もし君がどこかに去っても
人生はつづくかもね。でもそれでは、
この世界が僕に示せるものなど何ひとつない。
そんな人生に、なんの値打ちがあるだろう。
(「神さましか知らない」村上春樹訳)
今では伝説となったと言われるザ・ビーチ・ボーイズのアルバム『ぺット・サウンズ』。その中の「神さましか知らない」について村上春樹は、「僕としてはいっそ『完璧な音楽』と断言してしまいたい」と書いている。そのエッセイ(「村上ソングス」)を読んで「いったいどんな音楽なんだろう」と興味をそそられたものだ。何しろ『完璧な音楽』というのだから。
果たして、音楽に無知な人間にはよくわからなかった。ただ村上春樹の愛情に満ちたエッセイは読んでいて気持ちよく、むしろそれだけで満足だった。
「細かく目を配れば配るほど、すべては驚くばかりに複雑綿密につくりあげられていることがわかる。これはまさにブライアンの新境地だ。なのに目を閉じて歌をただ無心に聴いていると、『どこまでも人を恋したい』という青春期の熱い想いがそのまま純粋に、切々と僕らの心に伝わってくることになる。」(村上春樹「村上ソングス」)
映画は、まさにその曲を生み出すブライアン・ウィルソンの苦悩が赤裸々に綴られる。それは創造の苦悩というより(無論それもあるが)、周囲の無理解との闘いだった。デビューして4年。それはまったくザ・ビーチ・ボーイズらしからぬ曲だったのだ。周囲の人間は誰しも、これまで成功したやり方を踏襲して欲しいと願っている。しかし、ブライアンはひとり、自分の心の声が納得する音楽だけを求めて喘いでいた。
監督はビル・ポーラッド。「ツリー・オブ・ライフ」や「それでも夜は明ける」のプロデューサーとして著名だが、これが監督デビュー作だという。
「彼があれほど素晴らしい音楽を創造するために、いかなる困難に直面しなければならなかったかを認識するのは、大切なこと。そうすることで、彼の音楽の真価がより一層理解できるんじゃないかな。それに、ブライアンのように困難に立ち向かっている人々のためにも、こうしたストーリーを語ることは重要だと思う。」(ビル監督のインタビュー)
映画の冒頭 ブライアンがピアノの前でインタビューを受けているような映像が流れる。もちろんそれはポール・ダノ演ずるブライアンなのだが。そこで彼は「自分の頭の中で誰かの声がする」と語る。そして「もし聞こえなくなったら僕はどうなるんだろう」と言うのだ。才能は魔物だという。それを持つ人間を引きずり回し、日常を破壊する。穏やかな人生を送りたいと願う人間にとって、才能は時に強大な敵となって襲い掛かる。ドラッグの常用と精神的なストレスで、ブライアンはやがて自分自身を破壊してゆくことになる…。
それから20年あまり。ブライアンは強圧的な精神科医のもとですべてをコントロールされながら暮らしている。ある時、自動車販売店に勤める女性メリンダと知り合って恋に落ちるが、洗脳された彼の心は自由に生きることに怖気づいてしまう…。
物語は若き日の曲作りに苦悩する60年代のブライアンと、メリンダと知り合ってからの80年代のブライアンが俳優を替え交互に語られる。役者も時代も違うのに不思議と違和感はない。メリンダと出会った後、ブライアンの一度破壊された人生の鼓動が甦り、音を奏ではじめるのが分かる。
ブライアンがそうであったように、誰の人生にも「つづき」はある、この映画は励ましをこめてそう語っている。村上春樹はエッセイの終わりにこう書いている。
「もし君がどこかに去っても、人生はつづくかもね。
そう、人生はつづくのだ。この曲の本当の切なさと美しさは、そこにあるのかもしれない。」
監督:ビル・ポーラッド
音楽:アッティカス・ロス
主演:ジョン・キューザック、ポール・ダノ 2015/122分
公式サイト
http://www.loveandmercy-movie.jp/