ロンドン郊外。川が静かに流れている。ひとりの女性が上着のポケットに大きな石を入れ、身を沈めてゆく。1941年、作家ヴァージニア・ウルフは夫への手紙を残して亡くなった。
「今までの私たち以上に幸せな二人は他にいません」
しかし映像は1923年に遡る。ヴァージニア・ウルフが「ダロウェイ夫人」を書き始めた日に。ヴァージニアは目覚めると一日を始めるのに少しばかりの気力がいる。椅子に座り、たばこを咥え、冒頭の一節を記す。
「花は私が買いに行くわ、とダロウェイ夫人は言った。」
2001年、ニューヨーク。小説の主人公と同姓同名のクラリッサ・ダロウェイも、目覚めると一日を始めるのに少しばかりの気力がいる。今日は友人の小説家の受賞記念パーティーをしなければ。クラリッサは同居人のサリーに言う。
「花は私が買いに行くわ」
場面はめまぐるしく変わり1951年、ロサンゼルス。小説「ダロウェイ夫人」を枕元に寝ている主婦、ローラ。目覚めると今日は夫の誕生日だ。息子とケーキを作らなければならない。花は早起きの夫がすでに買っていた。
「花は私が買うべきなのに」
「ダロウェイ夫人」をめぐる3人の女性たちの朝が始まり、時と場所を行き来する物語が幕を開ける。
これは2002年の作品。DVDを借りてみた。2度目のようだが、情けないことに1度目は全く覚えていない。監督は「ものすごくうるさくて、あり得ないほど近い」のスティーヴン・ダルドリー。
「この3つのストーリーがどう絡まっていくのか、3人の関係は何なのかとミステリアスな興味も引きだされるだろう? それをサスペンスたっぷりに描くってことは、映画ならではのドラマチックな表現になると思ったんだよ。難しかったのは、3人のドラマは別々に進行していくのに、彼女たちの感情、映画のエモーションが、最後には同じラインに連なっていなくちゃならないこと。」(2003年 映画.comのインタビュー)
3人の女性はそれぞれに生きづらい何かを抱え、朝を迎える。彼女たちはそれぞれに人生を選択するが、その選択の“余波”がまた別の人生を生きづらくさせる。これは人生の選択とその余波の物語なのだ。
ヴァージニアは精神的な病を抱えながら「ダロウェイ夫人」を書き、ローラはそれを読むことで人生の舵を切り、クラリッサはその遠い波をかぶる。間をつなぐローラは重要な役割を果たしていて、最後にこう語る。
「もし後悔してると言えたらいいのに。きっと簡単よ。後悔してどうなるの?ほかに方法がなかった。重荷を一生負うわ。誰も私を許してはくれない。あの暮らしは死だった。私は生を選んだの」
それぞれの生きづらさは、ほかの二人の人生と並べてみることで、ある普遍性を獲得するようになる。随分と複雑な構成なのに、ほとんど違和感なくまとまって、深い静けさをたたえているのはそのせいかもしれない。
またそれぞれの人生が断片的に見せられるためになお、それぞれが汲みつくせない秘密を蔵しているような気がして深く考え込んでしまう。そういう作品だ。
終盤、年老いたローラは、ある年若い女性と言葉を交わす。その時に浮かべる控えめな笑顔は、自らの選択の余波の先にある、かすかな希望に違いない。
ヴァージニアの最後の手紙にはこう記されている。
「人生に立ち向かい、いかなる時も人生から逃れようとせず、あるがままを見つめ、最後に受け入れ、あるがままを愛し、そして立ち去る」
監督:スティーヴン・ダルドリー
主演:ニコール・キッドマン、メリル・ストリープ、ジュリアン・ムーア
原作:「THE HOURS―めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人」(集英社)マイケル・カニンガム
アメリカ 2002 / 115分