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映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ボクは坊さん。

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四国八十八ヶ所霊場、第57番札所、栄福寺。住職の祖父が突然亡くなり、跡を継いだ24歳の青年、光円が主人公。現代に生きる若者が僧侶という仕事を選択したとき、いったいどんな世界が見えてくるのか。坊主専用バリカンや、般若心経の着信音、南無スターズという野球チーム…。映画は、今の消費社会に溶け込んだ僧侶光円の日常を面白おかしく描いてゆく。しかしある時、幼馴染の女性が産気づいたまま脳内出血を起こしたという連絡が入り…。

 

監督は新人の真壁幸紀。原作は栄福寺住職の白河密成が書いた「ボクは坊さん。」。大枠は実話であるらしい。確かにこうした若い坊さんは多いだろうなと感じる。坊さんも人間だから煩悩は同じようにある。出家をしたからと言って悟りを開いたわけではない。でもそんなことはみんな分かっていると思う。人が本当に「仏」を必要としたとき、坊さんにいったい何ができるのか、が重要なのだ。この映画はそうした問いに真剣に向きあおうとして、すがすがしい印象を残す。               

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映画の後半、光円が友人の桧垣に仏教の教えを語るくだりがある。

「生命はみな深いところでつながっている。だから相手がどんなに変わろうと、自分との関係が変わることはない」と。

しかし現実には、そうは思えないことって多いのではないだろうか…と考えていたら案の定、桧垣から「本当にそんな風に思えるのか」と詰め寄られてしまった。何も答えることができなかった光円は、ひどくショックを受け過呼吸に落ちいり寝込んでしまう。

 

ただこうも言えるのではないか。煮詰まってきた社会に「風穴」が必要なように、悩める個人も、「風穴」を開けることが必要だ。それができるのは、坊さん(あるいは哲学者のような考え抜いた人)の言葉だ。たとえ悟ることができていない坊さんでも、役割として宗祖の言葉を伝える必要があるのだ。ただし言葉は相手に響かなければ、ただの理屈に過ぎないのだが。

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映画は、説明的なシーンが多いなど、こなれない印象が強いが、檀家の長老を演じるイッセー尾形の飄々とした名演に救われている。そして主人公の光円自身も檀家の長老に救われる。過呼吸になり煮詰まった心に風穴を開けてもらうことになるのだ。

 

やがて長老は亡くなる。恩ある長老の葬儀で光円は、自らの死生観を列席者に語る。生きていることは「祭り」のようなものです。生まれる前と死んだ後の生きていない時間が本当で、生きている時間は何か特別なものなのです、と。

 

坊さんでありながら自らの言葉が友人にも届かないふがいなさ。農家でありながらその言葉で自分を救ってくれた長老。様々な思いが交錯し、生死を見つめた言葉が聞く人の心に響き始める―。

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こうした死生観について原作では、空海「夫れ生は我が願ふに非ず」(そもそも、われわれは自ら望んでこの世に生まれて来たものではない)という言葉をひきながらこう語る。

 

「最近なんだか生きていることは、『出かける前に五分あるから、できることだけ、すこしでもやっておこう』というような、とてもささやかで限定的なことだと感じることがある。」(「ボクは坊さん。」白川密成)

 

そこには生と死が連続して切れ目がない。死を毎日のように考え続ける人の言葉だと思う。

 

監督:真壁幸紀

脚本:平田研也

原作:白川密成「ボクは坊さん。」

主演:伊藤淳史イッセー尾形溝端淳平 2015 / 99分 

公式サイト    http://bosan.jp/

クリックすると新しいウィンドウで開きます  原作「ボクは坊さん。」白川密成著 ミシマ社