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映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

野火

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「到るところに屍体があった。生々しい血と臓腑が、雨あがりの陽光を受けて光った。ちぎれた腕や足が、人形の部分のように、草の中にころがっていた。生きて動くものは蠅だけであった。」(大岡昇平「野火」)

 

たとえば渋谷の雑踏ですれ違う無数の人々に、ひとりひとり固有の人生を想像してみる。長い時間積み重ねたその巨大な記憶の量に圧倒されてしまう。だからすぐに想像をやめる。想像をやめるとただ無数の人となる。それは数に還元されるような無機質なものだ。人はしかし数ではない。当たり前のことだけれど。

 

太平洋戦争の末期、フィリピン・レイテ島。田村一等兵は肺病のため隊から追いやられるが、追いやられた先の野戦病院は爆撃されて、島の原野をひとり彷徨うことになる。やがて日本兵はみなパロンポンに集合すべしという軍令を聞く。道々は倒れた多くの兵士たちが、動けないまま蛆に食われている地獄絵図が広がっていた…。

 

監督は塚本晋也。原作は大岡昇平。20年以上前から映画化を広言していたという。しかしなかなか資金が集まらなかった。これは「ついに自主制作に踏み切って完成させた」作品である。そういう意味では自ら主役を演じ、圧倒的な存在感を見せた塚本監督の執念を感じる。                    

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パロンポンに向かう途中、米軍に機銃掃射され、多くの日本兵が倒れてゆく。映画のそのシーンは、これでもかというくらいにその実相を描写する。腕や足がもげ、内臓があふれ出し、脳味噌が流れる。映像が叫んでいるのが聞こえる。

 

人間はただの肉塊に過ぎない、戦場では。

人間は肉塊に過ぎない、肉塊に過ぎない、肉塊に過ぎない

肉塊に過ぎない肉塊に過ぎない…

 

ヴェネチア国際映画祭では残虐シーンにやりすぎでは?という批判があったという。塚本監督はそれに対してこう答えている。

 

「僕は全然やり過ぎだと思ってません。現実の方が遥かに残虐ですから。それを伝える為にはこれでも描き足りないとすら思っています。実際、多数の日本兵が血を流すシーンは、『やっぱり足りない』と追加撮影しました。… 今作らなければ、今この痛みを伝えなければという危機感があって本作を作りました。」

 

誰も自分の割られた頭蓋からこぼれ出た脳味噌を汚れた軍靴で踏みにじられるような目にあいたくない。自分が殺した相手の血が滴る生肉をかじるようなことをしたくない。だが、ある種のヒロイズムや憎しみの感情が、そうしたまっとうな感情を無にしてしまうことがある。だから戦争やテロが無くならないのだろう。

 

この映画にはヒロイズムのかけらもない。無慈悲に理不尽に人が死んでゆくだけだ。田村は彷徨ううちに野戦病院で知り合った兵士二人と再会する。二人は現地の人間を殺し「猿」と称して食べることで生き延びていた。現地人が見つからなくなると二人は、お互いの「肉」を目当てに殺し合いを始める…。

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南洋で現地召集され同じく悲惨な戦いを生き延びた、詩人黒田三郎はこう書いている。

 

死の中にいると

僕等は数でしかなかった

臭いであり

場所ふさぎであった

黒田三郎「死の中に」)

 

人間がただの数になる世界はやはりまっとうではない。想像してみる。人間はただの肉塊ではない。どんな見知らぬ人間であっても一人ひとりに何年何十年という生きて積み重ねた時間が堆積している。喜びもあり悲しみもある、と。そのことを自分と重ねて想像してみる。そのことで何も変わらないかもしれない。でも想像してみること。

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映画館を出るとしばらく気分が悪い。この気分の悪さと比較にならない悪夢を生涯抱えなければならない人々が戦後少なからずいたのだ。映画の最後、日本に戻った田村は食事をとりながら奇怪な動作を繰り返す。戦時から一続きの記憶が日常をむしばむ。一種の狂気か。しかし正気とは何だろうかと思う。

 

公式サイト

http://nobi-movie.com/