女性のいきむ声。助産婦の励ます声。生まれたばかりの赤ちゃんを取り出し、白く濡れた小さな体を母親の手のひらに渡す。赤ちゃんのかすかな泣き声。母親の静かなほほ笑み。人が誕生するために発するいくつもの声が生の温かみを伝える。
フランスのとある田舎町。助産婦は49歳のクレール。毎日のように出産に立ち会うベテランだ。ある夜勤明け、一本の留守番電話が入っていることに気付く。声の主は30年前、自分と父親をのもとから逃げた継母だった。
戸惑いながらもパリまで会いに行くクレール。なぜ今、連絡を取ってきたのか。再会した継母のベアトリスはすでに老い、自分は末期がんだと語る。人生で本当に愛した男はあなたの父親だけだ。だから会いたいのだ、と。しかし父親はベアトリスが逃げた後、そのことが原因で自死してしまっていた。
恨みを抱いて生きてきたクレールはベアトリスに「なぜ」と聞く。なぜ、あの時私たちを置いていったのか、と。ベアトリスは答える。
「人は誰でも失敗するわ。あなたはどうなの。あの人は地方で水泳教室の先生になりそうだった。つまらない男だと思ったわ。それが罪なの?」
監督は「ヴィオレット ある作家の肖像」のマルタン・プロヴォ。ベアトリスを演じるのはカトリーヌ・ドヌーヴ。
「ベアトリスは大人の女性だけど、同時に子どもなのさ。愛らしくてチャーミングで楽しい人だけど、人に無関心な分、残酷だ。彼女は人生の終盤でようやく、自分のせいで、独りぼっちになってしまった事に気付くんだ。」(プロヴォ監督)
自由に生きてきたベアトリスは、相手が誰であろうと自分の在り方を変えることが出来ない。というより、病にあってなお自由であり続けるためにクレールを必要とした。そしてクレールは、戸惑いながらも継母を拒絶することが出来ない。
「自由とはベアトリスが考えているようなものじゃない。制限やルールがないところには存在しないんだ。ベアトリスを襲う病は、彼女の生き方や考え方を根本から覆してゆく。彼女が考える“自由”は常に逃避とセットだったけれど、突然それができなくなった時、彼女はクレールという存在が必要になるんだ。」
ベアトリスの自由はクレールにとってはた迷惑(不自由)なのだが、面白いのは、はた迷惑を拒絶できない関係が、クレール自身の在り方を少し変えてしまうことだ。恋に仕事に前向きな一歩を踏み出すのだ。不自由が自分の世界を変えることもある。
父親が亡くなってから車庫にしまい込んでいたスライド写真。クレールは長く捨て置かれた思い出の品を取り出して、ベアトリスと見ることにする。
部屋の壁にかつて父親が生きていた姿が映し出される。写真というのはある種恐ろしい力を持っている。過去を呼び覚ますから恐ろしいのではなく、映し出された時点から今へと続く時間の長さを思い知らされるから恐ろしいのだ。
映画は、不意にクレールの息子シモンが、映し出された写真のすぐ横に現れることによってそのことを見事にあぶりだす。瓜二つの人間がそこにいることが、失われた過去への絶望と、同時に未来への希望を映し出す。ベアトリスは思わずシモンに口づけする。
父親の遺骨はセーヌ川に流した、という。クレールはセーヌ川のほとりに家庭菜園を持っている。そして息子シモンはこの川で泳ぐ。ある日クレールはベアトリスをこの菜園に案内するのだが、川のほとりに立った彼女が見つけたのは沈みかけたボートだった。
そのボートは何を意味するのか。長く見つめるベアトリス。川は時を流す。映画で繰り返される出産シーンが脳裏をよぎる。ベアトリスの言葉が胸を打つ。
「あなたの人生も私の人生も そう悪いもんじゃないわ」
監督・脚本:マルタン・プロヴォ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、カトリーヌ・フロ
フランス 2017 / 117分
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