映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

教誨師

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狭い密室にふたりの男が机をはさんで対峙している。一言も発さず静かに目を閉じている男は死刑囚、もう一人はキリスト教教誨師のようだ。教誨師は宗教の教義に基づいて、被収容者と対話を重ねる。ある人は自らの身の上を語り、ある人は刑務官の愚痴を言い、ある人は讃美歌を歌ってみせる。

 

映画はこの狭い密室をほとんど出ることがない。何度も重ねられる6人の死刑囚との対話を、静かに繰り返し映し出す。牧師の佐伯は時折聖書の言葉を伝えようとするが、大抵の場合うまくいかない。よそ行き(に見える)言葉が宙に浮いてしまい、しまいに相手を苛立たせ怒り始める始末だ。

 

文字が読み書きできない進藤という老人は、そのために他人の借金を背負い込んだ。しかしそのことに何の恨みも無く、それどころか自分が金持ちになったようだという。佐伯は進藤に文字の勉強をしないかと誘う。
また、17人もの人間を殺したという高宮という若者(おそらく相模原の障碍者施設殺傷事件をイメージしている)は、いつも佐伯に論争を挑んでくる。佐伯が事件の被害者に触れ「奪われていい命はない」と言えば、「じゃ死刑囚は?」と問い返してくるのだ。  

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死刑囚との対話の中で、佐伯は自らのことを少しずつ話始める。叔父が牧師であったこと。兄が若い時に人を殺してしまったこと。出所前に自死してしまったこと。そして自分のしていることを問い直し始める。

 

監督は佐向大
「死刑囚は『死』を持って罪を償うわけですから、懲役刑や禁固刑と違い、拘置所にいる間は宙ぶらりんな状態で、ただ死を待っている。それってものすごく特殊な状況だと思うんです。でも死が訪れるのはすべての人に言えることで、そう考えると我々だってそう変わらないのではないか。」

 

ずいぶん乱暴な物言いだが、「死」を待つ身であることは確かに変わらない。映画でははっきりとは説明がないが、死刑囚の教誨は特別なことであるらしい。

 

教誨とは、受刑者等が改善更生し、社会に復帰することを支援する仕事です。…ところが、死刑の教誨は特殊です。「生きていく」こころを説くはずの教誨師が、「死んでいく」ことを手伝うことになるからです。」龍谷大学教授・石塚伸一氏 堀川恵子「教誨師」解説)

 

牧師である佐伯の悩みもここにあるのではないか。

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最初何も語らなかった鈴木は、自分のことを語る佐伯に触発されたのか次第に雄弁になってゆく。察するにある女性をストーカーして殺害してしまったらしい。それは周りの人間、両親とか警察とかが自分の愛情を邪魔したためだと思い込んでいる。それに少しでも異を唱えようものなら怒り狂うのだ。

 

ある時その鈴木が、晴れやかに佐伯に語る。「先生の言うように真剣に祈ったら、相手がごめんなさいと言ってくれた」と言うのだ。相手とは被害者のことらしい。

 

「被害者があなたに謝るのですか?」

 

その通りだといい、死後の世界で彼女にプロポーズする希望が生まれ、生き返ったようだという。「あなたのおかげです」と。佐伯は絶句してしまう。
  

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「奪われていい命はない」。それが死刑囚であっても。では彼らの罪はどうなるのか。以前読んだ中村文則の小説「何もかも憂鬱な夜に」の中に次の一節があり、忘れられない。刑務官が死刑囚に語る言葉だ。

 

「俺は死刑にはどうしても抵抗を感じるよ。死刑にはいろいろ問題があるのもそうだけど、人間と、その人間の命は、別のように思うから。…殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思ってるから。お前の命というのは、本当は、お前とは別のものだから。」

 

映画の終盤佐伯は、文字を覚え始めた進藤老人に、大切にしていたグラビア写真の切り抜きを手渡される。その裏にはたどたどしい文字でこう記されていた。

 

「あなたがたのだれがわたしをせめることができるか」

 

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原案・脚本・監督:佐向大
主演:大杉漣古舘寛治光石研、五頭岳夫
日本  2018 / 114分

公式サイト

http://kyoukaishi-movie.com/