いしぶみ
暗闇の中、綾瀬はるかの朗読が静かに始まる。背後に古びた金属のような壁がある。その壁には中学生になったばかりの子どもたちの姿がぼんやりと映し出される。広島二中一年生たちである。昭和20年8月6日、生徒たちは建物解体作業のため朝早く本川の土手に集合していた。
「わずか五百メートルの間近にいた広島二中の一年生は、閃光に目を焼かれ、服は燃えだし、そして小さなからだは地面にたたきつけられ、十メールも吹きとばされたのでした。」
床にはいくつもの木箱。その一つに朗読している内容の子どもが大きく映される。
「岡田彰久くん。『腰まで砂に埋まったが、気がついて、燃える砂を手で掘ってはいでた。』原子爆弾のものすごい熱で、そのとき砂も燃えたのです。」
大やけどを負い、猛火に追われて川に飛び込み、家に帰りつこうとして道端で倒れ…。広島二中生のあの日の事実を遺族の手記からよみがえらせてゆく。
この映画は、1969年に広島テレビで放送された番組を是枝裕和監督がリメイクし、去年放送された番組をさらに再編集した。
「『いしぶみ』では、もう少しフラットに、被害者寄りではないポジションでの朗読にしようと考えたので、綾瀬はるかさんには「子どもを戦争に巻き込んでしまったことに罪の意識を感じ、自責の念を持っている旧制・広島二中の先生」の立ち位置で読んでもらいました。だから根底に流れているのは悲しみより、自分に対して、時代に対しての怒りです。」
(東洋経済オンライン記事から)
是枝監督は、被害体験を語るだけではアジアで共感されないとし、この作品で被害体験を相対化するべきという問題意識を投げかけている。
「広島・長崎を語り続けることは大事なことだし、あの戦争を経験した一般の人が、それを被害体験として語らざるを得ないことは、自分の親を見ていてもわかります。(…)だからこそ、経験していない人間が戦争を語る意味があるとすれば、被害体験を相対化する、その一点だろうと。」(パンフレットから)
そのため試行錯誤し、たまたま生き残った二中の生徒の証言を入れることにした、という。ジャーナリストの池上彰氏が彼らを訪ね、話を聞いて歩く。自分が生き残ったことに忸怩たる思いを抱える人、彼らの死を考えることで人生が変わったという人、広島を絶対視すべきではないと語る人などが証言してゆく。
「相対化」とはどういう意味だろうか。個人の哀しみの中に閉じこもらない、ということなのか。ただ作品から立ち上がってくるのは、個別の経験そのものだ。亡くなった子どもたちも、生き残って今では老人となった人も。あくまで個人的な体験を核にしないと、戦争を否定する契機そのものが失われてしまうような気がする。
綾瀬はるかの朗読は素晴らしいが、聞き取りづらい点があるとすると、それは固有名詞が頻繁に出てくるせいだ。そしてそのことはこの朗読ではとても大事なことだと思う。人間は数ではない。名前を持った個人がこの場所にこの時間生きていたのだと固有名が語っているのだ。
「六学級の大隅美昭くんは、東京から疎開してきて、宮島の親類から通学していたのですが、ゆくえのわからない生徒のひとりで、焼けこげた弁当箱が唯一の形見になりました。」
「佐伯郡大野町の家で一学級の豊久正博くんは、お父さん、お母さんにみとられて八日の夜十一時に、亡くなりました。」
「五学級の山下明治くんは、三日目の九日明け方、お母さんにみとられて亡くなりました。…『死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。』」
・・・
理不尽に固有名が消えてゆく。個別の悲劇こそが最大の悲劇なのだ、人間にとって。映画では紹介されなかったが、旧作「いしぶみ」の書籍には、山下明治くんのお母さんの短歌が最後に紹介されている。この思いはあらゆる理屈を超えて痛切である、と思う。
烈し日の真上にありて八月は
腹の底より泣き叫びたき
監督:是枝裕和
出演:綾瀬はるか
日本映画 2016 / 85分
公式サイト