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映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

FOUJITA

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1920年代のパリ。一人の日本人画家が、画壇を席巻していた。藤田嗣治である。藤田は乳白色の肌の色を独自に考案し、これまで見たこともないような新たな美を創造した。一方で、夜な夜な画家仲間とどんちゃん騒ぎを繰り返し、フーフーと呼ばれ親しまれたのも藤田である。おかっぱ頭にロイドメガネの特異な形相は、人形まで作られる始末だった。

 

映画はこの時期の藤田と、戦時中日本に戻って疎開していた時期の藤田が描かれる。疎開中藤田は画壇の大家として「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」など戦後に戦争協力画として批判を浴びた大作を手掛ける。

 

監督は小栗康平。隙のない画面構成は圧倒的な映像美と言ってもいいのだが、小栗監督が目指しているのはむしろそうした美しさよりも、美しい映像が醸し出す気配のようなものだ。藤田を演じたオダギリジョーは、小栗監督の言葉を伝えている。

 

「ある1つのカットには俳優がいるけれど、ものも置いてあるし、そこには風が吹いていて、光も当たっている。だから俳優がやれることは限られているんだ。」

 

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映画は藤田の絵をはっきりとは映し出さない。いったいどういう作品なのか、はっきりと見えないもどかしさが残る。だが小栗康平は映画監督でありながら目に見えるものを嫌うのだ。目に見えるものは単に素材であって、むしろそこから立ち上る「気配」を描こうとする。その際、クリアに見えるものは邪魔である。物語も邪魔。計算されつくした画面の構成がその「気配」を立ち上らせる。その瞬間が映画だと考えている人なのだ、おそらく。

 

「五人の裸婦」を完成披露したとき、藤田は「視覚で触れる」絵画を目指すのだと語る。視覚は距離がある。触角は距離がない。「視覚で触れる」とは、見ることの距離を極限にまで詰めることだ、と。それは小栗康平の映画にも通じることかもしれない。

 

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パリで日本画技法を取り入れた藤田は、戦時中の日本で、西洋歴史画の技法戦争画を描いた。「アッツ島玉砕」、「サイパン島同胞臣節を全うす」…。これが戦争協力画になるというのは結果論であろう。戦争批判画と言われればそう見える。戦後藤田はこれらの戦争画を批判され、日本を去って二度と帰らなかった。

 

映画が描くのは戦時中まで。戦後の藤田は描かれない。なぜ日本を去ったことを描かなかったのか、不思議だった。批判を受け、なぜ批判されねばならぬのかという問いを飲み込んだ、オダギリジョーの寡黙な表情を見てみたかった。

 

監督・脚本小栗康平

主演:オダギリジョー

日本・フランス 2015 / 126

 

公式サイト

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