映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

望み

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高校のグラウンド。サッカーの試合が行われている。ゴールを狙う選手が倒れる。駆け寄るクラスメイト。画面は上空に切り替わる。埼玉県のある町が映され、やがてゆっくりと下降し、ある瀟洒な家のあたりを漂う。そこに挟み込まれる幸せな家族の写真―。

 

建築家の石川一登は、一男一女の4人家族。高校生の長男と中学生の長女。長男は何かと父親に反抗的な様子。会話からサッカーでケガした選手だとわかる。ある時、長男が夜中に出掛けたまま朝になっても帰ってこない。翌日のテレビで、遺体となった10代の男性が入った車が発見されるというニュースが流れる。

 

死体は息子?しかし車から二人の男性が逃げたとの目撃情報があり、息子はもしかすると加害者かもしれない。さらにもう一人、行方不明の男性がいるとの情報が。

 

母親は加害者であっても息子には生きていてほしいと願い、父親は息子が人を殺めるとは信じることができず、どちらかというと被害者であることを望んでいる。夫婦それぞれの「望み」が違う方向に向いて、家族の間にかつてない亀裂が走るが…。

 

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監督は、「悼む人」の堤幸彦。 

「主人公・石川一登が自ら設計した家の中を覗くと、家族4人が幸せそうに暮らしているように見えます。ところがその美しくかっこいい家に暮らす“成功している家族”というフィルターはものの5分で剥がれる。ではこの家族の本当の気持ちは何なのか…原作を読んだとき、このテーマにものすごく深い興味を感じました。」

 

息子が加害者の可能性があることが伝わると、父親は仕事先の職人などから忌避され、注文を受けた客からもキャンセルされてしまう。「一生に一度の買い物ですから」と。加害という言葉から生じる恨みと穢れのようなもの。

 

加害者は、悪を抱えた存在で社会から抹殺されてしまう。一方被害者は、善なる存在で社会からは同情される。映画は息子が一体どちらなのか、映画はその2項対立に沿って進んでゆく。ただ、そんなに簡単に善と悪に分かれるのだろうかという疑問が残る。

 

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もしかすると加害者かもしれないが、思わぬ形で何らかの関与をしてしまい、気が動転して逃げてしまったのかもしれない。もしかすると被害者かもしれないが、加害に何らかの形でかかわっていたかもしれない。そういうことはありうるはずなのだ。

 

親であれば、そのようなグラデーションの中に救いを求めるだろう。しかし、母親も父親も、加害被害の2項対立の渦に巻き込まれてゆく。そうさせたのは、世間という圧力だ。押し寄せるマスコミ、卵を投げつけ、壁にペンキで悪辣なことを書きつける人々。正義感というのは時に(いやかなり頻繁に)醜悪な行いをする。

 

最後に母親は、「息子に救われた」という。この言葉の持つ意味は大きい。この母親は本当に救われたのだろうか、救われたとしたら何から救われたのだろうか。

 

父親役の堤真一がテレビのインタビューで語っていた、「卵を投げつける側になっちゃいけないと思った」という言葉が強く印象に残る。

 

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監督:堤幸彦
脚本:奥寺佐渡

主演:堤真一石田ゆり子、岡田健史、清原果耶

日本  2020 / 108分

公式サイト

https://nozomi-movie.jp/