こどもしょくどう
昼は定食屋、夜は居酒屋になるような下町の食堂。小学5年のユウトは草野球チームの練習から帰ると、友達のタカシと一緒に夕ご飯を食べるのが日課だ。タカシは母親と二人暮らしで、夕飯を準備してくれないことが多いのだ。
タカシは体は大きいが、動作がのろいせいかクラスメイトからいじめを受けている。「臭い!」と言われながらホースで水をかけられるタカシ。その様子にイライラしながらも、見て見ぬふりをするユウト。ある時、川の岸辺に停まった車のそばで、小さな姉妹が遊んでいるのを見かける。それは先日、スーパーで万引きしようとしていた女の子だった。
それを見たタカシは
「なんかあいつら臭かったね」
という。思わず振り返るユウトだが…。
監督はドキュメンタリーも数多く撮っている、日向寺太郎。この映画はフィクションである。実際のこども食堂は、2012年、東京都大田区の青果店「気まぐれ八百屋 だんだん」の近藤博子さんが、地元の小学校の先生から「朝晩の食事をバナナ1本で過ごす子どもがいる」と聞いたことから始まったという。
「僕自身、現実社会における子ども食堂の活動はとても素晴らしいと思っていますが、いわゆる“いい人”しか出てこない劇映画は面白くない。子どもの視点に立った“はじまり”の話にすれば、主人公の子どもたちが世界を発見し、彼らの気持ちや行動が大人たちを動かして、ほんの少しでも社会が変わってゆくという物語を語れると思ったのです。」
女の子たちは姉妹で、父親と車で生活していたが、やがて父親も姿を見せなくなってしまう。同じ年代のミチルに惹かれたユウトは、家のおかずを包んだりしていたが、やがて家に連れてくる。
ユウトの両親は親切にするが、親がいなくて学校も行っていないということがうまく理解できない。だからそのまま、親のいない川べりの車に帰してしまうし、行政に相談するしないで揉めることになる。いないと言っている親に遠慮してしまうのだ。
ある時、妹が見たがっている「虹色の雲」を探して、ユウトとタカシは学校をさぼってしまう。食堂に帰ったユウトはこっぴどく叱られ、ミチルに至っては親戚はいないのか、学校の先生は?と問い詰められてしまう。その時ユウトが叫ぶように言う。
「だから誰もいないって言ってんじゃんずっと!でも何もしてくんなかったじゃん!いっつも見てるだけだろ!…だから俺だって見てるだけなんだよ!いじめられてても知らんふりするんだよ!」
ちょっと自分を客観的に言いすぎる(言い訳の)きらいはあるが、大人には十分なインパクトがある。何もしていない身として、刺さる言葉だ。
この作品は、とてもシンプルな物語でかつ、細部に微妙な不自然さを感じるところがある。しかしそれにも関わらずあるいはそれ故に、子どものひもじさや、親がいなくなってしまう苦しさが素直に胸に迫る。ミチル役の鈴木梨央が好演していると思う。
監督:日向寺太郎
主演:藤本哉汰、鈴木梨央、常盤貴子、吉岡秀隆
日本 2019 / 93分
公式サイト
https://kodomoshokudo.pal-ep.com/
眠る村
一本の長い山道が、とある小さな村への入り口である。三重と奈良の県境にある、葛生だ。
昭和36年、この村で事件が起きた。懇親会の席で出されたぶどう酒に毒が入れられ、5人の女性が亡くなった。名張ぶどう酒事件である。事件から6日後、村に住む奥西勝が逮捕された。犯行を自供したのである。しかし公判では一転して無罪を主張。その後死刑が確定しても再審請求をし続けた。
平成27年、その奥西が医療刑務所で亡くなった。89歳だった。奥西は実に54年もの間、死刑囚として独房で生きたことになる。この映画は葛生村を改めて取材。一つ一つ証拠を検証し、奥西犯行説を覆そうとしている。
村人は奥西が逮捕された後で逮捕前の証言を覆し、奥西犯行説に有利な証言をしていること。奥西は「ニッカリンT」という農薬をぶどう酒に入れたと供述しているが、分析の結果他の農薬だった可能性が高まったこと、など犯行に疑問を持たせる証拠が次々に明るみに出るが、再審が行われることはなかった。
東海テレビはこれまで、監督が交代しながらこのテーマで6本の映画を制作している。その間実に30年以上に及ぶ。今作の共同監督のひとり齋藤潤一はこう語っている。
「事件から57年が経過し、証言を変更した村人はいま、事件について何を語るのか知りたかった。案の定、事件を早く忘れ去りたい村人の口は重い。(共同監督の)鎌田は持ち前のガッツで何度も村に通い続けて、村人との人間関係を築き、7作目のドキュメンタリーを完成させた。」
他の6本の作品は見ていない。この映画だけの印象で言うのだが、奥西勝が犯人でないとするなら、別に犯人がいることになる。それはいったい誰なのか。誰しもが思うこの疑問には、映画は一切触れない。そのことがずいぶんと隔靴掻痒な感触をもたらす。
何かをしなかったことを証明するのは、何かをしたことを証明するよりはるかに難しいという。だとすれば真犯人を特定する方向の解決はどうなのだろうか。もしかすると取材の積み重ねの中で、浮かび上がる人物がすでにいるのかもしれない。第1作の監督である門脇康郎はこう書いている。
「事件の核心について取材すればするほど、この事件には疑問が多い。しかし突っ込んだ取材をすれば、そこには『人権』の問題が横たわる。」
村人が奥西勝を犯人だと信じているのは、奥西が犯人でなくなった瞬間に、「ではいったい誰がやったのか」という問いが立ち上がってしまうからだろう。それは村の安寧を脅かす。それならいっそ誰かに犠牲になってもらった方がいい-。
この村の構図はどこかで見たことがあるな、と思い、思い出した。沖縄だ。沖縄の米軍基地の押し付けと似たような構図ではないだろうか。外から見ると奇妙な村の保身は、今日本という村に住む私たちの態度そのものなのだ。そう思うと、映画を見て感じる隔靴掻痒感が長く尾を引く。
映画は事件のミステリーを追うだけではない。私たちの社会とのかかわり方を考えさせる普遍的な奥行きを持っていると思う。共同監督の鎌田麗香は私たちにこう問いかけている。
「外部の人は葛生の人間のことを悪く言うが、こうした出来事はどの組織でも起こりうると思う。……被害者の気持ちを思い、声を上げられる個人でいられるか…大なり小なり組織に所属している私たち一人一人に問われている。私は東海テレビという村にいます。皆さんのいる村はどんなところですか。」
監督:齋藤潤一、鎌田麗香
プロデューサー:阿武野勝彦
日本 2018 / 96分
公式サイト
バーニング 劇場版
若者がトラックの荷物を担いでソウルの街をゆく。カメラが後ろから追う。にぎやかな通りをどこまでも追う。スーパーに入ってゆく若者ジョンスは、店の前でキャンペーンガールをしている幼なじみの女性、ヘミに声をかけられる。ヘミは「整形したので気づかなかったでしょ」という。どちらも若く貧しいように見える。
パントマイムを練習しているというヘミは、ジョンスの前でミカンの皮をむいて食べてみせる。
「うまいもんだな」
「秘訣はね、ミカンがあると思うのじゃなく、ミカンがないことを忘れるのよ。」
ヘミはアフリカ旅行に行くから留守の間、猫の世話を頼みたいという。玄関を入ると狭い一部屋だけのアパート。一日のうち、ある一瞬だけ日光が差し込む時間がある。肝心の猫は姿を見せないまま、ジョンスは壁にあたるその光を見ながらヘミを抱く。だが、アフリカから帰ってきたヘミは、年上の男を連れていた…。
監督は「オアシス」のイ・チャンドン。来日記者会見でこう語っている。
「最近の映画はシンプルな作りが多く、観客もそれを求めて慣れているような気がします」「しかし私は今作で、その流行に逆行したいと思いました。この映画を通して観客に対して、生きるとは何か?世界とは何か?を問いかけたかった。観客にはこの映画を通して新しい経験をしてもらい、世界のミステリーを感じてほしかった」
一緒に帰ってきたベンは、なぜかありあまる金を持つ若者で、ヘミは彼のもとを頻繁に訪れるようになる。ある時、ベンとヘミは連れ立ってジョンスの実家を訪れる。そこはヘミの故郷でもある。夕暮れ、ヘミが酔って寝てしまうと、ベンは自分の趣味は古いビニールハウスを焼くことだと語る。
「韓国にはビニールハウスが多い。役立たずで汚くて目障りなビニールハウス。僕に焼かれるのを待っている気がします。」
2か月に一度くらいの割合で焼いているが、ここに来たのはちょうどよいビニールハウスを探すためで、そろそろ前回から2か月がたつ―。
ジョンスはその話にショックを受け、翌日から自分の周囲のビニールハウスを監視して回るが、焼かれた形跡は一切ない。しかし、その時からヘミと連絡が取れなくなる。
原作は村上春樹の「納屋を焼く」という短編で、監督はこうも語っている。
「最近の若者たちは、競争というベルトコンベヤーに乗せられ、走りつづけなくてはならない恐怖を感じている。役に立つか、立たないかで人間の価値を決める世の中への怒りがある。『納屋を焼く』にその怒りと通じるものを見出した。」(朝日新聞)
ヘミはどこへ行ったのか。ビニールハウスは何かのメタファーか?ジョンスはヘミを探し続けるが…。
アフリカでは、食べ物に飢えている人間はリトルハンガーと呼ばれ、「生きる意味」について飢えるものはグレートハンガーとよばれているのだという。ヘミはグレートハンガーに会いにアフリカを訪れたのだ。
借金取りに追われ、故郷にも帰れなかったヘミ。生きる意味があるのかと自らに問い続けたに違いない。しかしパントマイムは教える。ミカンを食べるパントマイムを上手に行うには、ミカンがないことを忘れること。この現実を上手に暮らす秘訣は「生きる意味」がないことを忘れることだ。
不在を忘れ、パントマイムを踊り続ける若者たちの現実。しかし踊り続けるうち、ヘミとベンはどこか現実から遊離しているように見えてくる。
ヘミがいなくなってジョンスが生きていくためには、ヘミがいないことを忘れなければならない。それができないジョンスは、不在に対する怒りを爆発させる。現実から遊離したものたちと対峙するために驚くべき行動に出る。この世界に生きる意味があると感じ、そのことを忘れられない不器用な人間なのだ。
ジョンスの実家は北朝鮮との国境近くにあり、北朝鮮の宣伝放送がいつも鳴り響いている。ヘミに会った最後の日、実家の庭でヘミは上半身裸になって踊る。夕日が沈んだ後の、逆光に映える暗い影のような体がたとえようもなく美しい。
監督:イ・チャンドン
脚本:オ・ジョンミ、イ・チャンドン
主演:ユ・アイン、スティーブン・ユァン、チョン・ジョンソ
原作:「納屋を焼く」村上春樹
韓国 2018 / 148分
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夜明け
遠い空で明るみ始めた山間の空気が青っぽく見えるのはどうしてだろう。一人の若者がふらふらと歩いてくると、橋の欄干によりかかり苦し気に息を吸い込む。手には花束。立っているのが辛いように、何度も顔を歪める。若者の、夜が終わろうとしている。
川の岸辺に若者が倒れているのを見つけたのは、木工所を営む哲郎だった。若者は哲郎の家で目を覚ますと「ヨシダシンイチ」と名乗った。
「なんだか、ありきたりな名前だな」
「すいません」
「なんで謝るんだよ」
「いえ」
哲郎は深く詮索しない。そのことが心地いいのか、シンイチはこの家に居つくようになり、木工所の手伝いをするようになる。哲郎の息子はすでに亡くなっているが、「シンイチ」はその息子の名前と同じだと嫌でも気づくことになる。若者はここに来るまでに何があったのか、物語はその謎を抱えながら進む。
監督は広瀬奈々子。是枝裕和と西川美和が主宰する制作者集団「分福」の新人だそうだ。
「他人に救いの手を差し伸べるというのは美談ではありますが、反面、優位な人間のエゴもどこかにあるのではないかと思います。また、その救いに依存する側にも、権力に媚びる卑しさや、自分を見失う危険をはらんでいます。・・・歪んだ関係の中にある複雑な感情を紡いだ作品ですが、物語はとてもシンプルです。主人公のもどかしい道程を、どうか辛抱強く見守ってください。」
木工所で仲間と働く日々の中で、次第に哲郎の過去に何があったのか、シンイチの過去に何があったのかが明らかにされてゆく。ある時河原でシンイチの財布を拾った哲郎は、シンイチに言う。
「死んだって何にもなんないぞ。どんなことがあったって、死んで解決することなんて何一つない。」
シンイチが答える。
「じゃあ生きてることに意味はあるんですか。正直こんな人生ならどうでもいいですよ。」
生きてることに意味はあるのか。このシンプルな問いにどう答えればいいのか、しばらくそのことを考えた。考え至ったのはこういうことだ。生きていることに意味はある。しかしどういう意味があるのかは誰にも決して分からない。そして、分からないからこそ存在するすべてがどこかでつながっているような気がする。
シンイチは哲郎の好意に甘え、木工の仕事を続ける気になる。しかし、過去この町で起きたある事件とシンイチとの関わりを疑う人間が現れ、それと同時並行するように哲郎のかかわり方の密度が増してゆき、次第に落ち着きを失ってゆく。
シンイチではないシンイチは、やがてシンイチであることに耐えられなくなる。人はやはり自分以外のものになれない。自分であることは苦しいが、自分以外のものであろうとすることはもっと苦しい。そして爆発する時がやってくる。
シンイチという人間は人とのかかわり方がとても不器用で、あえて言えばとても歪んでいる。そのことは最後まで変わらない。どうして自分の意志を表わすのに、こんなにも周囲を傷つけてしまうのか。映画のあとのシンイチもおそらく変わらず、自分の居場所が本当に見つかるまで長いながい放浪を繰り返すのだろう。
映画はなぜ彼の人生のこの期間を切り取ったのか。気がつくと元の場所に戻っている。この映画の夜明けは決して明るくない。次の夜が来る始まりのような、苦い青色につつまれたままだ。
監督・脚本:広瀬奈々子
主演:柳楽優弥、小林薫
日本 2019 / 113分
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こんな夜更けにバナナかよ
車いすに座った男が、周囲の人たちに命令口調で指示を出す。水が飲みたい、背中がかゆい、寝たい、起きたい、横向きたい…。そこまで言っていたか記憶にないがそんな感じ。周りの動きが自分の意に染まないと、容赦なく叱責を飛ばす。男は鹿野靖明34歳。筋ジストロフィーという難病で、今体で動かせるのは首と手だけだという。
そこへ田中君というボランティアの彼女、美咲がやってくる。鹿野は美咲に一目ぼれ。何の関係もなかったのだが、強引に泊りのボランティアに参加させられてしまう。夜中の2時になっても鹿野のしゃべりは止まらない。もともと寝つきが悪いのでボランティアに付き合わせているのだ。そして急に「バナナが食べたい」と言い出す。うんざりする美咲だったが、バナナを買いに近所を走り回る。怒ったようにバナナを鹿野の前にたたきつけると、怒った顔の美咲を見て鹿野はこう言い放つ。
「何か今ぐっと来たー」
その後も恋人の田中に頼まれ、鹿野のボランティアに参加する美咲だったが、あまりの傍若無人ぶりについに怒りが爆発。
「鹿野さんは、何様?障がい者だったら何言っても言い訳?」
と言い残し出て行ってしまう。
監督は前田哲。原作は渡辺一史の同名のノンフィクション。つまり実話である。
「最初に決めたのは『鹿野さんは、何様?』と言えてしまうヒロインでした。美咲には障がい者だからという壁が最初からありません。対する田中は、まさに『~だから』の人で、自分の中に壁をつくり自分を呪縛してしまっている。鹿野、美咲、田中の三角関係を軸に物語を進めることにしました。」
物語は、思ったことをはっきりと言えない田中と、思ったことしか言わない鹿野の間を揺れる美咲、という三角関係で進む。美咲もうじうじしたことが嫌いで、はっきりと意思表示する人間なので、鹿野に少しずつ心を許してゆく。やがて二人の仲は田中が嫉妬する事態にまで…。
原作でバナナのくだりを読むと、若干状況が違っている。ボランティアの国吉という若者がこんな真夜中に、と思いながらバナナを食べさせているのだ。
「『で、ようやく1本食べ終わったと思って、皮をゴミ箱に投げ捨てて…』
もういいだろう。寝かせてくれ。そんな態度を全身にみなぎらせて、ベッドにもぐり込もうとする国吉に向かって、鹿野が言った。
『国ちゃん、もう1本』
なにィー!という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは、急速に冷えていったという。
『あの気持ちの変化は、今でも不思議なんですよね。もう、この人の言うことは、なんでも聞いてやろう。あそこまでワガママがいえるっていうのは、ある意味、立派。』」
(「こんな夜更けにバナナかよ」渡辺一史著)
鹿野はなぜこうもわがままで傍若無人なのか。性格と言ってしまえばそれまでだが、首と手しか動かせず、ほとんどすべてを他人の手に委ねる必要がある鹿野にとって、自分の欲望を実現させることは、単なるわがまま以上の「自立」の大きな基礎になっているらしい。原作の渡辺一史はこう語っている。
「従来、自立というのは『他人の助けを借りずに、自分でなんでもできること』…を意味していました。しかし、そうではなくて、自立というのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めること、そのために他人や社会に堂々と助けを求めることである。彼らがそんなふうに『自立』の意味を180度転換してくれました。」
バナナの話でさらに驚くのは、ボランティアの国吉の怒りが消えたことより、鹿野がこうしたことを意識的に行っていると言っていることだ。「自分の殻を割らない」「自分探しをやっている」ボランティアがいれば、その人が変わる可能性を待っているというのだ。
「ボランティアは一人ひとり、考え方も違えば、価値観も違う。・・・そこをオレがなんとか引っぱってきて、引きずりだす。それがテクニックさ。」
(「こんな夜更けにバナナかよ」渡辺一史著)
何もかもオープンにしなければ生きていけない鹿野にとって、「殻をかぶった」人間がまだるっこしく見えているのは間違いない。本音を言えよ、と叫んでいるのだ。こうした強烈なキャラクターに出会うと、人はやはり変わっていかざるを得ないだろうなと思う。
三角関係のなか、美咲に対して自らを「偽善者」と自嘲し、医学生でありながら医者の道を諦めるとまで言い出した田中。映画の終盤、田中は鹿野にこう言い募る。
「正直って何ですか?正直に生きるってそんなにいいことですか?振り回されるまわりの身にもなってくださいよ。」
果たして3人はどうなっていくのか―。偽善の善も、善は善、と私のような人間は考えてしまう。そんなに純粋な善がどこにあるのか、と。正直であるとは悪であることではない。善と悪の間をいったりきたりする人間だと認めることだ。その振れ幅のなかにその人の個性がある。
監督:前田哲
脚本:橋本裕志
原作:「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」渡辺一史著(文春文庫)
主演:大泉洋、高畑充希、三浦春馬
日本 2018 / 120分
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アリー/スター誕生
ステージを終えた男は、倒れこむように車に乗り込み瓶酒をあおる。途中で車を止め、ふと見つけたバーに入ってゆく。男は店員が興奮するほど顔の知られた人気歌手だ。にぎやかな店内で、昼間ウェイトレスをして働く女が、ラヴィアンローズを歌っている。これが二人の出会いである。
深夜スーパーの駐車場で語り合う二人。女は男の話を聞いて即席で歌を口ずさむ。
話を聞かせてよ
心の穴を必死に埋めてきたのね
まだ必要なの?
平気な顔して
つらくない?
まぎれもない才能。男はアレンジして自分の舞台で歌わせる。すぐに注目されスターダムをのし上がってゆく女。しかし男、ジャックは反比例するように酒浸りになり落ちてゆく。セクシーなダンスが気に入らないと、酒を飲んではくだを巻き「醜い」とまで口走る。女、アリーはついにグラミー賞の新人賞にノミネートされるが、その席上で決定的な事件が起こる…。
監督は主演も兼ねたブラッドリー・クーパーで、その見事な歌声も披露している。
「かねてから僕は“愛”に関する物語を作りたかった。どんな人でも感情移入できるものだと思う。恋愛そのものにせよ、失恋にせよ、その高揚感にせよ。恋というのは、人が一番生きている実感を味わうもの。もともと僕は、すべての映画は癒しを与えるものであるべきだと信じているんだ。癒しを最大限に提供する題材に、恋愛以上のものはないと信じている。」
事件の後、ジャックはアルコール依存症治療のため入院する。自分の行動が、アリーの将来もズタズタにしてしまったかもしれない。
見舞いに訪れたアリーは、
「あなた、この後どうするの?帰ってくる?」
と聞く。
「・・・どうしてそんなことを聞く?」
「気にしないで、ただ聞いただけよ。」
「・・・」
「本当にただ聞いただけ」
このさりげない会話が妙にリアリティがあって、映画を見終わった後も何度も反芻してしまった。微妙にすれ違う会話がこの後の二人を暗示している。何気なく聞いた一言が、ジャックの心に一抹の疑念を抱かせる。その疑念が沸点近くになった時、ある男が訪ねてくる…。
アリーは男を最後まで見捨てることをしない。自分の夢のためだとか、ファンのためだとか、興行的なことのためだとか、そういう言い訳を自分にしない。そういうことはやはりなかなかできるものではない。
「愛しすぎている」
とマネージャーは言うが、それとも少し違うような気がする。もう少し根本的な人間の在り方のような。もちろん自分の夢のために男を捨てる選択が悪いわけではない。そういう女性を多くの物語の中で見てきた。そしてそのことを大して不思議とも思わず、賞賛すらしてきたかもしれない。
だが、その賞賛は自分の気持ちに無理を強いていたのかとも思う。アリーの生きざまを見ていると。なぜか気持ちが温かくなる。人間に対する信頼が呼び覚まされる。
演じるレディ・ガガの歌声は素晴らしく、とてつもない力がある。そのせいなのか、これが実話のドラマ化のような印象を与えて、展開の無理があまり気にならない。そしてその歌声だけではなく、アリーの生きてゆく態度が私たちにあたたかな希望を与えてくれる、そんな映画である。
監督・脚本・主演:ブラッドリー・クーパー
主演:レディ・ガガ、サム・エリオット
アメリカ 2018 / 136分
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日日是好日
家族でフェリーニの「道」を見に行った。小学校5年だった。典子は何がいいか、さっぱり分からなかった。しかし、
「世の中には『すぐわかるもの』と、『すぐわからないもの』の二種類がある。すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる。」
という。「道」も、「お茶」も。
原作はエッセイストの森下典子が書いた「日日是好日」で、実話。映画は原作にほぼ忠実に作られている。
大学生の典子(黒木華)は、従姉の美智子(多部未華子)と近所の武田先生(樹木希林)のもとで「お茶」を習い始める。それから四半世紀、人生の折々に体験することがらが、お茶の体験と交差しながら、それぞれの意味を深めてゆく。
お茶には細かな決まりごとが無数にあるが、その決まりごとの意味を先生は教えてくれるわけではない。なぜ茶室に入るときに左足から入るのか、なぜ畳一帖を六歩で歩かなければならないのか、なぜお茶を飲み干す時、ずずっと音を立てるのか―。
「意味なんてわからなくていいの。お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」
監督の大森立嗣は言う。
「原作で特に面白かったのは、お茶の世界って、まず形を作って、そこに心を入れてくるんだというところ。自分が、自分が、という感じの個性を主張しないで、どんどん個性を無くしていったはずなのに、でもそこに間違いなく自分がいる。その様子が、なんとなく黒木さんの印象とつながっているような気がしました。」
「形」とはおそらく最もベーシックな部分であり、それを守ることで最低限の水準をクリアできるものだ。しかし「形」を繰り返し繰り返し辿ることで、やがて「形」の別の意味が現れてくる。「形」は「形」でなくなり「形」を踏襲する「人間」が反映されてくるのだろう。
ただ、それまでにどのくらいの時間がかかるかは誰にも分からない。そんな気の長い話に付き合いきれない、という人はさっさと「自己」を探しはじめ、他にはない「個性」を見つけるのに躍起となる。どちらがいいとか正しいとかいう話ではない。ただ「形」を無くすことは自由であるがゆえに、自分で一からすべてを見出してゆくという、気楽に見えて最も困難な道となる。
この映画はクライマックスがあるわけではなく(まああると言えばあるのですが)、すべてのエピソードが等価で描かれる。終わりそうで終わらない物語は、人生という当たり前の時間の流れを感じさせる。自分の人生のクライマックスなんて誰にも分からないのだ。
特に茶室の場面では、映画館で流れてくるはずのない日本間の畳の匂いであったり、鼻先を潤す雨の匂いを感じる。細やかな季節の移ろいがいかに美しいものであるか、日本という国に暮らしながらその美しさを十分には甘受できていない自分に対する、憐れみのような感情さえ湧きおこってくる。そんな映画である。
監督・脚本:大森立嗣
主演:黒木華、樹木希林、多部未華子
日本 2018 / 100分
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