怪物
湖の畔の小さな町。ある夜、雑居ビルで火災が起こった。サイレンが鳴り響き、燃え上がる炎とそれを消化しようとする消防士。マンションのベランダでそれを見物する母親と子どもがいる。シングルマザーの早織(安藤サクラ)と小学校5年の湊(黒川想矢)だ。
「豚の脳を移植した人間は人間?豚?」
湊は母親に聞く。
この言葉が呪文のようにこの映画で何度も反芻されることになる。数日して早織は、湊の様子がおかしいのに気づき、学校でいじめがあるのではないかと疑う。問い詰められた湊は、担任の先生が自分のことを「豚の脳」と言い、暴力を振るっていると打ち明けた。
怒りを抱えて学校に乗り込んだ早織だったが、学校側の対応が何とものらりくらりで、埒が明かない。担任の保利(永山瑛太)は、「(こんな風に乗り込んでくるのは)母子家庭あるある」という言葉まで放つ始末。おまけに「湊君は同級生の星川君をイジメてますよ」と。早織は星川君の家を訪問するのだが…。
監督は是枝裕和。脚本は坂元裕二。是枝監督にしては珍しくひとの脚本でメガホンをとった。映画は火事の日を起点に、母親、教師、子どもの三者の視点で三通り描かれる。同じ時間を過ごしても三者が見ているものは違う。というより見えていないものが多い。この脚本のもとになった自分の経験を坂元裕二はこう語っている。
「以前、車を運転中に信号待ちをしていて、前のトラックが青信号に変わっても進もうとしなかったことがあるんです。なかなか進まないから僕はクラクションを数回鳴らしたけど、それでもとらっくは動かない。ようやく動いたと思ったら、トラックが進んだ後に見えたのは車椅子の方だったんです。…そういう後ろめたいことは誰にでも起こりうるし、いつかしっかり描こうと思っていました。」
この物語は、トラックが隠していたものを後で知るように、提示された謎が次第に明らかになっていく構造になっている。イジメはあったのか、先生は暴力を振るったのか―。
しかし学校というのは果たしてこういう世界なのか、デフォルメしてるのか。事実を語ることがなぜこれほどタブーになるのか。子どもの世界ではありうるとしても大人になった人たちのこの異常さは度を越えている。いったい何を守ろうとしているのか。校長先生(田中裕子)は保利先生に囁く。
「あなたが学校を守るんだよ」
子どもの証言によって保利先生は、ついに学校を追われることになる。もし子どもたちの証言が嘘なら、そうまでして守りたいものが、子どもたちにはあったということだ。第3幕は子どもたちの切ない物語である。この映画はそれぞれがそれぞれの立場で大切なものを守ろうとし、そのために苦しむ物語なのだ。
最終盤で、湊が校長先生に告白するシーンがある。多くは話せないが、ふたりはそれぞれの「幸せ」について語っている。
「嘘をついていました。誰にも話せないから。(自分が)幸せになれないとバレてしまうから。」
すると校長が言うのだ。
「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わないんだよ。誰にでも手に入るものを幸せって言うんだよ。」
映画のメッセージのように聞こえるが、この言葉の含意は難しい。その人にしかない幸せっていうものもあるのでは、と思うからだが、もっと別の深い意味があるのだろう。誰にでも手に入るもの、すなわち生きているということ。ただ、
「あなたはただあなたのままでいればいい」
ということを言いたいのかもしれない。分かりにくいために、逆にのどに引っかかった小骨のように今も気になる。
音楽:坂本龍一
主演:安藤サクラ、永山瑛太、田中裕子、黒川想矢、柊木陽太
日本 2023/ 126分
生きる LIVING
黒澤明監督の「生きる」をリメイクしたイギリス映画。脚本はノーベル賞作家のカズオ・イシグロである。
1950年代ロンドン。資料映像のようなざらついた画面で始まる。ある一人の若者が、汽車を待つ駅で、これから働く市役所の先輩たちに挨拶している。そのあいさつの中にジョークを交えるが誰もクスリともしない。親切な先輩が耳打ちしてくれる。
「こういう場所では笑うことはご法度なんだ」
周りは謹厳実直な紳士ばかり。映画はこの新人の若者の目線を一つの軸に進んでいく。
働き始めた市役所でピーターは、公園建設の陳情に来ている婦人たちの応対を任される。婦人たちは、たらいまわしにされた挙句この市民課に再びやってきていた。だが、課長のウィリアムズ(ビル・ナイ)は以前と同じように、ここの担当ではないから公園課に持っていくよう指示を与える。公園課からは下水道設備を何とかしてからだと水道課に回され、水道課はこうした問題は市民課だという。何か既視感のある光景だ。
市民課に戻ってきた陳情書は課長のウィリアムズが、そうかとだけつぶやいて、書類を机の上の棚に仕舞ってしまう。
「たいした問題じゃない」
といいながら。
この謹厳実直を絵にかいたような紳士がこの映画の主人公だ。妻に先立たれ息子夫婦と暮らしている。この日は早退し医者に行くのだが、その場ではっきりとがんを宣告されてしまう。余命もわずかだという…。
カズオ・イシグロは黒澤の「生きる」が自分の人生について大切な作品であると語り、その理由をこう述べている。
「この映画が伝える、自分が一生懸命に努力をするとしても、周りがそれを称賛したり、認めることをモチベーションにしてはいけない、というメッセージに私は成長過程において影響を受けてきたと思います」
ウィリアムズは絶望の中で無断欠勤を続け、歓楽の巷を徘徊する。その中で、渡辺勘治が「ゴンドラの唄」を歌ったように、ウィリアムズはスコットランド民謡「ナナカマドの木」を歌う。「ミスターゾンビ」とまで言われ役所仕事に人生を埋没させているウィリアムズだが、妻が生きていた時代は彼もまだ生きている「紳士」だった。スコットランド出身の妻を思い、在りし日の自分を思い切々と歌い上げるビル・ナイの歌声は切ない。
そして、同じ市役所に勤めていたかつての部下、マーガレットと出会いなおすことで何かが変わってゆく。若いマーガレットは身内からあふれ出るエネルギーがあり、ウィリアムズは、自分の人生の終わりに「生きる」ということを見つめ直し始めるのだ。
ある時ウィリアムズはマーガレットにすべてを打ち明け、意を決する。市役所に行き、婦人たちが持ってきた公園建設の陳情書を手に取る…。
人生の終わりに、何か自分が生まれてきた証を残したいと思うのは自然だ。ただウィリアムズは、公園建設は一時は話題になっても、やがてそんな功績は忘れられてしまうであろうことをよくわかっていた。しかし、と彼は考えていたのだ。新人のピーターに遺した手紙の中で彼はこう書く。
「この公園建設に携わった人はみな、ささやかな達成感を得たはずです。もし君が仕事に迷ったり飽きたりしたら、この小さな満足感を思い出してほしい」
自らの行動のモチベーションは自らの内になければならない。カズオ・イシグロはそう言っている。
監督:オリバー・ハーマナス
脚本:カズオ・イシグロ
原作:黒澤明監督作品「生きる」
主演:ビル・ナイ、エイミー・ルー・ウッド、アレックス・シャープ
イギリス 2022 / 103分
ちひろさん
ちひろさんはとある港町のお弁当屋さん。と言ってもアルバイトで店先に立っている売り子さんだ。元風俗嬢と言うことだが別に隠すわけでもなく、ちひろさん目当ての男性客も多い。
公園で猫と遊んだり、子どもとじゃれ合ったり。ホームレスのおじさんと知り合うと、家に連れ帰って体を洗ってあげたり。何ものにもこだわらず、いつも一人で自由な雰囲気を身にまとっている。
おもちゃの蛇を使っていたずらしてきた小学生、自分のことをスマホでなぜか隠し撮りする女子高生と知り合い、少しずつ物語りが進み始める…。
監督は今泉力哉。原作の漫画は安田弘之。主演は有村架純。
『この世界には、一人漂うように生きることを愛する方もいます。…誰にも、何にも邪魔されない、干渉しない、影響を受けない、ただただ思うままに生きることを選べたら。そんな生き方が出来たらどれだけ楽だろうか。 しかしながら、生きるそばには必ず誰かがいるのも事実です。一人の時間を大切にする日常の根底には人の温もりがあるということに、改めて気づける作品でもあるのではないかと思います。』(有村架純)
ちひろさんのことを隠し撮りをしていた女子高生が、ちひろさんと仲良くなって、「私がどんな人間か聞かないんですか?」と問うたときこんな風に答える。
『そこにあんたがいるんだから、それで十分。聞いたところでそれが本当かどうか分かんないしさ』
こういうセリフを聞くと、まったく身にまつわる情報のない自分、裸の自分自身というのは、他人からどう見えるんだろうかと考えてしまう。
ちひろさんは、孤独好きとか人好きという区別とはまた違う、遠い所に眼差しを向けているように見える。その感じが人を安心させるのかも知れない。そういう眼差しになるまでに多くの大変なことを経てきたのだろうけれど。
小さな小さな私たちの人生がそれでもかけがえのないものであると、もう一度思い出させてくれる温かな映画である。
主演:有村架純、リリーフランキー、豊嶋花
日本 2023/ 131分
※公開中ですが、NETFLIXで見ることができます
すべてうまくいきますように
作家のエマニュエルは、執筆中の自宅で電話を受けると急いで部屋を飛び出す。あわててコンタクトレンズを忘れ、取りに帰るほど我を忘れている。向かったのは病院。父親が脳卒中で倒れ、運ばれたのだ。しかし父親は元気そうで、不自由はあるが命に別状はなさそうだ。
ほっとしたのもつかの間、便も入浴もままならない入院生活が続くと父親のアンドレはエマニュエルに向かって言う。
「終わりにしてくれ こんな姿は私ではない」
つまり、尊厳死を願っているのだ。エマニュエルは驚き悲しがるがそのことについて父親を説得しようとはしない。しても無駄だとわかっているのだろう。子どものころからさんざんこの唯我独尊の父親には苦い思いを味わされてきた。
尊厳死は可能なのか? エマニュエルは、尊厳死を願った夫が実行する前に死んだという友人を訪ねる。エマニュエルは最低の父親だったといいながら彼のことを好きだと語る。
「友達だったら良かったのに」
と言うと
「友達として手伝ってあげればいいの」
と言われる。フランスでは違法のため、エマニュエルはスイスの団体を探し出し連絡を取るが・・・。
監督はフランソワ・オゾン。原作は自身の体験を描いたエマニュエル・ベルンエイムで、エマニュエルはオゾン監督とは「スイミング・プール」などいくつもの作品で脚本を共同執筆している。この映画はエマニュエルが病気で亡くなってからオゾン監督が映画化した。
アンドレの病状は回復を見せているようだが内面はまったく違っていた。
「(アンドレの)最大の不安は正気を失って、自分自身の死を決めるために必要な自由意志を失うんじゃないかということなんだ。はっきりした意識で決断する能力を失えば、娘たちはもう旅の計画を立てることができなくなるだろう。運命の日に近づくにつれて、緊迫感が高まってくる。彼は計画をまっとうするんだろうか?気を変えるだろうか、それとも一歩も譲らないだろうか?とね。」(オゾン監督)
印象深いエピソードがある。スイスの団体の代表に会ったエマニュエルが、尊厳死の最期の日にやめた人はいるんですかと聞くと、一人だけいると答えたのだ。
その人は重病で高齢だった。奥さんは年の離れた若い人で、最期の日に夫婦で街を歩いて奥さんに赤いドレスを買った。その夜、赤いドレスを着た妻を見て、そのあまりの美しさに生きることを選んだ、という。
一方アンドレの決意は固く、意思を曲げそうにない。エマニュエルは妹とともにアンドレをスイスに移送する計画を練る。
人は、自分が自分である基準がある。客観的にみると妙なことや愚かなこと、世間の常識と反することでもあえて突き進んでしまうことがある。尊厳死は決して愚かではないが、アンドレがこの人生で、自分が自分でいられる自己イメージはもう決まってしまっているのだ。
そのように生きてこられたというのは、うらやましくもあるが、反面、弱った自分をまったく受け入れられないというのはこれまでどんな人生だったのかと、少し考えてしまう。そんな父親に愛憎半ばの娘役を、ソフィー・マルソーが好演している。
監督・脚本・フランソワ・オゾン
主演:ソフィー・マルソー、アンドレ・デュソリエ、シャーロット・ランプリング
フランス・ベルギー 2021 / 113分
エンドロールのつづき
インドの西、グジャラート州の田舎町。線路沿いにすむサマイ(9歳)は、駅の小さなチャイ屋台で父親を手伝っている。列車が到着すると客にチャイを売るのだ。めったに列車の来ない線路は子どもたちの遊び場だ。打ち捨てられた様々なものを使って、時に列車に轢かせてぺしゃんこにして、矢じりのような遊び道具も作ることが出来る。
町に家族で映画を見に行った日、サマイは観客席の後方から流れる光の束に気づき、その不思議さにすっかり魅了されてしまう。翌日映画館に忍び込んで叩き出されるが、映写技師のファザルは、サマイの持っているお弁当と引き換えに映写室の窓から映画を見せてくれることに。この日から映画とサマイの蜜月が始まる。
サマイの母親が作るお弁当は何とも美味しそうである。料理の様子も含めて何度か登場するが、パンフレットにはレシピが載っているので料理が好きな人も楽しめる。チャイの屋台を営み階級はバラモンの父親は、なぜか映画を低級な仕事と見ていて、サマイの言動にいい顔をしない。
サマイというのは「時間」という意味だそう。映写技師のファザルにサマイは言う。
「お父さんとお母さんには金も仕事もなかった。あるのは時間だけだった。だから僕が生まれたとき、サマイと名付けたんだ。」
監督・脚本はインドのパン・ナリン。自伝映画だという。
「実際に母も料理上手で、父は田舎町の駅でチャイを売っていました。そこはだだっ広い野原と果てしなく広がる空しかないような場所で、列車以外は遠くの空に飛行機が見えるだけ。その飛行機だけが外の世界とのつながりでした。」
サマイはやがて映画を仕事にしたいと思うようになる。駅に到着する映画のフィルムを仲間と盗んで、自分たちで上映することが出来ないか、試行錯誤を始める。少年のサマイは、映画の内容よりもむしろ技術的なことに強く惹かれている。それは映写室から映画を観るという体験と無縁でないかもしれない。
しかし映画が途中で終わってしまったり、いい場面が切れてしまったりすることに観客たちが騒ぎ始め、フィルムが到着するサマイたちの駅に警官がやってくる…。
映画の終盤、時代が映画上映技術としてのフィルムを追い越し、捨て去ってゆく。サマイは大量のフィルムが捨て去られるありさまを目撃し、ある決意をする。
「光を勉強したいんだ。光が物語を写し、物語が映画を産む。」
大切なものを守るために、大切なものを守る力が必要なのだ。彼は何を守りたいのか。そしてそのために必要な力とは?インドの片田舎で生まれたある映画少年の、無邪気で前向きな力強さに思わず感動を覚える。
監督・脚本・プロデューサー:パン・ナリン
主演:バヴィン・ラバリ、バヴェーシュ・シュリマリ
インド・フランス 2021 / 112分
映画『エンドロールのつづき』公式サイト|2023年1月20日(金)公開 (shochiku.co.jp)
そばかす
4人で盛り上がっているように見える合コンだが、女性のひとりはつまらなさそう。男性が気を使って話を振ってもなかなか入り込めない。その女性は蘇畑佳純(そばたかすみ・三浦透子)。映画が好きだというので、男は二人で見に行こうと誘うが、佳純は戸惑うような困ったような笑みを浮かべるだけ。帰りに一人でラーメン屋によって、うまそうに啜る。そんな人だ。
見ていくとだんだんと分かってくるが、佳純は恋愛や性的なことに全く興味がわかない質だ。そんな人がいるなんて周りは思わないから、佳純は何かと苦労する。特に母親は結婚させようとやっきになっている。
あるとき騙されて見合いの席に着くことになった佳純だが、相手がまだ恋愛するつもりはないと知って、逆に意気投合。泊りがけのバイク旅行をするほどの友人となる。しかし、相手のほうがだんだんと、佳純に対して異性としての興味を持ち始めてしまう。とまどう佳純はうまく自分のことを説明できず、結局は怒らせてしまう…。
監督は、玉田真也。企画・原作・脚本は、アサダアツシ。この作品の着想について問われ、アサダアツシはこう答えている。
「映画『his』を作る過程で、いろんなセクシャルマイノリティの方のお話を聞く機会があり、アロマンティック・アセクシャルの方と知り合ったのがきっかけです。人は誰かを好きになるものだと刷り込まれていた僕にとって、恋愛感情を持たない人が存在することは結構衝撃的でした。…恋愛感情を抱かない人にはこの世界がどんな風に見えているのだろうという興味がわいたんです。」
そういう人がいるだろうとは思うが、アロマンティック・アセクシャルという風に名前がついてカテゴライズされるほど多くいることに驚いた。(私が知らなかっただけで、例えばこういうドラマもあったようです。恋せぬふたり - NHK)
物語は、中学時代の同級生、世永真帆(前田敦子)が佳純の前に現れることで動き始める。東京でAV女優として活躍し地元に戻ってきていた真帆は、女性に対する世間の価値観に違和感を抱いていた。
ある時、佳純が務める保育園で、デジタル紙芝居を作ることになり、佳純は「シンデレラ」の物語を脚本する。しかし真帆は、シンデレラがいかにおかしな価値観(王子様に見初められることが女性の最大の幸福)に縛られているかを力説する。佳純はまったく同じ考えだと語り、自分たちの「シンデレラ」を作ろうと真帆と一緒に新たな物語を書き始める…。
三浦透子と前田敦子の存在感に圧倒される。紆余曲折の物語をもう少しシンプルにしても良かったように思うが、語りたいことが多くあるのだろう。特に終盤に登場する保育園の新人、天藤光(北村匠海)の言葉が印象に残った。
「同じように考えてる人がいて、どこかで生きてるんだったらそれでいいやって思いました」
監督:玉田真也
企画・原作・脚本:アサダアツシ
ケイコ目を澄ませて
東京の下町。小さな部屋でちゃぶ台を前に座り、若い女性が何かノートに書きつけている。その鉛筆の音だけが静かな部屋に響く。ただケイコにその音は聞こえない。ケイコは生まれつきの感応性難聴で両耳とも聞こえないのだ。
ケイコ(岸井ゆきの)は近くの古ぼけたボクシングジムに通っている。男性に交じってひたすら汗を流す。プロボクサーになったばかり。これまでの戦績は1勝0敗、間もなく第2戦を控えている。練習が終わるたび、ケイコはリングの下で小さなノートに何かメモを取っている。何が書いてあるかは分からない。
年明けの第2戦。ケイコはかろうじて判定勝ちをした。しかし満足のいく勝ち方ではない。母親はそんなケイコを心配し、
「もう十分じゃないの?」
と言う。母親が撮影した試合の写真は、ほとんどがブレてまともに映っているものがない。怖くて見てられないのだ。これからどうするか、ケイコにも迷いが生じ始める。
「一度お休みしたいです」
というメモを書くのだが、事務の会長になかなか渡せないでいた。いったい何のためにボクシングをやっているのか、本人にも分からないのかもしれない。ただ、第3戦もすでに2か月後に迫っていた…。
監督は「きみの鳥はうたえる」の三宅唱。実在のプロボクサー、小笠原恵子さんがモデルだという。
「彼女の生き方について考える時間が、世界の捉え方が少しずつ変化するきっかけになり、また自分自身の生き方も自然と見つめなおす機会になり、それが活力になったような気がします。そういう映画を作りたいと常々思っていました…。」
第2戦の勝利のあと、事務の会長(三浦友和)が記者にインタビューを受けるシーンがある。「プロ選手になれたのはケイコさんに才能があったからでしょうか?」という問いに会長はこう答える。
「才能は、ないねえ。小さいし、リーチは短いしスピードはないし。でもね、人間としての器量があるんですよ。素直で率直で」
この映画は少し変わった作り方をしている。ケイコの紹介の時、ある種のドキュメンタリー映画のように、文章をテロップで見せる。また場面につける音楽は一切なく、映画の本質的なところで耳が聞こえないことが邪魔にならないようにできている。逆に手話で雑談しているような場面は、説明のテロップはない。
3戦目が近づく中、ジムに閉鎖のうわさが流れる。会長の体調が思わしくないのだ。ケイコはこの会長がいたからここでボクシングをしているのかもしれない。みていると心が自然に通っているのが分かる。
ケイコの書いた日記風のノートに、ジムの閉鎖について書かれた言葉がある。
「許せない…」
この作品は、「ハレ」を描く「映画らしさ」というものを捨象して、ケイコの日々の感情に寄り添う。そこには観客にとって分かりやすいものは映らないが、「目を澄ます」と見えてくるものがある。それはケイコに投影した自分自身かもしれないし、これまで生きてきてこれからも生きてゆく理由かもしれない。
いずれにしても「目を澄ませて」と呼び掛けているのはケイコにではなく、観客に対してなのだ。そのことは強く伝わってくる。
監督・脚本:三宅唱
主演:岸井ゆきの、三浦友和、松浦慎一郎
日本 2022/ 99分
原案:「負けないで!」小笠原恵子著(創出版)
映画『ケイコ 目を澄ませて』公式サイト (happinet-phantom.com)