山間の湖のほとりに古びた小さな旅館がある。すでに営業が終わっている。都会へ出ていくことになった澪(みお)に、祖母がある詩集を手渡す。山村暮鳥の『梢の巣にて』。その中の詩の一説。
自分は光をにぎっている
いまもいまとてにぎっている
而(しか)もをりをりは考へる
此の掌(てのひら)をあけてみたら
からっぽではあるまいか
・・・
列車で東京に出た澪は、父の友人を訪ねるが、そこは一軒の古い銭湯だった。澪は居候しながらスーパーで働くことになる。しかし自分の考えを言葉にするのが苦手な澪は、客の質問やクレームにうまく答えることができない。ずっと年下のアルバイトが見かねて、いつも対応を代わってくれる。しかし帰り道でその女子高生に言われてしまう。
「なんでも察してくれると思わないでくださいね」
無口な人は、言葉を口にすることに含羞がある。それは、既存の言葉と自分の感情の乖離に違和を覚える繊細な感受性のためでもあり、自分の考えを知られたくないという自尊感情のためでもある。知り合った年上の女性にはこうも言われるのだ。
「澪ちゃんはさ、話せないんじゃなくて話さないんだよ。そうすることで自分を守ってる」
だがお客さんの対応はそれとは別次元の話、と思ったら、澪はすぐにスーパーの仕事を辞めてしまった。そして居候をしている銭湯の仕事を手伝い始める。この仕事はそれほど話さなくてよい。ところがこの町にも再開発の波が押し寄せ…。
監督は中川龍太郎。
「『10年後には存在しないかもしれない場所や人々の姿を残したい』ということを念頭に置いたとき、まさに今失われつつある葛飾区立石をメインの舞台に撮ろうと決めました。戦後の長い時間、綿々と紡がれてきた景色が再開発で無くなる前に撮りたかったのです。」
銭湯の常連である同世代の銀次は、古い映画館で住み込みのバイトをしながら自主映画を撮影している。この古い町並みとそこに生きる人々を記録に残そうとしているのだ。しかし、彼の撮った映画はだれも認めてくれない。
何かが失われてゆくのに、何も手を出すことができない。失われてゆくのが言葉にできないものだからかもしれない。人はこんな時、無口になってしまうのだ。澪はふろ場を掃除する。日の光を受けた湯を思わず手のひらにすくい取る。
詩の続き…。
からつぽであつたらどうしよう
けれど自分はにぎつてゐる
いよいよしつかり握るのだ
あんな烈しい暴風(あらし)の中で
摑んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあつても
銭湯にもいよいよ取り壊しの話が来る。経営が立ち行かず借金をすることも適わない。毎晩のように酔っぱらう主人。澪が語り掛ける言葉が印象的だ。
「最後までやりきりましょう。どう終わるかってたぶん大事だから」
そして澪はあることを思いつく…。
時はすべてのものを少しずつ変えてゆく。変わらないものがもしあったらすくい取ってみるといいのだ。この映画の温かな光ように。詩の最後はこう締めくくられる。
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる
(山村暮鳥「自分は光をにぎってゐる」)
監督・脚本:中川龍太郎
主演:松本穂香、渡辺大知、光石研
日本 2019 / 96分
公式サイト