映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

バケモノの子

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9歳の夏、俺はひとりぼっちだった-。

荒んだ眼をした男の子が渋谷の繁華街をうろつく。母親を交通事故で亡くし、親せきに引き取られるのを拒んで徘徊しているのだ。自分を取り巻くあらゆるものに憎しみの目を向けながら。大嫌いだ、大嫌いだ、大嫌いだ、胸の中にざわつく何モノかが暴れている。やがて蓮は、路地の奥でもうひとつの世界に紛れ込む。そこは頭が獣の形をした半獣人たちが住む、バケモノの世界だった。

 

そこで熊徹というバケモノの弟子となった蓮は、九太という名をもらい、ひたすら強くなるための修行に励む。月日が経ち青年となった九太はひょんなことから人間世界へ舞い戻り、活字を読むことで、知らないことを知る喜びに目覚める。そんな時、離婚して別れた実の父親の住所が分かって訪ねてゆくのだが…。

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監督は細田守。前作「おおかみこどもの雨と雪」は母親を中心とした物語であったが、今回は父親のあり方を探った作品だという。

 

「前作『おおかみこどもの雨と雪』が完成した後、我が家にも男の子が生まれました。そこで『この子はこれから誰が育てるのか』『どうやって成長するのか』ということを考えました。もちろん父親も子どもを育てるのですが、もっと社会的な意味で、いろんな形の父親たちが世の中にたくさんいて、一人の子どもを育てていくんじゃないかと、それを映画にしたいなと思ったわけです。」

 

ただ、父と子というテーマのもとにこの映画を見ると、少し混乱するかもしれない。他のファクターが絡みすぎて、テーマを際立たせるエピソードやシーンが少ないせいだと思う。たとえば実の父親が物語の中盤に登場するが、彼は蓮にとって父性そのものなのか、人間界を象徴しているのか、それとも幸福だった子供時代を象徴しているのか、それら全部なのか、それら全部だとしたら彼はいったいどういう人間なのか。

 

前作『おおかみこどもの雨と雪』で個人的に最も印象に残ったのは、こどもおおかみの「雨」だった。雨は自分がおおかみであることに悩み傷つき、しかし最後には人間界を離れ、おおかみの仲間の元へと去ってゆく。今回は雨の成長譚をより詳しく物語化したと考えてはどうだろう。雨はおおかみの世界を選択した。そして蓮は…。

だから父性の追求というより、自分とは何者かという問いに答えが見つからず、苦しみながら答えを探す若者の物語として素直にとらえた方がいいのではないだろうか?監督がせっかく語っているのに申し訳ないですが。

 (『おおかみこどもの雨と雪』公式サイトhttp://www.ookamikodomo.jp/index.html

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その時、若者に立ちはだかる大きな壁がある。それは人間が元来もつ「邪悪な心」だ。前回このブログで書いた映画「きみはいい子」で、「人間はもともと邪悪なものなのだろうか。それとも人間はもともと善きものなのだろうか」という問いが浮かんだが、細田監督ははっきりと「もともと邪悪なものを抱えている」と考える。そして、その邪悪なるもの(闇)をどう克服してゆくか、あるいは飼いならしてゆくか、が映画の重要なモチーフになっているのだ。 

 

スタジオ地図のスタッフ和気澄賢さんのインタビューがパンフレットに載っている。様々な取材先で監督は「九太のように親のいない子どもは、どうすれば強く生きてゆけるのか」と聞いた。

「何があれば、子どもは、くじけることなく成長していけるのか?ということを、監督はずっと考えていたように思います。ある取材先で聞いた話の中で、『その子自身が心を許している人の持ち物を、たったひとつ持っているだけで、どんな窮地に立たされてもその子は救われるのだ』という話がありました。それは、作中で楓の手首に巻かれた赤い紐に投影されています。」

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楓は人間界で知り合った女子高校生だ。九太に知ることの喜びを教えたのは楓だった。九太は実の父親に会ったあと、父親のふとした言葉に反発し、自分が何者なのかに苦悶する。楓の前で取り乱す九太。

 

「教えてくれ。オレは一体何なんだ?人間かな?それともバケモノかな?」

 

その時楓は、本の栞の赤い紐を九太の手首に巻く。自分を守ってくれているお守りだと言いながら。その赤い紐が、「その子自身が心を許している人の持ち物」となって、後に九太が邪悪な「闇」にとらわれてゆくのを防ぐことになる。

 

そして物語の最後、今度は熊徹が己をかけ、九太にあるものを授ける。

『心を許している人の持ち物を、たったひとつ持っているだけで、どんな窮地に立たされてもその子は救われる』

熊徹はそのことを本能的に分かっているのだ。この映画の中で、最も強く切実に「父性」が現れたシーンだった。

 

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8年もの間ひとと全く違った道のりを歩き続けた九太。映画は、今身の回りにある世界が世界のすべてではないのだと、そして遠い回り道こそが人を豊かにしてくれるのだと、わたしたちに語っているようにも思う。

 

監督・脚本・原作:細田守

声の出演:役所広司宮崎あおい染谷将太     

企画・制作:スタジオ地図  2015/119分

公式サイト

http://www.bakemono-no-ko.jp/index.html

 

ちょっとひと息

今回の映画は109シネマズ二子玉川で見ました。再開発された二子玉川ライズという街の一角に、新しく出来ました。とても見やすい映画館です。古い映画館の良さもありますが、こうした新しい映画館もいいものです。隣接するショッピングセンターに「コクテル堂コーヒー」の支店があります。コクテル堂は創業昭和24年。林玄という人が創業者で、そのお父さんは林二九太というユーモア作家だそうです。今回の映画の主人公と名前が似ていますね。その林玄さんがロシア人からコーヒー豆を数十か月寝かせる「エイジング」という方法を学び、今に生かしているそうです。なかなか美味しい珈琲ですよ。