映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ある男


山間の集落にある古びた文房具店。店番の女性(安藤サクラ)が品物に触れているが、何をしているか分からない。心はここになく、やがて突然涙があふれる…。そこへ若い男性客(窪田正孝)が入ってくる。男性客はこのあたりの人間ではないようだったが、この日から何度もこの文具店を訪れてはスケッチブックを買ってゆく。

 

文具店の女性(里枝)は子どもを病気で失い、離婚して実家に戻ってきたばかりだった。やがて、彼がスケッチブックに様々な風景を描いていることを知り、言葉を交わすようになる。男の名前は谷口大祐。村の林業を営む会社に雇われていた。ある時、大祐は里枝に、

 

「友だちになってくれませんか」

 

と話しかける。答える代わりに里枝は名前と電話番号を書いた紙を渡す。

 

「いつでも連絡をください」

 

時がたち、里枝はもう一人の子どもを連れて大祐と再婚。女の子も生まれ幸せに暮らす日々が続いた。ある日伐採作業中の事故で大祐が亡くなってしまう。しかし、疎遠だった大祐の兄が家を訪れ遺影をみるや、「これは大祐ではない」と断言する。里枝は「これは大祐さんです」と言うのだが…。

 

 

監督は「愚行録」の石川慶。原作は平野啓一郎の同名小説。

 

「今、『親ガチャ』という言葉がよく使われますが、どこの家の、どの親から生まれてくるのか、その状況を変えられないという現実があります。日本の場合、戸籍制度があり、自分のアイデンティティを登録され、そこが変えられないことから生きていく上で障害を負うといいますか、マイナスから始まったという自覚の人がいる。そういう境遇下の人は、今いる場所から解放されて、違う人生を生きたいという気持ちが強く芽生えるんじゃないか。そこが『ある男』の発送の起点となりました。」(平野啓一郎

 

大祐はいったい何者だったのか。里枝は離婚のときに世話になったという、弁護士の城戸章良(妻夫木聡)に頼んで大祐の過去を調べてもらうことにする。実は途中から参加するこの城戸が、物語の主人公である。

 

 

城戸は在日韓国人の3世で今は日本に帰化している。しかし妻の両親は無意識に在日外国人を差別している人間で、そのことが城戸に自身のルーツをいつも思い起こさせる。城戸は形は日本人だが、深いところで民族的なアイデンティティを持ち、自分は何者か絶えず問い続ける人物として設定されている。そしてそのために、生まれたままの自分とは別の人生を生きようとした大祐に、次第に共感を寄せていく。

 

「私」とは何か。自分は誰なのか。その問いに答えることは誰にとっても難しい。城戸は戸籍交換を商売にしている小見浦憲男(柄本明)を刑務所に訪ねる。小見浦は、城戸に言う。

 

朝鮮人のくせにオレを詐欺師だと見下してオレの言うことを信じやしない。オレを差別主義者だと思ってるだろうが、おまえの方が差別主義者だ。…一つだけ教えてやろう。何でオレを小見浦と思うんだ。戸籍の斡旋をしている人間がどうして自分の戸籍をそのままにしてると思うんだ」

 

 

他人の目に映らない本当の自分の姿。誰しもそういうものがある。原作者の平野啓一郎は、状況や相手によっていくつもの「本当の自分」がいるというが、自分にも知られない「本当の自分」がいるかもしれないのだ。そういう「見知らぬ自分」をのぞき込むことは恐ろしい。しかし大祐は苦しみの中で、「見知らぬ自分」に賭けた。過去を捨て去るとはそういうことだと思う。彼は新たな「見知らぬ自分」になり得る可能性に賭け、かけがえのないものを手にすることが出来たのだ。

 

妻夫木はインタビューで、

 

「自分に守るべき者ができたとき、どう生きるのかをみなさんに投げかけた映画だと思っています」

 

と語っているが、それは、あなたは「見知らぬ本当の自分」を見つめる勇気がありますかと問うているのだ。

 

監督:石川慶
脚本:向井康介

撮影:近藤龍人

主演:妻夫木聡窪田正孝安藤サクラ
日本  2022/ 121分

原作:「ある男」平野啓一郎著(文春文庫)

映画『ある男』公式サイト | 11月18日(金)全国ロードショー (shochiku.co.jp)