サウルの息子
焦点のボケた映像の中から一人の男が近づいてくる。カメラの前で立ち止まった男の顔に焦点が合い、以降カメラはその男の顔を執拗に写し出す。1944年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。男はゾンダーコマンドと呼ばれ、雑役に従事させられた収容者だ。数ヶ月延命出来るがやがて抹殺される。男はガス室に同胞を送り込み、その後死体を処理し、血と汚物にまみれた床を掃除する。ただ黙々と。
カメラはこの男、サウルから離れることがない。だから彼の周囲で起こることしか分からない。それどころかその周囲で起こることもクリアに写し出されることはない。この方法はサウルの意識の有り様をよく表している。周囲で起こることがクリアに見えてきたら、とてもまともではいられない。
ある時、まだ息のある少年が見つかる。すぐに殺されてしまうのだが、サウルは自分の息子だと信じ、ユダヤ教の教義にのっとって埋葬してやろうと決意する。その頃、彼の周囲では武装蜂起の計画がささやかれていた…。
監督はハンガリーのネメシュ・ラースロー。これが初の長編。5年の歳月をかけたこの作品でカンヌのグランプリを獲得した。
「このような暗い物語の中にも、私は大きな希望が存在すると信じる。倫理観、価値観、宗教が完全に失われても、自分の内の微かな声に耳を傾けた人間は、一見空虚で無意味な行為をなしとげることで、モラルを再発見し、生きのびる術を見つけ出すことが出来るのだ、と。」
サウルは地獄の環境のなかで人間性を保つために、何か人間的な目標を持ち、遮二無二行動せずにいられなかったのだ。
人間性とはなんだろう。人間性を失った人間も人間なのだろうか。人間性を失うほどに何かを失うのを怖れる心は、逆に人間的なのだろうか。それが人間か。一昨年伝記映画が公開された哲学者のハンナ・アーレントは、自分で考えることをせず非人間的な作業を効率よくこなし続けたナチスの高官について、「悪の凡庸さ」と言った。凡庸さは人間的ではないのだろうか。人間は非人間的なものを抱えるものなのか。
やがて周囲の人間も、彼の思いの中に、かすかな希望の芽を感じとっているのがわかる。ひとはやはり人間性を失った世界では生きて行けないのだ。暴動に乗じて彼は逃げる。私はただの観客なのに、収容所の周囲に広がる自然が懐かしく感じられる。人間が作った非人間的なものから遠く離れたいと切に思う。やがてすべてが終わったとき、静かな雨の音がする。おそらくは太古の昔から変わらない音だ。
監督:ネメシュ・ラースロー
脚本:クララ・ロワイエ、ネメシュ・ラースロー
主演:ルーリグ・ゲーザ
原題「Saul Fia」
ハンガリー映画 2015 / 107分
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