あん
桜の花びらが舞う並木の通りを少し入ると、そこに小さなどら焼き屋がある。客はそれほどありそうもない。花びらが入っていたと、なじみの中学生たちになじられる様な、頼りない中年男が店主だ。ある時76歳だという老婆が、バイト募集の張り紙を見てやってくる。一度は断るものの、老婆が持参した「あん」を食べて驚く。店主がこれまで食べたこともないような味だったのだ。
老婆の徳江が作る「あん」は評判を呼び、やがて行列ができるほどの人気になる。徳江のあんづくりは独特のこだわりがある。まず小豆を炊く工程の一つ一つにとても丁寧に時間をかける。そして小豆に声をかけるのだ。「頑張んなさいよ」と。のちに徳江は店主の千太郎にあてた手紙にこう書く。
「あんを炊いているときのわたしはいつも、小豆の言葉に、耳をすましていました。それは、小豆が見てきた雨の日や晴れの日を、想像することです。どんな風に吹かれて小豆がここまでやってきたのか、旅の話を聞いてあげること。そう、聞くんです。」
しかしやがて、指の曲がった徳江はハンセン病ではないかといううわさが流れ、客足が急に途絶えてしまう。徳江は店に顔を出さなくなるが…。
監督は河瀬直美。原作はドリアン助川の小説「あん」。小説の着想は20年も前のことだったという。実は映画を見る前に小説を読んだ。ハンセン病患者の生きる意味を問うこの作品の、原初の問いについてドリアン助川はこう書いている。
「重い障碍があり、寝たきりの人。歩けるようになる前に亡くなってしまった乳児。社会の役に立つことが人の存在価値になるなら、そうした命には生まれてきた意味がなかったのだろうか?」
私はかつて重い障碍を持つ子供たちと身近に接する機会があり、彼らの生きる意味について考えあぐねていたことがある。そんな時、ある施設の職員から半ば叱責するようにこう言われた。「意味なんて考える必要はない。彼らもあなたが意味を考えることなど望んでいない」と。目からうろこが落ちる思いだった。意味などなくても良い。生きているそのことを無条件に祝福すること、命とはそういうものだということ。…だがしかし、というかすかな思いは胸に残った。人はこの世に存在する意味を考えずにはいられない生き物なのだ。そしておそらく意味はあるはずなのだ、と。ドリアン助川は長い間その問いに真摯に向き合い、この小説の中である答えを提示した。
「世の中には、生まれてたった二年ぐらいでその生命を終えてしまう子供もいます。そうするとみんな哀しみのなかで、その子が生まれた意味はなんだったのだろうと考えます。今の私にはわかります。それはきっと、その子なりの感じ方で空や風や言葉をとらえるためです。その子が感じた世界は、そこに生まれる。だから、その子にもちゃんと生まれてきた意味があったのです。」(徳江の手紙)
「命」は生まれ落ちた瞬間に世界との交感が始まる。その「命」がある世界と無い世界ではまったく違う世界なのだ。小豆の声を聴きながら作るあんが徳江なしに出来ないように。もちろん、あんは比喩であり本当はあんなど出来なくてもよい。世界を感じ取ることさえできれば、世界は変わる。
徳江は小豆の声を聴き、木々の声を聴き、月の声を聴く。そして徳江なりの感じ方で空や風や言葉をとらえる。そうすることで徳江の感じた世界が新たにそこに生まれる。
映画のなかで、徳江はこう語る。
「ねえ、店長さん。わたしたちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくてもわたしたちは、わたしたちには、生きる意味が、あるのよ。」
小説では最後になぜ徳江が「どら春」に声をかけたかが明かされる。それは店主千太郎の「目がとても悲しそうだったから」だという。服役中に母を亡くすなど、持ちきれない後悔を抱えた千太郎。しかし彼の徳江に対する自然な態度は、意味のあるなしを通り越して胸を打つ。でき得ればこのように、世界と人に接したいと思う。
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