映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ONODA 一万夜を越えて

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フィリピン、ルバング島。一人の若者が船から降りると、密林に流れる川沿いにキャンプを張り、日本の軍歌を流し始める。1974年のことだ。この密林の中で今も戦闘状態でいる一人の兵士に会うために来た。その男は小野田寛郎という。

 

陸軍中野学校二俣分校で特殊訓練を受けた小野田が、ゲリラ戦を指揮するためにルバング島に派遣されたのは1944年12月。この時まで実に30年間をジャングルで生きていたことになる。小野田は赴任前に上官から「君たちに死ぬ権利はない」と言われ、玉砕は固く禁じられていた。

 

この映画は、小野田がその30年間、圧倒的な情報不足の中で自らの役目をどのように全うしようとしたか、また、どのように生きたかを描いた実話である。

 

監督はフランス人のアルチュール・アラリ。2016年の「汚れたダイヤモンド」で注目され、今回が長編2作目。

 

「本来、命令に対しての誠実さとか、忠誠心とか、尽くす気持ちというのはポジティブな精神もとづく行動のはずです。しかし、任務とはいえ、それを果たすことで、小野田さんは殺人者や強奪者にもなってしまう。そういう小野田さんの気持ちは、『曖昧さ』に満ちていると感じました。そういう曖昧さや複雑さに興味を惹かれました」

(SCREEN ONLINE インタビューから)

 

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最初は3人の部下と行動を共にしていた小野田だったが、ひとりは島民の牛を盗もうとして撃たれ、ひとりは逃亡し(彼が小野田の存在を伝えた)、ひとりは島民の奇襲にあって亡くなった。そしてひとりになる。

 

終戦から5年して逃亡した部下はこう語っていた。

 

「教えてほしいんです。(自分たちの戦闘行動は)何かの役に立ったのか。それとも何の意味もなかったのか。」

 

それからさらに25年。小野田の30年という歳月にいったいどんな意味があったのか? 映画は一つの回答を与えているような気がする。

 

小野田は一人になるとおそらくは定期的に、かつての部下が亡くなった島の土地を訪れ、花を手向けていた。そして死んだ彼らに向かって呟くのだ。

 

「誰のことも忘れない」

 

死んだ仲間と語る小野田の表情が、彼が生き延びる意味を感じさせて静謐である。

 

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脚本・監督アルチュール・アラリ
主演:遠藤雄弥、津田寛治、仲野太賀
フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本  2021 / 174分

映画『ONODA 一万夜を越えて』2021年10月8日(金)TOHOシネマズ 日比谷他全国公開 (onoda-movie.com)

 

 

アイダよ、何処へ?

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真剣な面持ちの男が3人、自宅のソファに座っている。そして女。女はアイダという。男たちは夫と二人の息子だ。これから起こることに身構えるような面持ちである。

 

1995年7月、ここボスニアヘルツェゴビナのスレプレニッツァが、セルビア軍に包囲されていた。アイダは国連軍の通訳として働いている。スレプレニッツァは国連の管轄下におかれた安全地帯だったはずだが、明日にも攻撃を仕掛けてきそうな勢いだ。会議の席で市長は、国連軍が何もしないことにいら立つが、国連軍の責任者はこともなげに言う。

 

「私はピアニストだ」

 

アイダはそれを訳して付け加える。

 

「ただの伝令に過ぎないという意味よ」

 

翌日セルビア軍が侵入、町を制圧すると市長は真っ先に殺される。人々は雪崩を打つように国連軍が管轄する基地に向かう。アイダは家族を探すがまだ到着していない。やがて門が閉じられ、人々は門外にあふれるようになる。セルビア軍が来るかもしれない。アイダは柵の外に夫と二人の息子を見つけるが…。

 

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1992年から始まったボスニア紛争は、セルビア人、クロアチア人、ボシニャク人(ムスリム人)の間で殺戮が繰り返され、およそ20万人の死者を出し、200万人以上の難民を生んだ。監督のヤスミラ・ジュバニッチは10代の頃この紛争を経験。「サラエボの花」「サラエボ、希望の街角」を制作した。

 

「スレプレニッツァは私にとって他人事ではありません。…人は道徳的規範が破られたとき、また人間たらしめるものすべてが壊されたとき、互いにどう振る舞うのか?これは単にボスニアやバルカン諸国についての話ではありません。人間についての物語であり、どうしても伝えなければならないという思いに私たちは駆られていたのです。」

 

セルビア軍は国連軍を呼びつけ、市民を安全な場所にバスで移動させると提案。国連軍はそれにのるが、実は男たちを別の場所に連れて行き虐殺していた。知らないのは市民だけ。隠れた場所で虐殺された人がいるということを知ったアイダは、家族をセルビア軍に任せるのは危険だと感じ、基地の中を走り回る。

 

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だがこういう時、ほぼ何も知らないでいる段階で、おとなしくバスに乗るか、それとも一か八か逃げ出すか(森へ逃げた市民も多い)、セルビア軍に反抗するか、どういう選択ができるだろう。誰もが選択に尻込みし、おとなしくバスに乗る。

 

しかしアイダは、家族は乗せないという選択をした。その決断のエネルギーはすさまじいものがある。国連職員の偽IDカードを作ろうとしたり、基地内のある場所に隠そうとしたり。この強さは尋常ではない。おかげで息子からは、

 

「母さんは何でも自分で勝手に決めてしまう」

 

と批判されるほどだ。しかしアイダは意に介さない。国連軍の隊長にも家族を残してくれるよう必死に訴えるが、例外を許すとパニックが起きるという名目で、かたくなに拒まれてしまう…。

 

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紛争は5か月後に終わるが、スレプレニッツァで行われた虐殺は8000人以上に上ると言われる。すべてが終わった後、アイダはスレプレニッツァに戻ってきた。「アイダよ、何処へ?」というタイトルは、もう一度迫害されるかもしれない土地に戻ることを含意する聖書の言葉からきているという。

 

スレプレニッツァで教師に復職するアイダだったが、子どもたちの学芸会に笑顔で参観する父親のひとりは、あの日住民を恐怖に陥れたセルビア軍の兵士だった。思えば、基地の外でアイダに声をかけてきたセルビア人兵士は、かつてのアイダの生徒だ。生活圏が同じ人間同士が殺しあっていたのだ。

 

このシーンは見ているとぞわぞわする。ここに和解の希望を託すのは、現実がつらすぎるとも思えるのだが、逆にそうだからこそ託さねばならないのかも知れない。

 

「戦争の物語はいつも自由、民主主義、正義で飾り立てられてしまうため、その物語の背後にある真実や戦争自体の愚かさに私たちは気づきません。別の見方からのストーリーを加えるためにも、背後で何があったのかを描いた物語がわたしたちには必要なのです。」(ヤスミラ・シュバニッチ監督)

 

脚本・監督:ヤスミラ・ジュバニッチ
主演:ヤスナ・ジュリチッチ、イズディン・バイロヴィッチ
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ/オーストリア/ルーマニア/オランダ/ドイツ/ポーランド/フランス/ノルウェー/トルコ  2020 / 101分

 

映画『アイダよ、何処へ?』公式サイト (aida-movie.com)

 

由宇子の天秤

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川べりで中年男性をインタビューするテレビの撮影クルー。話しているのは、この場所で亡くなった娘の父親らしい。周りでプロデューサーが時間を気にしてやきもきするが、女性のインタビュアーは意に介さず、ぎりぎりまで相手の言葉を待っている。「娘さんにどういう言葉をかけてあげたいですかと?」という質問は陳腐だが、帰ってきた言葉は父親の悔いを素直に表現していた。

 

このディレクターは木下由宇子(瀧内公美)。3年前の「女子高生いじめ自殺事件」を追っていた。亡くなった生徒は学校講師とのあらぬ疑いをかけられており、後日その講師も自殺するというスキャンダラスなものだった。父親は「娘は学校と報道に殺された」と語り、由宇子は過剰な報道がもたらしたものを訴えたいと考えていた。

 

しかし、VTRの試写で局のプロデューサーは「報道が殺したんですよ」という言葉をカットしろという。「誰が得するの?」とも。由宇子は結局その指示に従うが、今度は自殺した講師の家族を取材することで、当初の意志を貫徹しようとするが…。

 

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「由宇子の天秤」というタイトルの意味はやがて明らかになる。取材がうまく行き放送の予定もたったある日、小さな塾を経営する父親(三石研)が、教え子のめい(河合優美)と関係を持ち妊娠させていたことが発覚するのだ。父親は「めいの父親に話に行く」というが、由宇子はそれを止め、内密に堕胎させる道を選んだ。もし示談が受け入れられなくて公になったら自分も父親も社会から抹殺される。

 

「失うものが大きすぎるんだよ。お父さんは自分が楽になりたいだけじゃない。しんどくてもちゃんと背負いなよ。私も背負うからさ」

 

だが、由宇子は同級生から、めいが「ウリ」をやっていたという話を聞く…。

 

監督は「家族へ」の春本雄二郎。ネットリンチの記事に触発されて企画を思いついたという。 

「果たして今目の前にある情報は真実なのか?常に絶対に正しい人間など存在するのか?私たち人間は、それほど強く完璧な存在なのか?…私は『彼ら(ネットリンチを行う人)は人間として“ある重要なもの”を失くしてしまっているのではないか』と考えました。それについて掘り下げてみたいと思うと共に、その先に待ち受けている社会を描いてみたいと思ったのです。」

 

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ディレクターとして真実を追求したいと思っている人間が、みずから事件の当事者となった時、真実に対してどのように振舞うのか? 真実を隠そうとすれば、自分が仕事で主張していることと矛盾が生じてしまう。逆に真実を明るみに出せば、自分はもちろん多くの人に壊滅的な影響を与える。由宇子はこの二律背反の間に立たされ、もがき苦しむ。

 

由宇子は、めいを内密に堕胎させるため医者に、父親に犯され妊娠した少女だと噓を言う。しかし由宇子の知り合いでもあるその医者は、内密理の堕胎についてこういうのだ。

 

「それって根本的な解決にはならないよね」

 

普段の由宇子なら、その父親を糾弾するはずだと医者は暗に言っているのだ。由宇子はこの時、正義の報道ディレクターではなくなっている。局のプロデューサーに、「報道が殺したんですよ」という言葉をカットしろと言われた由宇子は怒って席を立ったが、自分が同じことをしてしまっているのだ。

 

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ただ、そもそも報道の仕事は常に正義なのか? また、真実は公にしなければならない、という暗黙の前提がマスコミにあるようだが、果たしてどんな場合にもそれは当てはまるのか? いずれもちょっと疑ってみなくてはいけないのではないか。

 

何のためにその真実を公にする必要があるのか。そしてそのことは、考え得るどんなマイナス要素があってもあえてするほどの意味のあることなのか、と。

 

「女子高生いじめ自殺事件」で自殺した講師の母親は、世間の糾弾を恐れ隠れるように暮らしていたが、母親の自宅を訪れた由宇子は彼女にこう言う。

 

「私は誰の味方になることも出来ません。でも光をあてることは出来ます」

 

ディレクターとしていい言葉と思うが、でもやっぱり、続けてこう問わないといけないのだ。

 

「何のために光をあてるのか?」

 

と。

 

監督・脚本・編集:春本雄二郎

主演:瀧内公美、三石研、河合優美、梅田誠弘

日本  2020 / 152分 

 

映画『由宇子の天秤』オフィシャルサイト (bitters.co.jp)

ミス・マルクス

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資本論」を書いたカール・マルクスには娘が3人いた。末娘のエリノアは聡明な子で早くから政治と文学に深い関心を示していたという。長じて父の仕事を支え、父亡き後も労働者の環境改善や、男女平等を訴えた。この映画はそんなエリノア・マルクスの半生を描いたものだ。

 

エリノアは社会活動家として熱心に活動する反面、私生活では大きな問題を抱えていたらしい。パートナーのエドワード・エイブリングが、既婚者でかつ大の浪費家だったのだ。出張先のホテルの部屋を大量の花で飾りエリノアを喜ばせる一方、それを平気で活動費として申請する。周囲は彼と暮らすことに大反対するが、彼女は頑として聞かなかった。

 

「私は誰かの世話ばかり。今度は自分自身のために生きる番よ」

 

しかしやがてエリノアの貯蓄も底をついてしまう…。

 

監督はイタリアのスザンナ・ニッキャレッリ。

「エリノアはとても心惹かれる人物です。聡明で、強い政治的信念を持っていた。でもその一方で感情的には脆いところもありました。彼女の人生はエモーショナルなものであり、同時に皮肉に満ちています。フェミニストであるのに、実生活では男性からひどい仕打ちを受けても耐えていたのですから。でもこうした矛盾はとても人間的だと思いますし、その複雑さにこそ、わたしは惹かれたのです。」

 

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音楽の使い方や、終盤ででエリノアがパンクロックを歌い出すなどの演出はさっぱり乗れなかったのだが、彼女自身の矛盾にはとても興味を惹かれた。公的には女性の解放を叫びながら、自身は一人の男の束縛から逃れられない聡明な人。

 

この映画を見る限り、エイブリングはエリノアのことなどどっちでも良さそうだ。お金を使えるから一緒にいるくらいの感じ。

 

それでも長く連れ添ったある時、彼の妻と称する女性がエリノアを訪ねてきた。エリノアが彼の妻はすでに亡くなった、と言うと、

 

「そう。彼の妻は亡くなりました。そのあと私が妻になったんです」

 

という。

 

これほど人を馬鹿にした話はないと思うが、相変わらずエリノアは彼を厳しく攻めることをしない。そして「完全に馬鹿にされてる」という義兄に向かってこういうのだ。

 

道徳心が欠如してるの。目が見えなかったり耳が聞こえなかったりするのと同じ。責められないわ」

 

このセリフがこの映画で一番印象に残った。本当にそうか?一緒にしていいのか?という疑問とともに。

 

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生まれつきの道徳心の欠如は罪ではない、と言えるかもしれない。しかし責任は生じる。道徳心の欠如は周囲に大きな傷を残すことがあるのだ。時に死に至る傷を。

 

何度裏切られてもエイブリングを許してしまうエリノアは、故意に自身を罰しているのか、とも思える。彼女が救おうとしている貧困階級に、自分が属していないことからくる負い目のために。

 

彼が新たに別の女性と結婚したという話を聞いた翌年、エリノアは自ら命を絶った。43歳だった。エイブリングもなぜか同じ年に持病で亡くなっている。この他人の感情にまったく無頓着な男は、「自分勝手に幸福」だったのだろう。理不尽でやりきれない話である。

 

脚本・監督:スザンナ・ニッキャレッリ
主演:ロモーラ・ガライ、パトリック・ケネディ
イタリア・ベルギー  2020 / 107分

 

映画『ミス・マルクス』オフィシャルサイト (missmarx-movie.com)

 

アナザーラウンド

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北欧デンマーク。なんともやる気のない高校教師マーティン(マッツ・ミケルセン)が主人公。授業では何を言ってるのかさっぱり分からず、受験を控えた生徒の保護者が、連れ立って学校に文句を言いに来る始末。ここまであからさまに、やる気のない教師がいるのかなとちょっといぶかるくらいだ。家に帰っても夜勤の多い妻とは会話がなく、要は人生に疲れているらしい。

 

ある時、同僚教師の集まりで、こんな話を聞く。

 

「人間の血中アルコール濃度は0.05%が理想。この数字を維持すればパフォーマンスがあがり、人生が向上する」

 

ノルウェーの哲学者の話では、「そもそも人間は血中アルコール濃度が0.05%足りない状態で生まれてきている」のだそうだ。翌日、仕事の前にマーティンはこの理論を試すことにする。つまり飲酒してから仕事をすることにしたのだ。

 

理論というほどのことなのかと思うが、マーティンに効果はてきめん。授業は見違えるほど面白くなり、生徒が拍手喝采するほどだ。それを見た同僚教師たちは、仮説を検証する実験だとして、4人で同じように0.05%を実践。するとそれぞれのパフォーマンスが急激に上がっていく…。

 

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ここまで見ると、なんだか酒飲みの自己弁護みたいな映画だなと思うのだが、同時にこのままでは終わるわけないなとも思う。案の定マーティンは、この数値は人によって違うはずだと言いだし、徐々にその濃度を上げていくのだ。果たして…。

 

監督はデンマークのトマス・ヴィンターベア。

 

「酒は人々のパフォーマンスや決断をより高めることがあるのだということを、僕はこの映画で語りたかった。でも、酒は人を殺すこともある。そこが酒のとても興味深いところなんです。」

 

映画は、マーティンの妻や子供たちとの関係の回復を軸に展開していく。酒の力で途中まではうまくいくのだが、濃度を上げていった果てに大失敗を犯す。ついには妻との離婚騒動にまで。実験はやはり、教師たちに散々な結果をもたらすのだが、とはいえ映画の冒頭のような、無気力な教師であり続けるよりはいいのかとも思う。

 

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マーティンたちが大失敗するのと並行して、実験に参加した教師の一人は、生徒にも酒を勧める。面接がうまくいかずに悩む受け持ちの生徒に、始まる前に酒を飲んでみろというのだ。(ちなみにデンマークでは16歳以上で飲酒ができるそうです。)酒でようやく落ち着いた生徒は、教官が出したテーマ、キルケゴールについて答え、以下のような言葉を引くのだが、教師たちにとってはなんとも皮肉。

 

「大切なのは、失敗した後自分の不完全さを認めることだ」

 

これは寓話のような映画だが、その教訓は、人生で出会うあらゆることに両面があり、片面だけ味わうなんて無理なんだということ。マーティンはこの映画のあとも酒を飲み続けるだろう。そして失敗を重ねるに違いない。ま、それもよしか、と思わせる映画である。

 

ちなみに「アナザーラウンド」とは、「もう一杯」という意味だそうです。懲りないですね。

 

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脚本・監督:トマス・ヴィンターベア
主演:マッツ・ミケルセン、マリア・ボネヴィー
デンマークスウェーデン・オランダ  2020 / 117分

 

映画『アナザーラウンド』オフィシャルサイト (anotherround-movie.com)

ドライブ・マイ・カー

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「僕は正しく傷つくべきだった」

           (家福の言葉)

 

明け方の都会の空が窓の向こうに見える。女が何か話しているが、逆光で影しか見えない。裸のようだ。ベッドの上にあおむけになった男が相槌を打つ。女が話しているのは物語の断片。初恋の男性の家に忍び込む高校生の話。

 

「彼女はオナニーをしたくなる。でも我慢する。彼女には規律があるの。」

 

「空き巣はよくて、オナニーはいけない?」

 

「そう」

 

翌日、彼女は話したことをすべて忘れている。夫の家福(西島秀俊)が覚えていることを話し、妻の音(霧島れいか)がメモを取る。それが脚本に生かされる。音は脚本家なのだ。

 

ある時、フライトが変更になって家に戻ると、音は他の男とセックスしていた。家福は黙って静かに家を出る。その夜、何事もなかったかのように音は家福とスカイプで話す。家福も普段通りに接する。そうしたある日、

 

「今晩帰ったら、少し話せる?」

 

と音が問う。

 

「もちろん」

 

だが、家福はなかなか家に帰ることができない。話すことを避けているのだ。深夜帰宅してみると音が倒れていた。くも膜下出血でそのまま亡くなってしまう。ここまでが前段の物語。ここから2年の歳月が流れ、家福は「ワーニャ伯父さん」の舞台を上演するため広島に向かい、音の相手の男であった俳優の高槻(岡田将生)がオーディションを受けに来ていることに気づく…。

 

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監督は「寝ても覚めても」の濱口竜介。脚本は大江崇允との共同でカンヌ映画祭脚本賞を受賞した。村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」が原作だが、他に「シェラザード」と「木野」を合わせて一つの物語に紡いだ。上映時間は3時間。しかし決して長くはない。おそらく編集しようと思えばできたような感じだが、必要な長さだと思う。(なんと言うか、何かを感じ取るのに必要な時間というのがあるような気がする)

 

家福は高槻をワーニャ叔父さん役として採用する。家福の稽古は独特で、感情を入れない脚本読みを延々と繰り返す。これは濱口監督の演出法に近いという。WEB記事「シネマカフェ」のインタビューではこう話している。

 

「本読みをしていくと、言葉の意味が希薄化していくんです。・・・本読みを繰り返すことによって、言葉の意味に囚われず、言葉が自動的に出てくるようになる。本番では予期せぬ思いが入ることもあり、言葉の多い映画を撮る上では、有効な方法であるのは確かだと思います。」(シネマカフェ)

 

家福は、稽古場と宿舎の往復にドライバーをつけることが条件として出されていた。事故があると大変だからという理由だ。紹介された渡利みさき(三浦透子)は、若いが腕の確かなドライバーだった。北海道の悪路で鍛えられたという。寡黙な彼女を家福は気に入り、車の中で妻の音がカセットテープに吹き込んだ「ワーニャ叔父さん」の台詞を聞き、暗唱し続ける。このため車の中は音の声がいつも溢れている。

 

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高槻は物語が進むにしたがって、自分の感情を抑えるのが難しい人物だとわかってくる。しかし、だからと言って高槻に抱かれていた音の行動の意味が、家福につかめるわけではない。家福は音の心を知ることができないことに今も苦しんでいる。分かっているのかいないのか、高槻は車の中で家福にこんなことを言う。

 

「ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです。」

 

そしてある事件が起きる…。

 

とても一筋縄では理解できないくらい、登場人物のこれまでの人生と現在進行形の物語が、緻密に織りなされている。見る人がどのような断面を取り出しても、そのひとつひとつが奥深い。どのような人もそれぞれの思いを託し深く考える契機を与えられる。

 

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暴力を受けていた母親との関係で悔いを抱えるみさき、自分自身を持て余す高槻、そして妻を亡くしたのはもう少し早く帰れなかった自分のせいだと考える家福。それぞれの思いは、それぞれの言葉を契機に静かに動き出す。

 

家福は音に深入りしなかったことを悔い、「僕は正しく傷つくべきだった」とつぶやくのだが、他人に深入りすることは、相手をなにがしか傷つけることでもある。それができない人間はやはり「正しく傷つく」ことが出来ず、ぶすぶすと不完全燃焼の苦しみにのたうち回る。

 

家福の心中は「ワーニャ叔父さん」の台詞と不思議にシンクロしながら、多言語で行われる舞台のラストシーンへと向かう。舞台上ではワーニャ叔父さんに向かってソーニャがこう語るのだ。家福に語るように。それも手話で!圧巻である。

 

「ね、ワーニャ叔父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。」(神西清訳)

 

監督:濱口竜介

脚本:濱口竜介、大江崇允

主演:西島秀俊三浦透子岡田将生霧島れいか、パク・ユリム

日本  2021 / 179分 

映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイト (bitters.co.jp)

 

原作:「女のいない男たち」村上春樹 短編集

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14) | 村上 春樹 |本 | 通販 | Amazon

キネマの神様

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映画があるじゃない     

         ( 娘の歩の言葉)

 

山田洋次89歳の89作目の作品。この映画の原作となる小説を書いた原田マハは、山田監督について、

 

「滋味あふれる人生を描き、人情深い映画の数々を撮ってきた伝説の監督」

 

と語る。果たしてこの映画は?

 

ギャンブルに身をやつし、借金をしては家族に迷惑をかける78歳のゴウ(沢田研二)。離婚して子ども(前田旺志郎)を連れて戻っている49歳の一人娘、歩(寺島しのぶ)と、妻の淑子(宮本信子)との4人暮らし。ある日、借金取りが家にまでやってくるや、歩の怒りが爆発。ゴウからクレジットカードと年金の口座カードを取り上げてしまう。

 

「俺からギャンブルを取ったら何を楽しみに生きていけばいいんだ!」

 

と叫ぶゴウに、娘は

 

「映画があるじゃない」

 

という。かつて映画業界で働いた経験があるゴウは、映画だけは今でも欠かさずに見に行く男なのだ。家を飛び出したゴウは、親友が支配人をしている「テアトル銀幕」という名画座に行き、かつて自分が助監督として携わった映画を見ることになる。

 

出演するのは往年の名女優、桂園子。その瞳に自分が映っているというゴウ。瞳にクローズアップするとそこにはかつて、映画制作に打ち込んだゴウの若き日の姿があった。映画はここから、若き日のゴウ(菅田将暉)と、現在のゴウが交互に語られることになる。

 

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若き日のゴウは情熱にあふれ、先輩監督を乗り越えて自分なりの映画を創造しようと格闘していた。試写室で映写係をしていた親友のテラシンと、撮影所近くの料理屋の娘、淑子との三角関係を中心に、清水宏がモデルだという出水監督(リリーフランキー)、原節子をモデルにした桂園子(北川景子)などとの交流が、ある懐かしさを伴って描かれる。

 

テラシンとゴウの、映画をめぐる会話が面白い。助監督としてついている出水監督の映画をこう評するのだ。

 

「凡庸なアングル、つまらない芝居の役者、しかし出来上がってみると面白い」

 

テラシンは、

 

「そこが映画の面白いところだ」

 

と言ってさらに、こう言うのだ。

 

「カットとカットの間に神様が宿るんだ」

 

ゴウには、温めていたあるアイデアがあった。それを語ると、テラシンや淑子たちは絶賛、ゴウの才能に惜しみない拍手を送る。そしてゴウはそのアイデアを脚本にし、ついに監督としてデビューすることになるが…。

 

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山田洋次が新聞のインタビューで面白いことを言っていた。この映画でもゴウに託して描かれるが、自分が考えることを先輩カメラマンがことごとく否定する。山田監督は、畜生!と思いながら先輩に従ったのだが、仕上がってみると、

 

「ギョッとするくらい僕の映画になっていたんです。カメラマンに言われるままに撮っちゃったのが自分では不満だったんだけどね。映画というのは、僕が想像したのとは全然違うものなんだということがその時に分かりました」(朝日新聞 8.13)

 

しかしゴウは山田洋次とは違う道を辿る。初監督経験であっさり映画製作をあきらめ、田舎に帰ってしまうのだ。みなに絶賛されたゴウのアイデアは、本人も語るように単なる思いつきにすぎなくて、全く凡庸なアイデアだったのだろうか。

 

そして50年。淑子とのごく普通の夫婦生活(浮気問題はあったようだが)の果てに今がある。いったいどんな仕事をして、どんな生活を送ってきたのだろうか。田舎に帰るといっていたのにどうして東京にいるのだろう。今のゴウを見ると、妻の淑子の50年の苦労は並大抵のものではなかったろう。だから娘の歩は、何があっても夫を許すこの母を責め続ける。

 

しかしこの映画は、そうしたごく凡庸な人生こそがすばらしく価値あるものなのだと語っている。言ってみれば菅田将暉から沢田研二、あるいは永野芽郁から宮本信子に至るまでの、描かれない50年という時間に価値があり、その時間を想像させるためにこの映画のすべてのカットがある。そのカットとカットの間にある(と言っていい)人生の時間にこそ神が宿るのだ。

 

最後に、ゴウが若い時に思いついたアイデアをめぐって、映画の神様がくれる奇跡が起きる。だが、奇跡など起きなくてもよい。そこに映画があれば。

 

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監督:山田洋次
主演:沢田研二菅田将暉寺島しのぶ宮本信子北川景子
日本  2021 / 125分 

映画『キネマの神様』公式サイト|大ヒット上映中 (shochiku.co.jp)

 


・・・と、ここまで書いて、原作の小説を読んだ。まったく違う物語だった。こちらは映画製作の人たちではなく、映画を受け取る人たちの話。だから何より「キネマの神様」の宿る場所が違う。ゴウは「ニュー・シネマ・パラダイス」を見て、自分の日誌にこう書きつける。

 

「ああ、おれはほんとに映画が好きだ。映画が好きで、映画を観続ける人生でよかった」

 

映画好きの人なら、この小説を読んで映画を観続けることに大きな勇気をもらえる。まあ映画を観るのに勇気とか必要ないですが、それでも。

 

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キネマの神様 (文春文庫) | 原田 マハ |本 | 通販 | Amazon

 

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👆こちらは原作者が映画をノベライズしたという珍しいもの

キネマの神様 ディレクターズ・カット | 原田 マハ |本 | 通販 | Amazon