映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ニッポン国VS泉南石綿村

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2015年4月、大阪府泉南市で「泉南石綿の碑」の除幕式が行われている。この地域は明治の終わりから100年にわたって石綿紡織業が地場産業だったという。

 

資料写真を背景に監督の原一男がナレーションで説明している。石綿は耐火性や耐久性に優れ安価で生産されることから、建築資材として重宝された。だが、その石綿は極めて恐ろしい側面を持っていた。人間の体にはいると20年以上の潜伏期間を経て、肺がんや中皮種などを発症させるのだ。

 

「静かなる時限爆弾と言われるゆえんである」

 

大阪泉南地域で石綿の被害にあった人たちは、2006年、黙認してきた国の責任を問う裁判を起こした。この映画は、その戦いを8年にわたって記録したドキュメンタリーである。監督の原一男にとっては、これまでにない取材対象だったという。「製作ノート」にこう記している。

 

「二十代の頃に、ドキュメンタリー作品を作る、という生き方を選択した時点で私には思い決めたことがあった。“生活者は絶対に撮らない”。“撮りたいのは表現者である”と固く自分に言い聞かせたのだ。…これからカメラを向ける人たちは、“生活者は絶対に撮らない”と、私のルールとして思い決めたまさにその人たちなのであった。果たして普通の人を撮ってオモシロイ映画になるだろうか、という不安を抱えながらのスタートだった。」 

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 この疑問と不安は、撮影の最後まで残っていたらしい。しかしでは、なぜ原監督は「普通の人」である彼らを8年間も(!)撮影し続けたのだろう。なぜ途中でやめて別の“表現者”を撮影しに行かなかったのだろうか。

 

考え得るのは、彼らの“何か”に惹かれ続けたからだ。想像するにそれは、普通の人が普通でない状況にある、ということではないのか。だから確信を持てずにいながらカメラを回し続けたのではないのか。その普通と普通でないものの落差に、見るものが考えさせられる要素が潜んでいるのに違いない。映像はないが、原告団のさまざまなインタビューを聞きながら、私たちはその落差を想像するのだ。

 

ただ原監督はあくまで“表現者”にこだわり続けた。そのことが映画の後半になってよくわかってくる。

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休憩をはさんで、映画の後半が始まる(この映画は3時間35分と長いので丁度半分くらいのところで10分間の休憩が入るのだ)と、画面には原監督が登場し、取材相手に向けて語り始める。

 

「あの、原告の人たち、もっと怒っていいんじゃないかっていうような不満が私にはあります。…皆さんの動きを私はカメラを回しながら思うのは、何かこうじれったさと、何か本当にこういうことしかできないのかっていう悔しさとがね、いつも入り交じってんですよ」

 

すると相手が答える。

 

「なるほど。まあ、極端な話ね、厚労省前、総理官邸前で焼身自殺? いうことですよね、極端な話、フフ」

 

「いや、あの……そこまでは言いませんが」

 

この部分について原監督は、心の中では「はい!その通りです」と考えていた、という。撮影でそういうことを本当に狙っているのなら、それは不満が鬱積していくだろうなと思う。そもそも取材相手を間違えているのだ。     

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ところがこれ以降、映画に登場する取材相手は、何か「怒り」が増しているように感じられた。抱える熱量の大きさを感じられるほど、受け取る側の印象が強くなるのは間違いない。だが彼らは原監督にアジられて怒っているのかもしれないのだ。そのことが奇妙に冷めた感覚を与え続ける。

 

このテーマであくまで“表現者”を撮ることにこだわるのであれば、撮影する監督自身に最初から最後までカメラを向けるべきだったのではないかと思う。映画に登場する人たちの中で、おそらく唯一の“表現者”なのだから。

 

監督・撮影:原一男
構成:小林佐智子

編集:秦岳志
日本映画 2017/ 215分

 

公式サイト

http://docudocu.jp/ishiwata/

ラッキー

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赤茶けた土地に灌木が茂り、サボテンが立ち並ぶ。そこに大きなリクガメがゆっくりと横切ってゆく。アメリカ南西部。90歳でひとり暮らしの男の一日がまた始まる。ゆっくりとしたウォーミングアップを行い、冷蔵庫に冷やしたグラスのミルクを飲み干す。そして再びグラスにミルクを注ぎ冷蔵庫に戻す。明日のためだ。

 

男の名はラッキー。いつもの喫茶店でコーヒーを飲み、クロスワードパズルを解く。ある時「現実主義」という言葉が出てくる。

 

「現実主義はモノなのか?」

 

辞書で調べると「状況をありのまま受け入れる姿勢や行動と、ありのままの状況に対処する心構え」と書かれてある。ラッキーは夜行きつけの飲み屋でマスターに「現実主義」について説明する。

 

「目に見えているものが現実ってこと?」

 

ラッキーは答える。

 

「そうだがお前の現実と俺のは違う」

 

同じ日々が続くある朝、ラッキーは突然気を失う。病院で検査を受けるが何も異常はない。医師は加齢のせいだというが、ラッキーはこれまで考えなかった「死」について考え始める…。                   

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監督はジョン・キャロル・リンチ。初の監督作で、脚本は主役の俳優ハリー・ディーン・スタントンに当て書きした。ハリー・ディーン・スタントンは「パリ・テキサス」などで知られる名優。ラッキーのキャラクター造形や辿ってきた人生(例えば沖縄戦経験など)は、ハリーとほぼ同じだという。

 

老いや、人生の終盤を生きることをテーマにした映画でよくある、過去を振り返って、かつての恋人に詫びたり、過ちを正したりするような映画にしたくなかった。一人の男が自分をどう見つめるかを描きたかった。しかも、神や天国という“第二幕”といった安心材料なしに生きる姿をね。ハリーの人生はまさにそうだった。」

 

偏屈な男である。自分は自分であり、他人は関係ない。この姿勢を貫くためにどれだけ強くなければならないか。あるいはどれだけ鈍感でなければならないか。映画はラッキーの老いた日々を、凡人には到達できない数々の名セリフを交えながら淡々と綴る。

 

曰く、「孤独とひとり暮らしは意味が違う」

 

曰く、「つまらん雑談なら、気まずい沈黙の方がマシだ」

 

曰く、「人はみな生まれる時も、死ぬ時も一人だ。“ひとり(alone)”の語源は“みんなひとり(all one)”なんだ」

 

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ラッキー(ハリー)はとにかく“ひとり”にこだわる。パンフレットに1989年のインタビュー記事が採録されていて、その中でこんなことを語っている。

 

「一人が皆、一人ずつであるということ。あらゆるものも含めて。だからつながろうとすること。映画も、良い作品は皆、そのことに意識的だと思う。そのことで生命を肯定する方向に人を動かそうとするのが良い映画なんだ。」(雑誌「SWITCH」1989.12)

 

そんなハリーにも悩みがあった。暗闇や空虚を恐れていたというのだ。同時に「死」を恐れていた。先ほどのインタビューで、ハリーはこうも語っている。

 

「死を恐れないようなところまで行きつくことができるかどうか。このことが一番大きな問題じゃないかと思う。」                  

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映画の終盤、ラッキーは行きつけの飲み屋でタバコを吸おうとしてオーナーから注意される。「この店は私が管理しているの」と。するとラッキーはこう言い放つ。

 

「すべてはなくなる。君もお前もあんたも俺も、タバコも何もかも、真っ暗な空(くう)へ。管理するものなどいない。そこにあるのは無だけだ。」

 

オーナーのベスが問う。

 

「すべてが無だとしたらどうするの?」

 

しばらく沈黙した後、ラッキーが答える。

 

「〇〇するのさ」

 

「死」や空虚を恐れていたラッキー(ハリー)が出したこの答えが、彼の到達点である。この映画を最後に、名優ハリー・ディーン・スタントンは2017年9月、91歳で亡くなった。

 

監督:ジョン・キャロル・リンチ
主演:ハリー・ディーン・スタントンデヴィッド・リンチ
アメリカ  2017 / 88分

 

公式サイト

http://www.uplink.co.jp/lucky/

あなたの旅立ち、綴ります

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人のやることが気に食わない。家政婦がいても、庭師がいても、文句をつけては全部自分でやってしまう。お屋敷の中、夜になると孤独になる。眠れないので薬を飲む。多めに飲んでも死なずにまた病院から戻ってくる。81歳。広告業界で成功した女性、ハリエット・ローラーだ。

 

ある日、新聞の死亡記事が目に留まる。もし自分が死んだらどんな風に書かれるのか。これは他人に任せてはいられない。俄然やる気が出てきた。かつて広告を出していた新聞社を訪れ、ライターのアンに自分の訃報記事を書くように命じる。

 

ところがアンが書いてきた記事はひどいものだった。それもそのはず、彼女を知っている人で彼女をよく言う人は誰もいなかったのだ。アンは言い放つ。問題は私の才能じゃない、あなたよ、と。ここから、自分の死亡記事を完璧なものにするためのハリエットの苦闘が始まる…。

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監督はマーク・ぺリントン。ミュージックビデオの監督としても知られているという。

「彼女の人生は一見問題がないように見える。でも実際は空っぽなんだ。外見と内面がぶつかり合っている。この映画のなかで、彼女は意義深い人生とは何なのかを定義づけなければならない。」

 

人は人生の後半に自分を変えることができるのか、その興味で映画をみた。ハリエットによると、追悼記事に必要な要素は4つあるという。

 

①家族や友人に愛されたこと
②同僚から尊敬されたこと
③誰かの人生に影響を与えたこと
④見出しになるような特別な何か

 

①と②は事実でないなら難しい。そこで③と④を実現するために、ハリエットは地域のコミュニティセンターを訪れ、問題を抱える子どもたちに影響を与えようと画策するのだが…。

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アンは当初いやいや取材を続けていたが、次第にハリエットの奔放さと辿ってきた人生にひかれ始める。アンには実はエッセイストになりたいという夢があったのに勇気を持てずにいるのだ。

 

映画を見てみると、ハリエットは本質的なところは何も変わっていない。どちらかというと隠されていたハリエットが発見されたのだ。人は若い時に必要とするものと、年老いて必要とするものが違うのではないかと思う。若い時のままのやり方では、年老いて必要なものが手に入らないのだ。ハリエットはアンとの交流の中でようやくそのことに気づく。しかし気づいた時には、自らの死期が近づいていた。

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ハリエットがこの映画の中で繰り返し語ることがある。

 

リスクを背負って冒険してこそ生きる意味がある

 

というものだ。彼女の行動と語る言葉は、ハリエットが意図した以上にアンの人生に影響を与える。その影響こそがハリエットの人生だと、監督は言う。

 

「周囲の人にどのような影響を与えているかを見るまでは、その人のことってわからないもんなんだよ。」

 

監督・製作:マーク・ペリントン
主演:シャーリー・マクレーンアマンダ・セイフライド
アメリカ  2016 / 108分

 

公式サイト

http://tsuzurimasu.jp/

15時17分、パリ行き

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人混みの中、リュックを担いでキャリーバックを引きずる男。その背中をカメラは追いかける。顔は判然としない。ひげ面。そしてサングラス。やがてここが列車の駅だと分かる。男が乗り込もうとするのはアムステルダムを15時17分に出発したパリ行きの列車だ。

 

一転して陽気なアメリカの若者が3人。オープンカーでどこかの町を走る。3人は親友だとひとりの青年が語る。そして子供時代の回想。3人とも枠に収まり切らないいわゆる落ちこぼれ、それ故に強いきずなが生まれる。

 

若者たちは成長し、アンソニーは学生、アレクは軍人となった。スペンサーは人を助ける仕事がしたい、と空軍のパラレスキュー部隊を志願するが不合格。空軍の救急救命士となった。

 

一方パリ行きの列車内では、誰かが10分も洗面所に入ったきり出てこない。夫婦連れの男が様子を見てくると言って立ち上がる…。                

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映画は3人の物語を、パリ行きの列車で起きていることを短く入れ込みながら進んでゆく。やがてその2つの流れが一点で結びつく。これは実話である。監督はクリント・イーストウッド

 

「彼らは私たちの身近にいるような普通の若者で、正しい時に正しいことをした男たちだ。事件の当日、乗客たちは走行中の列車内に閉じ込められ、AK‐47ライフルとルガーピストル、カッターナイフ、そして270発もの弾薬を持ったテロリストに遭遇した。もし3人が取り押さえていなかったら、大惨事になっただろう。」

 

テロリストの姿を見、椅子に伏せた後、銃を構える男に最初に飛びかかっていったのはスペンサーだった。その時、ある奇跡が起こる。スペンサーは列車に乗り込む数日前に、アンソニーに向けて語る。

 

「ある大きな目的のために人生に導かれているような気がする。」

 

奇跡的な偶然にはある大きな力が働いていると誰しもが考える。スペンサーはそれを「人生」と言った。その言葉をおそらく脚本に生かしたのだろう。しかし監督のイーストウッドは少し違う言い方をしている。それは、

 

「私たちの中にあるもう一つの能力だと思う。潜在的な意識が体を動かし、自分の命を救うんだ。…つまりその力は誰もが持っているということだ。」

 

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3人の若者を含め車内にいた5人は本人に演じてもらったという。それ以外は何ともシンプルな映画だ。自在と言ってもいい。おそらくは何の葛藤もなく作られた、イーストウッドの吐息のような、つぶやきのような作品。それは息をするように詩を吐き出す、老詩人の詩のようだ。ほらここにこんな若者たちがいる、すごいだろ、と目を細めて語るイーストウッドおじいちゃんの顔が目に浮かぶ。

 

老詩人は例えば谷川俊太郎、86歳。イーストウッドと同年代。最近の詩にこんな詩句があった。

 

言葉は不自由だ
泣き声と笑い声だけで
詩が作れないものか

こからか言葉が)また詩が気になって」谷川俊太郎

 

詩人にとっての言葉のように、映画監督にとって演技なんてものも不自由なものなのか知らん、さて。                                                 

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監督・製作:クリント・イーストウッド
主演:スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラー
アメリカ  2018 / 94分

公式サイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/1517toparis/

願いと揺らぎ

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観音像のように見える枯れ木が一本、海沿いの集落に立ちすくんでいる。その集落は津波に洗われ、ほとんどが流されてしまった。ひとりの老婆が何もかもなくなった場所で、かつてあった自宅を案内する

 

「あそこがお勝手口、…ここが玄関か…」

 

宮城県南三陸町、波伝谷。80軒あった集落は1軒を残し壊滅した。この集落では毎年3月、春を迎えるための行事「お獅子さま」が毎年行われていた。この年2011年はそれを2日後に控え、震災が起きた。

 

震災から半年余り、「お獅子さま」を復活したいと集落の若者が提案。人々は「契約講」と呼ばれる村のリーダーたちを中心に動き始めた。この映画は、「お獅子さま」復活に向けて揺れる人々の思いを記録したドキュメンタリーである。


提案した若者には、「支援」に頼らず自分たちの力だけで実現したいという強い思いがあった。しかし村の長たちは、現実的な選択として「支援」を募る方針で進めた。それぞれに微妙な食い違いが生じる。しかしどちらが正しいのか、議論されることはない。感情に亀裂をのこしたまま、「お獅子さま」の日が近づいてくる…。                                                                       

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 監督は我妻和樹。大学の民俗調査で波伝谷に入り、卒業後、この村を記録に残そうと映画製作を始めた。その3年間の記録は震災までを一区切りに、映画「波伝谷に生きる人々」としてまとめられた。この映画はその続編というべきものである。

 

「波伝谷の人びとにとって『土地とともに生きる』『地域とともに生きる』ということが一体どういうことなのか。それを現地に実際に生きている当事者たちの視点から深く見つめていくことによって、今自分たちが生きているこの時代について、人と人とのつながりについて、足元から見つめなおすことができるのではないか。それがこの12年間、僕が波伝谷での映像記録を通して問い続けたテーマであった。」

 

何の予備知識もなくこの映画を見た。印象深いのは監督と取材相手との距離感である。カメラは監督が持って撮影しているのだろう。インタビューでは頻繁に監督の「はい、はい、」といううなづきの言葉が入る。それが大抵の場合、取材相手の声よりもクリアに聞こえる。

 

いやその声が印象に残るのは、クリアに聞こえるせいではない。相手の話を真剣に受け止めましたよ、というのが伝わる「はい、はい、」なのだ。つまり話を聞く人への敬意が伝わり、とても気持ちが良い。そしてカメラは監督自身の目になり切って動き回る。波伝谷の人びとを記録しているのだが、監督のセルフドキュメンタリーのようでもある。

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そのことが如実に現れるのが、厄除けの飲み会の席のことだ。監督は自身も飲まされ少し酔ったのかもしれない。ケンイチさんという人に熱っぽく語りかけている。「お獅子さま」復活を言い出したのが若い世代だということに自分は感動している、あなたはどう思うのか、ということをしきりに聞いている。

 

相手が話し出そうとしているのに覆いかぶすようにして話し続ける監督。その光景は取材と考えるとヘンな感じなのだが、しかしケンイチさんはそのことに深く同意し涙ぐむ。そして、このやりとりの一連に少しも嫌味がない。こういうのを人徳というのだろうと思う。

 

この監督はもともとこういう作風なのか、前作のDVD「波伝谷に生きる人々」を帰りに買って見てみた。確かに同じだ。映像に映っているのは波伝谷の人びとだが、描かれているのは監督との距離である。その方がおそらくは、対象を客観的に描くよりも多くのことを感じさせている、ということも変わらない。                   

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今回の「願いと揺らぎ」では、「お獅子さま」復活を唱えた若者にインタビューができないまま、その日を迎える。彼はこの復活をどう考えているのか。その日から5年近くがたって、監督は彼の家を訪ねる…。

 

なぜ5年なのか。実に不思議な年月がたってしまう。決して短くはないどころか、かなり長い。彼がそれまで口を開いてはくれなかったということなのかもしれない。編集を始めるのに時間がかかってしまっただけなのかもしれない。しかしこの場面で、私たちは震災から今に至る年月を考える。そしてその映像の不在が、5年という年月の重みを改めて想像させるのだ。私たち自身の5年間も含めて。

 

監督・撮影・編集:我妻和樹
製作・配給:ピーストゥリー・プロダクツ
日本映画 2017/ 147分

公式サイト

https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree

 

 

 

ロープ 戦場の生命線

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前方にほのかな明かりが見える。手前に何か羽根のようなものがゆっくりと回転している。暗い井戸の中から外を見上げた映像だ。やがて回転するものが人間だと分かる。井戸に落ちた人間をロープで引き上げているのだ。しかし水を含んだ死体は重く、ロープが切れてしまう。

 

1995年、民族間の紛争が続くバルカン半島のどこか。ようやく停戦が実現したが、戦争の余波が消えていない。“国境なき水と衛生管理団”は村人の生活用水である井戸水を確保するため、死体を引き上げなければならない。しかし肝心のロープが切れてしまい、なかなか手に入らない。

 

職員のマンブルゥは偶然知り合った地元の少年から、自宅にロープがあると告げられる。少年は両親と離れ祖父の家で暮らしているが、かつて住んでいた家にあるというのだ。マンブルゥは仲間と少年を連れて村に向かうが…。                    

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 監督・脚本はフェルナンド・レオン・デ・アラノア。ボスニア紛争や、ウガンダでの国境なき医師団のドキュメンタリーなども撮ってきたスペインの監督だ。

 

「この映画は戦争の風景ではなく、もうひとつの戦争、つまり静かな戦争に焦点を当てている。前線や和平協定を越えて展開する闘いであり、地雷や武装した子供たち、軍の検問所、一触即発となった隣人に対する憎悪、そしてそれよりも3倍強い母親たちの恐怖の中に起きている戦争である。」

 

車を走らせていると道の真ん中に牛の死体が横たわっている。牛をそこまで引きずってきた跡がある。つまりこれは罠だ。牛をよけて通ればそこに地雷が埋まっている。右か左か、それとも牛の中か。否応なしに理不尽な選択を迫られる。停戦してもそれがこの地域の実態なのだ。

 

映画はマンブルゥの元恋人、新人女性のソフィー、戦場に慣れたビー、現地通訳のダミールが、一本のロープ探索に奔走する中でそれぞれの人間味を発揮してゆく。少年の住んでいた村は破壊され、そこで彼らが見たものは紛争がもたらす過酷な現実だった。ソフィーはこの仕事にまだ慣れず、多くのことに驚き、憤慨し、住民を取り巻く現実の悲惨さに落ち込む。そんな時マンブルゥは彼女に向かってこう言う。

 

「ここでは過去も未来も考えるな。今だけを考えろ。」

 

ここに彼らが置かれた立ち位置がある。それを踏み外すことは即、生命の危険につながるということなのだろう。彼らが対処しなければならない現実とは、高邁な理想ではなく「今」そのものなのだ。

 

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“国境なき水と衛生管理団”というのは知らなかったが、考えてみればこういう人たちがいなければ、死者の数は計り知れないほどになってしまう。本当は戦争の根っこを断つことが重要だとは誰もが知っている。しかし、それを待っている間に大勢が亡くなってゆく。

 

果たしてロープは見つかるのか。井戸に沈んだ死体は引き上げられるのか。時折ブラックなユーモアを交えて物語は進む。監督のフェルナンド・レオン・デ・アラノアは語っている。

 

「大変な悲劇に見舞われていると、荒れ果てた埃だらけの絶望的な土地に、しばしば機知に富んだユーモアが生まれる。なぜなら地球上で、これほど冗談が必要な場所は他にないからである。」

 

原題は「A PERFECT DAY」という。パーフェクトな一日、というのも皮肉なユーモアである。ラストでこのタイトルの意味が理解でき、見ている私たちも苦く大笑いすることができる。

                                                 

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監督・脚本:フェルナンド・レオン・デ・アラノア
主演:ベニチオ・デル・トロティム・ロビンス、メラニー・ティエリー
スペイン  2015 / 106分

公式サイト

http://rope-movie.com/              

スリー・ビルボード

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アメリカ・ミズーリ州。さびれた道路に朽ちかけた3枚の広告看板が並ぶ。写真も剥がれ落ち、そこに何も読み取ることは出来ない。「あんな道は迷ったやつか、ぼんくらしか通らない」という道路で、今や広告を出す人間など誰もいない。ミルドレッドはこの3枚の看板に意見広告を出すことを思いつく。

 

1枚目:レイプされて死んだ
2枚目:犯人逮捕はまだなの?
3枚目:なぜ?ウィロビー署長

 

真っ赤な下地に黒字で大きくー。
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ミルドレッドは7か月前に娘を殺された。犯人逮捕のためにいったい警察は何をしている?―いらだちが文字となってほとばしる。警察がみな悪徳でどうしようもない連中ばかりなら話は単純だったろう。しかし名指しされたウィロビー署長は、職務に忠実な男で住民の信頼も厚い。しかもガンを患い余命が宣告されているのだ。もちろんミルドレッドはそれを知っている。しかし容赦しないと決めているのだ。

 

この看板はテレビでも報道され、町中の人が知るところとなる。テレビのインタビューでミルドレッドは、「黒人いじめに忙しくて警察は何もしない」と手厳しい。歯医者や神父、ウィロビー署長を敬愛する様々な人が、ミルドレッドを説得しようと試みるが…。

 

監督はマーティン・マクドナー
「主人公のミルドレッド・ヘイズは強く断固としていて、怒り狂っているが、それでいて心は深く傷ついている。これが物語の発端だった。…行き場のない怒りや喪失感を抱えた時、人はどこへ向かうのか? 希望が生まれるまで波風を立て続けると決めたらどうなるのか? これを探求するのはおもしろいと思った。」

 

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ミルドレッドには確信的な哲学がある。「あるグループに属するものはグループ内の誰かが罪を犯したとき、同じ罪をかぶる」というものだ。神父がミルドレッドの行き過ぎを注意するために訪れた時、こう言い放つ。

 

「教会では少年の性的虐待がある。教会に関係するあなたにはその責任がある。私を説教する資格なんかない」

 

これをおそらく警察にも当てはめているのだろう。「人種差別している警官がいる時、いくら人徳者でもウィロビー署長にその責任がある」と。

 

映画は、人種差別主義者でウィロビー署長を敬愛する警官ディクソンを登場させる。ディクソンはミルドレッドにとって明らかに敵。ふたりは捩れた縄のように絡まりあいながら物語が進んでゆく。だが、ディクソンは単なる人種差別主義警官のアイコンではない。複雑な内面を抱えた悩める若者なのだ。そのことが映画に一筋縄ではいかない捻じれた深みを与えている。


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ミルドレッドを見ていると、「強い思いは何かを変える」と思えてならない。軋轢を恐れ、言いたいこともなかなか言えない多くの人にとって(私もそうですが)、強い思いを貫徹できる人はある種のヒーローと言っていい。軋轢こそが何かを変えるのだ。ミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンドは語っている。

 

「(ミルドレッドは)悲しい時にも、流す涙がない。自分の弱さを見つけられないから、彼女にとっては、泣くよりも火炎瓶を投げるほうがずっと簡単なんです」

 

一連の軋轢によっていちばん変えられたのは、人種差別主義警官のディクソンかも知れない。ディクソンとミルドレッドは似ている。怒りを隠すことが出来ない。その結果生じた様々なことが、逆に自らの生きざまを変えてゆく。ディクソンはどう変わったのか。それは言葉ではうまく説明できないほど根本的な何かだ。

 

ディクソンが変わったのだ、ミルドレッドも変わったはずだ。そうは見えないが、そうに違いないと思える。そのことを示すさりげなさに感嘆する。

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監督・脚本マーティン・マクドナー
主演:フランシス・マクドーマンドサム・ロックウェルウディ・ハレルソン
イギリス・アメリカ  2017 / 116分

公式サイト

http://www.foxmovies-jp.com/threebillboards/