーセルは、ある行動に出る。ごく個人的な意志をもって。些細なことで始まった諍いは、些細なことで解決するのが良い。判決とは何の関係もないとしても。
監督:ジアド・ドゥエイリ
主演:アデル・カラム、カメル・エル=バシャ
レバノン・フランス 2017 / 113分
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教誨師
狭い密室にふたりの男が机をはさんで対峙している。一言も発さず静かに目を閉じている男は死刑囚、もう一人はキリスト教の教誨師のようだ。教誨師は宗教の教義に基づいて、被収容者と対話を重ねる。ある人は自らの身の上を語り、ある人は刑務官の愚痴を言い、ある人は讃美歌を歌ってみせる。
映画はこの狭い密室をほとんど出ることがない。何度も重ねられる6人の死刑囚との対話を、静かに繰り返し映し出す。牧師の佐伯は時折聖書の言葉を伝えようとするが、大抵の場合うまくいかない。よそ行き(に見える)言葉が宙に浮いてしまい、しまいに相手を苛立たせ怒り始める始末だ。
文字が読み書きできない進藤という老人は、そのために他人の借金を背負い込んだ。しかしそのことに何の恨みも無く、それどころか自分が金持ちになったようだという。佐伯は進藤に文字の勉強をしないかと誘う。
また、17人もの人間を殺したという高宮という若者(おそらく相模原の障碍者施設殺傷事件をイメージしている)は、いつも佐伯に論争を挑んでくる。佐伯が事件の被害者に触れ「奪われていい命はない」と言えば、「じゃ死刑囚は?」と問い返してくるのだ。
死刑囚との対話の中で、佐伯は自らのことを少しずつ話始める。叔父が牧師であったこと。兄が若い時に人を殺してしまったこと。出所前に自死してしまったこと。そして自分のしていることを問い直し始める。
監督は佐向大。
「死刑囚は『死』を持って罪を償うわけですから、懲役刑や禁固刑と違い、拘置所にいる間は宙ぶらりんな状態で、ただ死を待っている。それってものすごく特殊な状況だと思うんです。でも死が訪れるのはすべての人に言えることで、そう考えると我々だってそう変わらないのではないか。」
ずいぶん乱暴な物言いだが、「死」を待つ身であることは確かに変わらない。映画でははっきりとは説明がないが、死刑囚の教誨は特別なことであるらしい。
「教誨とは、受刑者等が改善更生し、社会に復帰することを支援する仕事です。…ところが、死刑の教誨は特殊です。「生きていく」こころを説くはずの教誨師が、「死んでいく」ことを手伝うことになるからです。」(龍谷大学教授・石塚伸一氏 堀川恵子「教誨師」解説)
牧師である佐伯の悩みもここにあるのではないか。
最初何も語らなかった鈴木は、自分のことを語る佐伯に触発されたのか次第に雄弁になってゆく。察するにある女性をストーカーして殺害してしまったらしい。それは周りの人間、両親とか警察とかが自分の愛情を邪魔したためだと思い込んでいる。それに少しでも異を唱えようものなら怒り狂うのだ。
ある時その鈴木が、晴れやかに佐伯に語る。「先生の言うように真剣に祈ったら、相手がごめんなさいと言ってくれた」と言うのだ。相手とは被害者のことらしい。
「被害者があなたに謝るのですか?」
その通りだといい、死後の世界で彼女にプロポーズする希望が生まれ、生き返ったようだという。「あなたのおかげです」と。佐伯は絶句してしまう。
「奪われていい命はない」。それが死刑囚であっても。では彼らの罪はどうなるのか。以前読んだ中村文則の小説「何もかも憂鬱な夜に」の中に次の一節があり、忘れられない。刑務官が死刑囚に語る言葉だ。
「俺は死刑にはどうしても抵抗を感じるよ。死刑にはいろいろ問題があるのもそうだけど、人間と、その人間の命は、別のように思うから。…殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思ってるから。お前の命というのは、本当は、お前とは別のものだから。」
映画の終盤佐伯は、文字を覚え始めた進藤老人に、大切にしていたグラビア写真の切り抜きを手渡される。その裏にはたどたどしい文字でこう記されていた。
「あなたがたのだれがわたしをせめることができるか」
原案・脚本・監督:佐向大
主演:大杉漣、古舘寛治、光石研、五頭岳夫
日本 2018 / 114分
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ハナレイ・ベイ
仕事が忙しくなかなか映画を見ることが出来なかった。久しぶりに見たのが村上春樹原作の「ハナレイ・ベイ」だった。
ハワイ・カウアイ島のハナレイ湾。美しい入り江の風景は、フラの曲にもたびたびうたわれているという。早朝、日本人の青年がサーフボードに身を預け、海に漕ぎ出す…。鳴り響く電話の音。サチはカウアイ島にやってくると、息子の遺体と対面する。右足は無残に失われている。サメに襲われたのだ。
サチは遺骨を持って帰国しようとするが、ふと思いついて滞在を延ばし、息子が亡くなったビーチに座って海を見つめる。1週間。そして毎年同じ時期にここを訪れビーチを眺める。10年間。ある時二人の若い日本人サーファーと知り合い、ハナレイ・ベイに片足のサーファーがいるという話を聞く…。
村上春樹は、自分にとって大切な何かを失ってしまった人のかなしみを繰り返し書いているが、この小説もそうである。そのかなしみのなか、生きながらえるために必要なのは、どうにか時間をやり過ごすことだ。それが出来れば再び生きなおすことが出来るかも知れない。時間が大きな波のようにあらゆるものを押し流してゆく。しかし10年経っても流れて行かないものがサチの中にある。朽ちて川面に顔を出す杭のように。
「(映画製作の)根底には生きること死ぬことがあるんです。とは言っても、日々、生きていることに感謝とかそういうことではなく、ふとした瞬間に、死んだ人のことや死んだ事実に向き合うと、いま自分が生きている時間に感謝したり世界が輝いて見えたりする。…サチにとって息子の死は当然、悲しいことですが、何か新しい力になればいいとも思っていて。」
原作と違って、映画ではかつての夫や息子の具体的なシーンを提示することで、サチの内面をより複雑にしている。DVの夫。何かというと反抗する息子。嫌いだったけど愛情を抱いているという分かりにくい感情を吉田羊の内面を探らせない表情がうまく伝えている。自分には片足のサーファーが見えないことに絶望してサチが叫ぶように言う。
「息子を嫌いでした。でも愛しています。ハナレイ・ベイは私を受け入れてくれない。それでも私は受け入れないといけないのでしょうか。」
息子の遺体を確認した日、警官が語った言葉がある。
「できることならこう考えてみてください。息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていったのだと」
息子は「自然の循環の中に戻っていった」。サチはそのことを理解するために、この場所を繰り返し訪れる。それが「ハナレイ・ベイを受け入れる」ということかもしれない。たとえ相手がかたくなに拒んだとしても。
映画の終盤、夫の遺品であり、息子が好んで使っていた古いウォークマンをサチが聞いてみるシーンがある。このシーンの吉田羊はたとえようもなく美しい。癒えないかなしみが希望につながるかもしれないと、とても静かに語っている。
脚本・監督・編集:松永大司
主演:吉田羊、佐野玲於、村上虹郎
原作:「ハナレイ・ベイ」村上春樹
日本 2018 / 97分
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子どもが教えてくれたこと
小さな子どもが病院の廊下を走り抜ける。追いかけるカメラ。
「ジェゾンは食堂にいるよ!」
シャルルが食堂のドアを勢いよく開けると、仲良しのジェゾンが確かにそこにいる。シャルルはジェゾンに本を読んであげてと院内教室の先生に頼まれたのだ。それにしても病気じゃないの?
シャルルは8歳。表皮水疱症という病気を患って平日は病院で過ごしている。元気に病院を走り回っているが、定期的に薬の浴槽につかり全身の包帯を取り替える。その姿はなんとも痛々しい。
「ぼくの皮膚はチョウの羽みたいに弱いんだ」
この映画は、シャルルのように病院で暮らす5人の子どもたちの日常を追ったドキュメンタリーだ。監督はジャーナリストのアンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン。長女タイスを幼くして病気で亡くした。
「娘であるタイスの病気、そして彼女の死を通して、私たち家族は言葉では言い表せないような経験をしました。でも、そうした経験をしたのは、決して私たちだけではなかった。病気の子どもを持つ家族は、子どもたちの生き方に勇気づけられ、支えられているんだ、ということを一つの作品として描きたいと思うようになりました。」
去年2017年、次女アズィリスもタイスと同じ病気で亡くなった、という。何という打撃!短くしか生きられなかった生を目の当たりにすると、苦しみの中でもその人生の意味を考えずにはいられない。監督も考え続けたに違いない。そして苦しい時、悲しい時どのように対処すればよいのかを、逆に子どもたちに教えられていたことに気づく。子どもたちに教わる、その自分の経験こそが彼らの生の意味なのだ、と。
監督は自分の経験をこう語っている。
「長女であるタイスの病気が分かったのは、彼女の2歳の誕生日のことでした。病院から戻り、夫は子どもたちに全てを話すことにしました。その時長男のガスパールは4歳。みんなで沢山泣きました。泣いて泣いてなんとか涙を拭くと、ガスパールはこう口にしたんです。
『さあ、タイスのお誕生日会を始めるよ!』
…この経験から私は学んだ気がします。人生には困難が待ち受けていることもある。そこで沢山の悲しい思いをするかもしれない。でも、その瞬間瞬間をどのように生きるかは、自ら選ぶことができる。」
映画に登場する神経芽腫を患うテュデュアルも、同じように語っている。
「病気だって幸せになることは出来る。友達が亡くなると悲しい気持ちが続く。でもそれは不幸じゃない。気持ち次第で幸せになれるんだ」
彼らは
『C’est ma vie(これはボク<ワタシ>の人生)』
という言葉をよく使ったという。そのように自分の人生を達観することが私たちに出来るだろうか。邦題は何ともシンプルだが、子どもたちの生へのリスペクトに溢れた佳品だと思う。
監督・脚本:アンヌ=ドフィーヌ・ジュリアン
出演:アンブル、カミーユ、イマド、シャルル、テュデュアル
フランス 2016 / 80分
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万引き家族
スーパーに入ってくる親子。互いに合図しながら店員の目を盗み、息子の方がかばんに商品を入れてゆく。うまくいくと帰りに商店街で温かなコロッケを買う。寒い時期の物語だ。ふと見るとアパートのベランダに凍えるように女の子が座っている。昨日も見たと父親が言う。
「コロッケ食べる?」
物であふれかえる居間に家族が大勢。息子の祥太はカップラーメンにコロッケを入れて食べている。こたつを囲んでうどんのようなものを食べているのは、お婆さんと、娘?さっきの女の子も座っている。よく見ると腕にあざが、服をめくると体中にあざがある。
「食べさせたら返してきなよ」
と嫁が言う。
「外寒いんだよな」
と答えるが、結局2人で返しにゆく。しかしアパートの傍まで来ると部屋の中から夫婦で罵り合う声が聞こえる。
「産みたくて産んだんじゃないんだから」
すると嫁の方が返すことをやめる。そして家族が一人増える。
監督は是枝裕和。この作品で今年のカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞した。
「僕がへそ曲がりだからかもしれませんが、特に震災以降、世間で家族の絆が連呼されることに居心地の悪さを感じていました。絆って何だろうなと。だから犯罪でつながった家族を描くことによって、あらためて絆について考えてみたいと思いました。」
2か月後、テレビのニュースで新しく家族になった女の子、じゅりが映し出される。行方不明だという。両親は「親戚の家に預けた」と嘘をついていた。帰るかここに残るか、女の子に問う。
「自分で選んだ方が強いんじゃないかな。…絆っていうの?」
だがこの家族はもろい。仮の住まいみたいにゴタゴタと落ち着かない居間。そこでは、暖かな笑いにつつまれながら、それぞれがそれぞれの事情で浮足立っている。やがて、この家族の誰にも血のつながりのないことが分かってくる。ある日祥太は、近くの駄菓子屋で万引きをしようとして主人に言われる。
「妹にはさせんなよ、これ」
この一言に祥太は衝撃を受ける。やがてその余波が押し寄せ、「犯罪でつながった」家族の「絆」がほつれてゆく…。
児童虐待、年金不正受給、さまざまな社会の問題がてんこ盛りのような映画だが、この作品は決してテーマに収斂していかない。テーマを内包させながらテーマを描く事を避けているような印象すらある。ただおそらくはそのために、人間が誰しも社会の中で生きていながら個別の生を生きているという当たり前のことを思い出させる。
最も印象に残るのは父親の治だ。演じるリリー・フランキーは監督との事前の話で、決して成長しない男を演じてくれと言われたという。しかし、息子に嘘をつくことをやめ、息子に謝り、父親であることをやめた時、この父親は成長する。
「おとうちゃん、もとのおじさんに戻るわ」
こんなセリフを弱い男は言わない。映画には映し出されないのだが、息子のバスを追いかけて走る治の姿が、いつまでも脳裏に明滅され続ける。
監督・脚本・編集:是枝裕和
主演:リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、樹木希林、城桧吏、佐々木みゆ
日本 2018 / 120分
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友罪
ある町工場に、二人の若者が新入りとして入ってくる。元週刊誌記者の益田と、工場を転々としているらしい鈴木。二人は、会社の寮となっている一軒家に先輩社員と暮らし始める。益田は先輩たちともそつなく付き合うが、鈴木は愛想が悪い。部屋がとなり同士の二人は、やがて相手が夜中にうなされていることに気づく。
実は益田は中学生の時、自殺した友人がいる。そのことと関連のある何かで苦しんでいるらしい。一方の鈴木は謎だらけだ。寮の仲間を避け、夜はひとりで町をさまよう。どこか現実離れした鈴木の雰囲気は、親しみを持つのをためらわせる何かがある。益田はある時、自殺した友人と雰囲気が似ていると、鈴木に言う。
「俺が自殺したら悲しいと思える?」
と鈴木が聞く。
「悲しいに決まってるだろ」
ためらいがちに答える益田。
しかし、益田はひょんなことから、鈴木がかつて世間を震撼させた事件の犯人、少年Aではないかと考え始める…。
監督は「64-ロクヨン‐」の瀬々敬久。原作は薬丸岳の同名小説。パンフレットのプロダクションノートにはこう書かれている。
「原作は『神戸連続児童殺傷事件』から着想を得ているが、本作は実際にあった事件の余波や現在地を、憶測を元に再現するための映画化ではない。脚本開発で最も重視されたのは『業に囚われても生きてゆく人間の姿、そのもの』である。そのために今回は映画の主たる視点を、あえて加害者側のものに寄せると決めた。すべての人が受け入れられるものではないかもしれないが、人間というものに対するある種の“願い”を、表現者として提示する、その決意に行き着いた。」
“願い”とは何か。
映画は、鈴木が偶然知り合って友だちとなった元AV女優、交通事故で子どもを3人死なせた息子の贖罪に生きるタクシー運転手など、自らの過去が現在をがんじがらめにしている人たちが登場する。もちろん鈴木も益田もそうだ。やがて鈴木は、益田の落ち度によって週刊誌に登場してしまうことになる。鈴木が少年Aであったことを知った人々の反応はほろ苦い。
大小にかかわらず、後悔がまったくない、という人間は少ないに違いない。ただ振り返ってみれば誰しも、このようにしか生きられないからこのように生きた、という面があるのだと思う。しかしそこに自分の行為の被害者がいたら…。精神科医の斎藤環は「罪を背負った人間は幸福になれるのか」と自ら問い、こう答えている。
「私は『なれる』と答えたい。彼らの自己愛を救済する手立ては、ある。それが、心を打ち明けられ、信頼することができる仲間やパートナーの存在だ。進んで孤立を選んでいた鈴木が自分を「友だち」と言ってくれた益田に罪を告白し、過去にAV出演を強要された傷を持つ藤沢と惹かれあうのは、そこにこそ自分の居場所を見出したからではないか。」
鈴木は、益田に自らのことを打ち明けながらこう叫ぶ。
「それでも生きたいんだよ」
映画は「業に囚われても生きてゆく」人間の苦しさを伝える。そのことを糾弾せずに見守ることの出来る人間でいられるか、社会でいられるか。自分が被害者であったり、その関係者であったりすると無理かもしれないと思ってしまう。しかしそれでもそうあってほしいと、“願”わずにはいられない“思い”をこの映画に感じる。
監督:瀬々敬久
主演:瑛太、生田斗真、佐藤浩市、夏帆
日本 2018 / 129分
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