不機嫌な顔をした若い女性が大写しになる。画面に見えないところから若い男が話しかける。「居ないだろうワニなんて」。女性はワニがいないか運河を見下ろしているらしい。行きたいところないの?と男が聞く。女がイライラして答える。
「ここじゃない世界」
高校三年生の果子(かこ・二階堂ふみ)の夏休み。家は豆料理を出す居酒屋で、女たちはいつも豆の皮をむいている。果子の母親、祖母、母親の従姉、その娘の小学生カナ。果子は皮むきを手伝いながら、いつも不機嫌である。
ある時、16年前に死んだと言われていた果子の母親の妹(小泉今日子)がひょっこり現れる。果子はますます不機嫌になるのだが…。
ある時、果子が小学生のカナと部屋の中で話している。
(果子)「面白さなんて期待するのが間違いでだいたい同じことの繰り返しのなかで感覚を麻痺させていくのよきっと」
(カナ)「何いってんのか分かんない」
(果子)「人生なんてそんなもんてこと」
・・・
(果子)「ずっと想像の範囲内のことしか起きないんだったらさ、別に実際経験する必要ないよね。」
不機嫌な人間は苦手だ。不機嫌は伝染する。近づくとこちらまで不機嫌になってしまう。不機嫌の原因を探って気分を良くしてあげようなんて親切心も、さらさらない。だからなるべく近づかないようにしている。あえて近づくとこういう心象風景が広がっているのか、と思う。
果子のイライラの原因は、とにかく未来が見えていると思っていることにあるようだ。人間の陥る誤解の一つは、現在が現在のままずっと続いてゆく、と感じることだと思う。同じようなことが延々と続く。それが嫌な人はイライラするのだろうが、現実は現在(分かった世界)がずっと続くわけじゃない。だからイライラする必要なんてないんだよ、と言いたいが、未来のことは結局誰にもわからないもんだから、そう思い込んでいるならまあいいやということになる。
監督は劇作家・小説家の前田司郎。長編映画は2作目である。
「僕たちには『時間は川のように上から下へと流れていて不可逆なものだ』という認識があると思います。でも個人の記憶の中では(…)過去と未来の区別がそんなきれいに付いていない気がするんです。(…)未来子と果子、そしてカナの3人は、同じ人物の45歳、18歳、10歳の断層で、ふつうは決して交わりません。でもそれを地層の断面図みたいに縦に並べてみたかった。」
果子の伯母未来子はかつて爆弾を作っていた。29歳の時、北海道で爆破事件を起こし死亡。果子にとって、過去からやってきた自分の未来がこの人、ということになる。ややこしい。
「伯母さん、なんで死んだの?」
「多分あんたと同じよ」
「何が?」
「あたしもつまらなかったの」
「そんな理由だけで全部捨てたの」
「そうね、ただ死にたかったのかも」
「死んでどうだった?」
「…生き返ったみたいだった」
未来が見えるという果子に、伯母の未来子が言う。
「あんたの見てる未来ね、それただの過去よ。」
そして付け加える。
「…見えるものなんて見てもしょうがないでしょう。」
理屈臭いが、セリフのやり取りがテンポ良くて笑える。笑っているうちに現実の層が少しずれて、自分を取り巻く環境も見かた次第なんだと思えてくる快感がある。面白い映画である。
監督・脚本:前田司郎
日本映画 2016 / 120分
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