顔面にピエロの化粧を施す男のアップ。口角を両手の指で無理矢理のようにあげて見せるが、なぜか零れ落ちる涙が青い塗料に混じる。
アーサー・フレックは心の病を抱えながらスタンダップコメディアンを目指している。ピエロの変装は街頭の呼び込みや、病院の慰問のアルバイトだ。しかし何もかもがうまくいかない。街頭に出れば不良少年たちに看板を壊される。病院ではひょんな失敗からクビになってしまう。生きがいの一つだったのに。
家ではやはり心の病を抱えた年老いた母親がいて、日夜介護しなければならない。さらに何の理由もないのに笑ってしまうトゥレット症候群を患っている。何の理由もなく笑う人間を人は不気味に思い、時に腹を立てたりする。だからいつも「笑うのは病気です」というカードを持ち歩いている。
カウンセラーの前でアーサーはつぶやく。
「前から思っている。自分は本当に存在しているのかなって」
ここには社会に適応できない人間の恐ろしくリアルな肉声がある。しかしカウンセラーは彼の話を聞いていない。予算削減でカウンセリングも投薬もできなくなったと告げるだけだ。
ある時、アーサーは母親の手紙を盗み見て、自分は今を時めく市長の子供である可能性に気づく。そして自分たち母子の窮状を何とかしたいと市長宅に出かけるのだが…。
まがまがしい映画である。この作品はバットマンに出てくる悪役キャラクター、ジョーカーが誕生するまでの物語。監督はトッド・フィリップス。
「…僕たちは(アーサーという)男をリアルで愛すべき人間として描きました。だから皆さんには、彼の味方でいてもらえればと思います。これ以上は無理だというところまで。映画が始まる時点では、彼は有名な犯罪者ではなく、アスファルトに咲いた小さな花。その花にあなたは水をあげるのか、光を当ててあげるのか、それとも無視するのか。どのくらいの間、その花を好きでいられるのか。」
ピエロをクビになった夜、地下鉄で酔っ払ったエリートサラリーマンたちに絡まれたアーサーは、持っていたピストルで彼らを射殺してしまう。だが、ピエロの変装が幸いして身元は判別せず、エリートたちが殺されたことで社会の不満分子たちが喝さいを叫び、アーサーはだれとも知れないヒーローに祭り上げられてゆく。
アーサーの感情の流れに圧倒的なリアリティがある。このままジョーカーになる道を選び続けるんだなと思う。しかし、例えばあえてこう問いかけてみる。
まがまがしい状況に置かれた人間がまがまがしい人間になっていく物語は果たして本当にリアルなのか。
誰かを射殺してしまい悪の階段を駆け上がる代わりに、すぐにつかまって死刑囚として刑務所の中で善人として意味もなく笑いながら生き続けることがリアルなのでは。
ジョーカーになるという結論のもつフィクショナルな明るさが、物語の本当の恐ろしさを回避してしまっているのではないか。
ただこういう可能性はある。後半、彼にとってあってほしいと感じるシーンはすべて幻覚であることがわかる。だとするとまがまがしく変心してゆく彼が起こすさまざまな事件は彼にとってはあってほしい幻覚かもしれない。彼はジョーカーになんかならない。そして真にリアルな第2幕が始まる…。
アーサーの市長訪問は、やがて自分自身の幼いころの恐ろしい秘密にたどり着く。そして入院して眠る母親の前でつぶやくのだ。
「人生は今まで悲劇と思っていたが、喜劇だって気づいたよ」
人間は生まれつき善なのか悪なのか。どのように環境が影響するのか。堂々巡りの問いがまた思い出される。アーサーを怪演したホアキン・フェニックスはこう語っている。
「僕たちは『人生に簡単な答えはない』ということをコミックス映画で描きたいと思いました。…僕らの人生には、道徳観や倫理観が問われる瞬間がいくつもあって、その時は自分の信念を守ることで成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。そういうことは絶えず経験していかないといけません。」
監督・共同脚本:トッド・フィリップス
主演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ
アメリカ 2019/ 122分
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