映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ドッグマン

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歯茎をむき出しにして唸り声をあげる巨大な犬。傍らには小さな男。鎖につながれた犬をモップで体を洗おうとするが、モップに咬みつかれて引きずり込まれようとしている。しかし男の声音はあくまで優しい。やがて洗い終えた犬は、乾燥機の風を浴びながらどこか気持ちよさそうでもある。

 

イタリアの郊外、廃墟が点在し打ち捨てられたような町の一角。青白い風景がざらざらと妙に不安を掻き立てる。マルチェロの仕事はドッグシッターだ。近所の連中とも仲良くやっているのだが、この町に住む厄介者の巨漢シモーネが、何かといっては彼につきまとう。

 

シモーネの暴力性は常軌を逸している。気に入らないことがあると徹底的に暴力を振るい、相手を意に添わせようとする。町の連中は殺し屋を雇おうかとまで相談する始末。しかし、

 

「結局あいつはだれかに殺される。自分たちがやる必要はない」
                    

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マルチェロは最初クスリの転売だけだったが、次第に要求がエスカレートし、空き巣の手伝いから、クスリの売人への暴力まで付き合ってしまう羽目になる。ある時、シモーネはマルチェロの店の壁を破って隣の店に強盗に入ろうと持ち掛ける。隣は仲の良い友人の店だ。

 

「俺はこの町の人たちが好きなんだ」

 

拒否するマルチェロだったが、シモーネの怪力に締め上げられ恐怖で自分の店のカギを渡してしまう…。

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監督はイタリアのマッテオ・ガローネ。

「本作で描きたかったのは、間違いも犯すけれども、人に好かれたい、皆とうまくやっていきたいという気持ちもある、私たちの多くに似ているような、ある種平凡な男が、望んでもいないのに、じわじわと暴力のメカニズムに巻き込まれていく姿です。」

 

マルチェロは警察で、シモーネが犯人だという書類にサインをすることを拒み、なぜか自分で罪を被って刑に服してしまう。マルチェロはシモーネを忌避し恐怖しながら、どこか友情めいたものを、あるいはその可能性の芽を感じている気配がある。例えば獰猛な犬も犬は犬、愛情をもって立ち向かうように。

 

そして1年がたつ。刑務所で彼が受けたであろう暴力も容易に想像できる。出所したマルチェロは近所の仲間だった人たちから村八分にあう。さらにシモーネに強盗の分け前を要求するが鼻先であしらわれ、やがてある決意をする…。

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これはイタリアで実際に起こった事件をもとにしているという。凄惨な復讐事件で、そのあまりの異常性に犯人のドッグシッターは「マッリャーナの犬屋」として一躍有名になった。映画は翻案ということだが、現実のふたりの関係性はそのままだ。

 

この復讐劇は決して痛快なものではない。町の厄介者を排除したはずのマルチェロは、自分が何をしたのかわからないような表情をして、うらさびれた町の夜明けに立ち尽くす。マルチェロは何かを間違えたのだ、おそらく。

 

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マルチェロはどこで何を間違えたのか。店のカギを渡したところか?警察でサインをしなかったところか?復讐を考えたことか?そもそもシモーネを獰猛な犬として友情を芽生えさせたところか?それが簡単には分からないところがこの映画のすごみなのだろう。

 

自分を取り巻く様々な要因が乱れた風を起こし、ひとは自分が本当は何を欲しているのかが分からなくなってしまう。あなたは風の中に毅然と立ち続けることができるか、映画は難しい問いを突きつけているように思える。

 

「私たちの誰もが抱いている不安、つまり私たちが生きるために日々行っている選択がどんな結果を招くのか、イエスと言い続けてきたことで最早ノーと言えなくなってしまっていること、自分が考える自分と真の自分との差異といった不安に、向き合わせてくれる映画です。」(マッテオ・ガローネ監督)

 

監督:マッテオ・ガローネ
主演:マルチェロ・フォンテ、エドアルド・ペッシェ
イタリア・フランス  2018 / 103分

 

公式サイト

http://www.dogman-movie.jp/