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映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

太陽のめざめ

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フランスの青少年裁判所。6歳の子どもと、生まれたばかりの赤ちゃんを連れた母親が、判事に責められている。学校に行かせていないというのが理由のようだ。逆上した母親は、「子どもなんてウンザリ マロニーも荷物もいらない!」と荷物を叩きつけて出て行ってしまう。置き去りにされたことを知ってか知らずか、目を丸くして眺めている6歳のマロニー。物語はこの日から10年後を描く。

 

同じ青少年裁判所。17歳になったマロニー、そして同じ母親。想像通りマロニーは非行を繰り返し、何度もここにやってくる。判事も10年前と同じ、カトリーヌ・ドヌーヴ演じるフローランス。マロニーはいつも何かにイライラし、暴力を繰り返す。そしてついに矯正施設に送られることになる。

 

監督は「なぜ彼女は愛しすぎたのか」のエマニュエル・ベルコ。

 

「私には保護司をしているおじがいて、彼は毎夏、ブルターニュの海辺で、非行に走った子どもたちや犯罪に手を染めてしまった子どもたちのためのキャンプを運営していました。私も子どもの頃、そのキャンプに参加する機会があったのです。その時出会った少年・少女たちにショックを受けたのを覚えています。彼らのふてぶてしさや権威とか決まりごとに対する反抗心が、私には新鮮でした。と同時に、保護司たちが彼らを<正しい道>に戻そうとしている姿にも心を動かされました。」

 

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マロニーは、施設の教官、新たに担当になった保護司ヤンの粘り強い働きかけで、少しずつ心を落ち着かせてゆく。しかし、マロニーに否定的な人間に会うとすぐに反転する。落ち着き逆上し落ち着き、その繰り返し。そんな中、マロニーは施設の教員の娘テスと出会う…。

 

人は変わることができるのか。変われると信じているからこそ、保護司たちは我慢強く働きかけるのだろうが、生まれつきの性格と言うものはどう関係しているのだろうか。精神科医斉藤学氏がパンフレットの解説でこう書いている。

 

「人は生まれつき邪悪な妄想を抱える存在。そこから他者への善意と思いやりを育ててゆくもの。現代精神分析はこの『思想』から始まった。」

 

そして人が「社会化」するために、「懲罰の受容」が必要であり、それはすなわち「懲罰する人の中に愛を見出せるようになることだ」という。

 

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「あんたは俺に何をしてくれたんだ」

マロニーは何度もこう叫ぶ。


自分の感情を抑えられない、すぐ暴力を振るう、社会ルールを守ることができない、こういう若者を辛抱強く見守り導く人たちがいる。人間性に対する絶大な信頼がないと出来ないことだと思う。すべての人間はもともと邪悪な妄想を抱えており、それを両親など他者の働きかけで矯正していくものなら、小さいころに矯正の機会を失くした者にもチャンスはあるはずだ―。理屈はそうだが実践するのは相当に難しいと、この映画は教える。

 

映画は決して楽観しない。かつて非行少年だった保護司のヤンや、ベテラン判事の人間的な感化力をもってしても溶かすことの出来ない氷の心がある。それはそれでしようがないというような判事の達観が、なぜかすがすがしい印象を残す。終盤でマロニーに希望の芽が生まれるが、それが再び不幸の芽に反転しないことを祈らずにはいられない。  

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監督・脚本:エマニュエル・ベルコ

主演:カトリーヌ・ドヌーヴブノワ・マジメル、ロッド・パラド

原題:La tete haute

フランス 2015 / 119分

 

公式サイト

http://www.cetera.co.jp/taiyou/