映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

サーミの血

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妹の葬儀に出席を拒む老婆。息子に促されてしぶしぶ出かけるが、故郷に宿泊することはかたくなに拒む。老婆の名前はクリスティーナ。しかし、本名ではない。名前を捨て、故郷を捨てたのだ。老婆は、窓越しに見えるなだらかな丘陵を見つめながら過去を回想する。

 

1930年代のスウェーデン。トナカイを放牧して暮らす先住民族サーミのエレ・マリャは、妹と寄宿学校に入るため故郷を後にする。そこではサーミ語が禁じられ、スウェーデン語が強制されていた。周辺の人々も彼らに対する差別意識を隠さない。人類学者が研究という名目で学校を訪れ、まるで野生動物の生態を観察するように、屈辱的な格好をさせる。

 

学校で優秀な成績のエレ・マリャは、将来教師になりたいと打ち明ける、しかし女教師は

 

「あなたたちの脳は文明に適応できない」

 

と冷たく告げる。自分の出自に嫌気がさすエレ・マリャ。なぜスウェーデン人でなくサーミ人なのか。ある時、民族衣装を捨て近所のパーティーにもぐりこむ。そこで都会から来た青年と知り合い、その青年を頼って寄宿舎を出ようとするのだが…。                    

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監督はアマンダ・シェーネル。スウェーデン人の母親とサーミ人父親の間に生まれた。長編は初めてだが、短編ではいくつもの賞を受賞している。

  

「多くのサーミ人が何もかも捨てスウェーデン人になったが、私は彼らが本当の人生を送ることが出来たのだろうかと常々疑問に思っていました。この映画は、故郷を離れた者、留まった者への愛情を少女エレ・マリャの視点から描いた作品です。」

 

エレ・マリャは、監督にとってみれば祖母の世代にあたる。あの時代、自らのアイデンティティを捨てた人生は果たして幸福だったのか。ただ、周りの人間が否定し続ける自我を持ち続けることなど、果たして出来るものだろうか。同じ寄宿学校に行った妹は、スウェーデンかぶれしてサーミを見下し始めた姉が許せない。

 

「あなたは自分のことしか考えない。」

 

しかしあふれる程の自尊心があるエレ・マリャは、妹も寄宿舎も捨て都会に出てクリスティーナとなる。

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今、福祉国家として名高いスウェーデンは、どのようにして少数民族抑圧のこういった過去を克服したのだろうか。パンフレットにコメントを寄せた明治大学鈴木賢志教授の言葉は、その秘密の一端を告げているように思えた。

 

スウェーデンを理想の国と思っている人には、ぜひこの映画を見てほしい。ただしそれはこの国が実際には理想郷とはほど遠いことを知ってほしいからではない。このような、いわば『自国の闇』に正面から向き合う映画を作る人々がおり、それを正当に評価する人々がいることが、スウェーデンの本当の良さだからである。」

                                 

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映画の終盤で老婆エレ・マリャは再び、妹の葬儀場を訪れ、棺桶の蓋を静かに外す。民族衣装を着た妹が安らかに横たわっている。妹の顔に自らの顔を近づけ、ささやく。

 

「許して」

 

一体何について許しを乞うのか。映画は多くを語らない。しかしこのささやきがエレ・マリャの、これまでの人生への違和を感じさせて深い感慨を誘う。

 

監督・脚本:アマンダ・シェーネル
音楽:クリスチャン・エイドネス・アナスン
主演:レーネ=セシリア・スパルロク、マイ=ドリス・リンピ
スウェーデンノルウェーデンマーク 2016/ 108分

公式サイト

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