映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

その手に触れるまで

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階段を駆けあげる男の子。トイレに駆け込むと携帯で連絡を取る。

 

「早くしないと遅れてしまう」

 

教室で数学の問題を先生と解く、先ほどの男の子アメッド。放課後の補習授業なのか、そわそわしながらも問題を解く。携帯が鳴る。すぐに出ていこうとするが、先生に途中の問題を最後までやるよう言われ、あわてて答えを言う。

 

放課後は導師との約束があるのだ。ただ、帰り際、アメッドは先生と握手をしようとしない。どうやら宗教的な理由らしい。

 

「大人のムスリムは女性に触らない」

 

しかし、帰宅するとこのことが母親を怒らせる。

 

「恩のある先生に、握手もしないなんて」

 

つい最近までゲームに夢中だった少年は、今や導師の教えがすべてだ。導師は、歌を通じてアラビア語を教えようとする先生を、「背教者」として名指しする。背教者は見つけ次第排除しなければならない。アメッドはナイフを懐に忍ばせ、教室の入口に立つが…。

 

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脚本・監督はジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

「自分たちを『よいイスラム教徒』だと盲信する人たちは穢れのある者、不浄な者を排除していきます。アメッドはまだ『生』に満ちていて、人生を謳歌する年齢です。そんな少年が、宗教のために生か死かで迷っている。彼が、生を、つまり人生を取り戻すことができるか。そして、人はなぜ絶対的な価値観を求めるのか? この作品は、そんな物語です。」ジャン=ピエール・ダルデンヌ CINRAインタビュー記事)

 

犯行は未遂に終わり、アメッドは少年院に入る。が、なおも執拗に先生を排除しようと策を練る。最初は嫌がっていた農場研修に行くことにしたのもそのためだ。そこで手に入れた歯ブラシを隠し持ち、自分の部屋の床を使って先端をとがらせて行く。

 

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純粋であることは若者の特権かもしれない。自らが汚れていないだけに他者の汚れが目についてしようがない。そうした汚れを(汚れと感じたものを)排除することで、自分や社会が汚れないで済むと考える。事実はまったく違う上に、何が汚れかという認識がそもそも間違っているのだが、そう思い込むことができてしまう年齢なのだ。アメッドは13歳である。リュック・ダルデンヌもこう語っている。

 

「兄と一緒にこの映画を作るにあたって考えたのは『不浄なものへの讃歌』にしたいということでした。過激な思想はとにかく純潔に向かいがちですが、実際の人生、現実世界はそれほど純潔なものではありません。いろいろなものが混じり合っています。いろいろな人が出会う場所なのです。混じり合うこと。それこそが人生なのです。」(同上)

 

思い返してみれば、アメッドは女性との握手を避けるし、犬が自分の手を舐めるだけで、気になってしようがない。だが、彼にとっての不浄なものは、相手にとってきれいなものかもしれない。

 

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そんなアメッドに農場主の娘が好意を寄せる。彼女は大胆に彼に手を伸ばす。アメッドがいつもかけているメガネをとってこう言うのだ。

 

「メガネなしで私を見て・・・私は夢の中みたいにぼやけているのが好きよ」

 

それは一瞬にしか過ぎない。しかし、メガネをはずして見た娘は、アメッドにどのように映ったか。そこに、自分が思い込む現実と違うものが見えていたら…。何か救いのように美しいシーンである。

 

脚本・監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
主演:イディル・ベン・アディ、ミリエム・アケディウ、オリヴィエ・ボノー
原題:LE JEUNE AHMED
ベルギー・フランス  2019 / 84分

公式サイト

http://www.bitters.co.jp/sonoteni/


ダルデンヌ兄弟の映画について、過去の記事あります。ご覧いただければ幸いです。

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