映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

眠る村

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一本の長い山道が、とある小さな村への入り口である。三重と奈良の県境にある、葛生だ。


昭和36年、この村で事件が起きた。懇親会の席で出されたぶどう酒に毒が入れられ、5人の女性が亡くなった。名張ぶどう酒事件である。事件から6日後、村に住む奥西勝が逮捕された。犯行を自供したのである。しかし公判では一転して無罪を主張。その後死刑が確定しても再審請求をし続けた。

 

平成27年、その奥西が医療刑務所で亡くなった。89歳だった。奥西は実に54年もの間、死刑囚として独房で生きたことになる。この映画は葛生村を改めて取材。一つ一つ証拠を検証し、奥西犯行説を覆そうとしている。

 

村人は奥西が逮捕された後で逮捕前の証言を覆し、奥西犯行説に有利な証言をしていること。奥西は「ニッカリンT」という農薬をぶどう酒に入れたと供述しているが、分析の結果他の農薬だった可能性が高まったこと、など犯行に疑問を持たせる証拠が次々に明るみに出るが、再審が行われることはなかった。 

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東海テレビはこれまで、監督が交代しながらこのテーマで6本の映画を制作している。その間実に30年以上に及ぶ。今作の共同監督のひとり齋藤潤一はこう語っている。

 

「事件から57年が経過し、証言を変更した村人はいま、事件について何を語るのか知りたかった。案の定、事件を早く忘れ去りたい村人の口は重い。(共同監督の)鎌田は持ち前のガッツで何度も村に通い続けて、村人との人間関係を築き、7作目のドキュメンタリーを完成させた。」

 

他の6本の作品は見ていない。この映画だけの印象で言うのだが、奥西勝が犯人でないとするなら、別に犯人がいることになる。それはいったい誰なのか。誰しもが思うこの疑問には、映画は一切触れない。そのことがずいぶんと隔靴掻痒な感触をもたらす。

 

何かをしなかったことを証明するのは、何かをしたことを証明するよりはるかに難しいという。だとすれば真犯人を特定する方向の解決はどうなのだろうか。もしかすると取材の積み重ねの中で、浮かび上がる人物がすでにいるのかもしれない。第1作の監督である門脇康郎はこう書いている。

 

「事件の核心について取材すればするほど、この事件には疑問が多い。しかし突っ込んだ取材をすれば、そこには『人権』の問題が横たわる。」

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村人が奥西勝を犯人だと信じているのは、奥西が犯人でなくなった瞬間に、「ではいったい誰がやったのか」という問いが立ち上がってしまうからだろう。それは村の安寧を脅かす。それならいっそ誰かに犠牲になってもらった方がいい-。

 

この村の構図はどこかで見たことがあるな、と思い、思い出した。沖縄だ。沖縄の米軍基地の押し付けと似たような構図ではないだろうか。外から見ると奇妙な村の保身は、今日本という村に住む私たちの態度そのものなのだ。そう思うと、映画を見て感じる隔靴掻痒感が長く尾を引く。

 

映画は事件のミステリーを追うだけではない。私たちの社会とのかかわり方を考えさせる普遍的な奥行きを持っていると思う。共同監督の鎌田麗香は私たちにこう問いかけている。

 

「外部の人は葛生の人間のことを悪く言うが、こうした出来事はどの組織でも起こりうると思う。……被害者の気持ちを思い、声を上げられる個人でいられるか…大なり小なり組織に所属している私たち一人一人に問われている。私は東海テレビという村にいます。皆さんのいる村はどんなところですか。」

 

監督:齋藤潤一、鎌田麗香

プロデューサー:阿武野勝彦

日本  2018 / 96分

 

公式サイト

http://www.nemuru-mura.com/