映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

セッション  

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監督・脚本:デイミアン・チャゼル

主演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ

アメリカ/107分

原題「WHIPLASH」2014

 

アメリカの名門音楽大学。有名教師があるドラム奏者の学生に目をつけ、徹底的にシゴキあげる―。こう書くとそれがどうしたという話だが、シゴキ方が少し常軌を逸している。リズムを教えるために頬を何度も平手打ちにし、怒ると楽器を放り投げ、離婚したという学生の両親を罵倒しまくる。よく我慢するなと思うが、学生は学生で野心があり、名を残すような演奏家を夢見て歯を食いしばるのだ。

 

見ていてだんだん嫌気がさしてくるが、それでも芸術を生み出す過程はこれくらいの厳しさは自然なのかも、という根拠のない感慨でことの成り行きを見つめてしまう。目が離せないのは教師役のJ・K・シモンズの顔だ。全編通してみると、この表情こそが芸術なので、あとはもうどうでもいいという感じすらある。

 

フレッチャーというこの教師にはひとつの確信がある。「屈辱こそが芸術家を生む」というものだ。モダンジャズの神様チャーリー・パーカーは、10代のころあるジャム・セッションで下手な演奏をさらし、ジョー・ジョーンズにシンバルを投げられ、笑われてステージを降りた。この屈辱が彼を変え、伝説のミュージシャンが生まれた。フレッチャーは繰り返しこの話をする。そして生徒に屈辱を与えることこそが教師の役割だと割り切るのだ。彼は言う。「もっとも忌むべき言葉は“グッジョブ”(よくやった)だ」と。

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果たして本当にそうなのだろうか?芸術家を生むためのそれが最上の方法なのだろうか?この問いがこの映画の全編を流れる。監督のデイミアン・チャゼルは30歳の新鋭で、脚本も手がけているが、彼自身の高校時代の経験をもとに作り上げたという。インタビューでチャゼル監督はこう語っている。

 

「我々がその後何十年も楽しむことができるというだけで、芸術のためにパーカーが耐えた苦しみのすべては、それだけの価値があったのか?」

 

人間は元来弱い、と思う。自ら進んで歯を食いしばる努力ができる人間は多くない。だからこうした鬼コーチが恐怖と屈辱によって極限までの努力を引き出す。屈辱は確かに人間を何かに駆り立てる。そして極限の努力は凡人を才人に変える力がある。

 

しかし、と思う。それは凡人に有効な手段なのでは? 才能ある芸術家は本当は屈辱など必要としないのでは? 嫌でもその才能が自らのうちに勝手に火をつけ燃え上がる、それが真の芸術家なのでは? だからフレッチャーの唱えるパーカーの屈辱は、きっかけの一つに過ぎないのでは? 

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屈辱による心の火が、まっとうな努力に向かえばいい。しかしその火は知らないうちに巨大な炎となって身内を駆け巡る。誰にも制御できない炎がやがて自分自身を焼き始める。教師フレッチャーは火をつけることはできるがその炎をコントロールすることができない。興味もない。そこで悲劇が起こる…。

 

学生はどんな名演奏をしようと、屈辱によってしか自らの炎を生み出せない奇怪なモンスターに見える。彼の地獄は決して終わることがない。芸術の火を「屈辱」という薪でくべ続ける限り。そしてその地獄に果たして「どれだけの価値があるのか」? この映画はそう問うている。

 

公式サイト

http://session.gaga.ne.jp/