映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

アマンダと僕

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学校が終わっても迎えのおじさんがいない。アマンダは学校の出口で立ち尽くしているが、先生に促されて教室に戻る。おじさんの“僕”はアパート管理の仕事で遅刻したのだ。帰ると姉でアマンダの母親はカンカン。“僕”ダヴィッドはことの重要性に気づく様子もない。

 

母親のサンドリーヌは英語の先生だ。アマンダととても仲がいい。アマンダが、「エルヴィスは建物を出た、って何のこと?」と聞くと丁寧に教えてくれる。コンサートが終わっても帰らない観客にアナウンスした言い方が有名になって、

 

「望みなし、もうおしまいっていう意味よ」

 

そしてエルヴィスの曲をかけ、二人で笑いながら踊り始める。ここはパリである。

 

ある日、ダヴィッドはサンドリーヌと公園で待ち合わせるが、遅れて公園に着くと、そこにいるほとんどの人が血の海に倒れていた。銃の乱射テロだ。サンドリーヌも巻き込まれて亡くなってしまう。呆然とするダヴィッドは、アマンダが一人で寝ているアパートに向かうが…。                                      

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監督はミカエル・アース。これが長編3作目だという。

「私はこの映画を作るにあたって、自分が住んでいる今のパリを描きたいと思いました。パリは、いまテロの経験を経た状況にあります。この映画は、テロの事件に社会的・政治的意味を込めたわけではなく、あくまで一個人のレベルで、突然肉親を失った子の周辺で起こった背景として描いています。」

 

静かに笑い、静かに怒る。泣くときには傍目を気にせずさめざめと泣く。ダヴィッドはそう言う男だ。アマンダも同じ。静かに強く望むことを言うだけだ。静かすぎるような二人だが、アマンダの面倒を見るのかどうするのか、悩む日々が続く。自分の気持ちの整理もできないのに子育てなんて。何よりダヴィッドは幼いころ、母親が自分たち姉弟を捨てて出ていった過去を持っていた。

 

児童養護施設を見学したり、遺された子どもに対する好奇のまなざしに出会ったり。叔母からは、自分たちを捨てた母親が、子どもを気遣って何度も連絡を取ってきたということを知る。アマンダとの日々をたんたんと生きながら、次第に気持ちが変化してゆくダヴィッド。

 

「私は、哀しみの殻に閉じ込められた人々ではなく、感情に動かされる人々を描きたいのです。喪失の中にいる人は様々な感情を経験します。私はその複雑さ、内に秘めた大きな哀しみと小さな哀しみ、大きな幸せと小さな幸せの間の振り子を、しっかりと表現したいと思いました。」(ミカエル・アース監督)

 

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映画の終盤、母親が暮らすイギリスをアマンダと二人で訪れる。姉のサンドリーヌが亡くなる前、3人でウィンブルドンの試合を見に行く計画を立てていたのだ。試合を見ながらアマンダは「エルヴィスは建物を出た」と何度もつぶやく。ダヴィッドには意味が分からないが、応援している選手が負けそうなのだ。そして大粒の涙をこぼす。

 

「エルヴィスは建物を出た、もうおしまいよ」

 

見ている私たちはその時に気づく。母親がいなくなってからアマンダは、この言葉を心の中で何度繰り返しただろう、と。ほとんど感情を表わすことなく。試合の結果がどうあれ、そのことに胸が痛んで仕方がなかった。

 

監督・脚本:ミカエル・アース
主演:ヴァンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ、オフェリア・コルブ
フランス  2018 / 107分

公式サイト

http://www.bitters.co.jp/amanda/