映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

はじまりへの旅

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アメリカ北西部。鬱蒼とした森の中に7人の家族が暮らしている。父親と、高校生くらいの長男をはじめに男女6人の子ども。鹿を狩り解体して食べ、夜は読書。そして音楽。昼は訓練と称して山道を走り、格闘術を覚え、ロッククライミング。すべて父親のベンが指導する。

 

世間とのつながりはほとんどない。しかし子どもたちはとても優秀だ。六か国語を話し、手を骨折しながらも自力で岩棚をよじ登る。ある時、入院のため離れていた母親が自殺したとの報が入る。悲しみに暮れる家族は、母親の実家が行う葬儀に出席しようと2400キロの旅に出る。しかしそこは、自分たちとは違う考えの人たちが住む別世界だった…。

 

監督・脚本はマット・ロス。この作品でカンヌ映画祭「ある視点」監督賞を受賞した。この物語は自らの生い立ちと関係があるという。

 

「僕自身子どもの頃に、北カリフォルニアとオレゴンのコミューンで生活し、テレビや最新テクノロジーのない人里離れた場所にいたんだ。…このストーリーは普遍的でどこの国にも通用するものだと思う。親がどんな教育をするか、子どもに自由に考えさせるのか、親の考えを押し付けるのか。僕らが生きる時間は限られている。その時間、いったい何を考え、何をするのか。そういうことをこの映画を観た人に考えてもらえたらと思う。」

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子どもたちは、基本的には父親がつぎからつぎへと出す課題をこなし続ける優秀な生徒だ。とても真面目でとても従順である。「巨人の星」の星一徹と飛雄馬のようなものだ。おかげで6歳の子どもが権利章典の内容と意味について語ることができる。

 

しかし問題は彼らが成人した後どう生きるか、ということだと思う。このまま世間と隔絶した社会に生きるのであれば、果たして六か国語が必要だろうか。他人と隔絶した社会に暮らせば、もしかすると能力を効果的に向上させることができるかもしれない。しかし、他者とのかかわりの中で生きるという人間の宿命のようなものから逃げているという感じがしないでもない。言ってみれば他者とのかかわりの中で生きるから権利章典も必要なのだ。

 

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 やがて子どもたちの中からも少しずつ父親への反旗の心が芽生えてくる。長男のボウは隠れて大学を受験し、次男のレリアンは時折あからさまな反抗の態度を見せる。この一家のヒーローは言語学者のノーム・チョムスキーだ。彼の誕生日はクリスマスのように祝うのが慣例らしい。旅の途中、誕生を祝う家族の中で、次男のレリアンだけが浮かない顔をしてこう言い放つ。

 

チョムスキーの誕生日を祝うなんておかしいでしょ!」

 

すると父親のベンは、

 

「ちょうどいい機会だからお前の考えを言ってみろ」

 

と迫る。それに対してレリアンは何も言うことができない。おそらくチョムスキーを自分でも尊敬しているからだろう。理論的に正しいことと感情的に気に食わないことがうまく整理できない。正しくても気に食わないことだってあるのだ。逆に間違っていても好きになることもある。

 

母親の葬儀に参列するというだけで家族に様々な困難が降りかかる。自らの自由は他人の不自由を前提とする、そんな状況があちこちで発生する。そして、ついに絶対的な支配者(教育係?)であった父親にも迷いが生じ、あることを決断するのだが…。

 

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父親を演じたヴィゴ・モーテンセンは語っている。

 

「この物語は、一個人でありながら社会の一員であることの新しい、より良いバランスを探るために常に努力することと、自分の間違いを認めてより良い人間になるために学ぶことについて語っているんだ。」

 

子どもにとってぶれない父親がいいのか、迷いながら進む父親がいいのか。これまで何の迷いもなかったような父親が旅の途中で迷い始める。父親が迷う分、子どもたちが意志的になる。社会に対して閉じていた目を開き始める。絶対者の迷いは、時に大きな教育的課題を与えることになる、映画を観てそう感じた。これはあらゆるコミュニティに当てはまることかもしれない。

 

監督・脚本:マット・ロス
主演:ヴィゴ・モーテンセンジョージ・マッケイ
原題:CAPTAIN FANTASTIC
アメリカ 2016 / 119分
 
公式サイト

http://hajimari-tabi.jp/