映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

夜明け

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遠い空で明るみ始めた山間の空気が青っぽく見えるのはどうしてだろう。一人の若者がふらふらと歩いてくると、橋の欄干によりかかり苦し気に息を吸い込む。手には花束。立っているのが辛いように、何度も顔を歪める。若者の、夜が終わろうとしている。

 

川の岸辺に若者が倒れているのを見つけたのは、木工所を営む哲郎だった。若者は哲郎の家で目を覚ますと「ヨシダシンイチ」と名乗った。

 

「なんだか、ありきたりな名前だな」
「すいません」
「なんで謝るんだよ」
「いえ」

 

哲郎は深く詮索しない。そのことが心地いいのか、シンイチはこの家に居つくようになり、木工所の手伝いをするようになる。哲郎の息子はすでに亡くなっているが、「シンイチ」はその息子の名前と同じだと嫌でも気づくことになる。若者はここに来るまでに何があったのか、物語はその謎を抱えながら進む。

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監督は広瀬奈々子。是枝裕和西川美和が主宰する制作者集団「分福」の新人だそうだ。

「他人に救いの手を差し伸べるというのは美談ではありますが、反面、優位な人間のエゴもどこかにあるのではないかと思います。また、その救いに依存する側にも、権力に媚びる卑しさや、自分を見失う危険をはらんでいます。・・・歪んだ関係の中にある複雑な感情を紡いだ作品ですが、物語はとてもシンプルです。主人公のもどかしい道程を、どうか辛抱強く見守ってください。」

 

木工所で仲間と働く日々の中で、次第に哲郎の過去に何があったのか、シンイチの過去に何があったのかが明らかにされてゆく。ある時河原でシンイチの財布を拾った哲郎は、シンイチに言う。

 

「死んだって何にもなんないぞ。どんなことがあったって、死んで解決することなんて何一つない。」

 

シンイチが答える。

 

「じゃあ生きてることに意味はあるんですか。正直こんな人生ならどうでもいいですよ。」

 

生きてることに意味はあるのか。このシンプルな問いにどう答えればいいのか、しばらくそのことを考えた。考え至ったのはこういうことだ。生きていることに意味はある。しかしどういう意味があるのかは誰にも決して分からない。そして、分からないからこそ存在するすべてがどこかでつながっているような気がする。

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シンイチは哲郎の好意に甘え、木工の仕事を続ける気になる。しかし、過去この町で起きたある事件とシンイチとの関わりを疑う人間が現れ、それと同時並行するように哲郎のかかわり方の密度が増してゆき、次第に落ち着きを失ってゆく。

 

シンイチではないシンイチは、やがてシンイチであることに耐えられなくなる。人はやはり自分以外のものになれない。自分であることは苦しいが、自分以外のものであろうとすることはもっと苦しい。そして爆発する時がやってくる。              

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シンイチという人間は人とのかかわり方がとても不器用で、あえて言えばとても歪んでいる。そのことは最後まで変わらない。どうして自分の意志を表わすのに、こんなにも周囲を傷つけてしまうのか。映画のあとのシンイチもおそらく変わらず、自分の居場所が本当に見つかるまで長いながい放浪を繰り返すのだろう。

 

映画はなぜ彼の人生のこの期間を切り取ったのか。気がつくと元の場所に戻っている。この映画の夜明けは決して明るくない。次の夜が来る始まりのような、苦い青色につつまれたままだ。

 

監督・脚本:広瀬奈々子
主演:柳楽優弥小林薫
日本  2019 / 113分


公式サイト

https://yoake-movie.com/

こんな夜更けにバナナかよ

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車いすに座った男が、周囲の人たちに命令口調で指示を出す。水が飲みたい、背中がかゆい、寝たい、起きたい、横向きたい…。そこまで言っていたか記憶にないがそんな感じ。周りの動きが自分の意に染まないと、容赦なく叱責を飛ばす。男は鹿野靖明34歳。筋ジストロフィーという難病で、今体で動かせるのは首と手だけだという。

 

そこへ田中君というボランティアの彼女、美咲がやってくる。鹿野は美咲に一目ぼれ。何の関係もなかったのだが、強引に泊りのボランティアに参加させられてしまう。夜中の2時になっても鹿野のしゃべりは止まらない。もともと寝つきが悪いのでボランティアに付き合わせているのだ。そして急に「バナナが食べたい」と言い出す。うんざりする美咲だったが、バナナを買いに近所を走り回る。怒ったようにバナナを鹿野の前にたたきつけると、怒った顔の美咲を見て鹿野はこう言い放つ。

 

「何か今ぐっと来たー」                                            

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その後も恋人の田中に頼まれ、鹿野のボランティアに参加する美咲だったが、あまりの傍若無人ぶりについに怒りが爆発。

 

「鹿野さんは、何様?障がい者だったら何言っても言い訳?」

 

と言い残し出て行ってしまう。

 

監督は前田哲。原作は渡辺一史の同名のノンフィクション。つまり実話である。

 

「最初に決めたのは『鹿野さんは、何様?』と言えてしまうヒロインでした。美咲には障がい者だからという壁が最初からありません。対する田中は、まさに『~だから』の人で、自分の中に壁をつくり自分を呪縛してしまっている。鹿野、美咲、田中の三角関係を軸に物語を進めることにしました。」

 

物語は、思ったことをはっきりと言えない田中と、思ったことしか言わない鹿野の間を揺れる美咲、という三角関係で進む。美咲もうじうじしたことが嫌いで、はっきりと意思表示する人間なので、鹿野に少しずつ心を許してゆく。やがて二人の仲は田中が嫉妬する事態にまで…。

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原作でバナナのくだりを読むと、若干状況が違っている。ボランティアの国吉という若者がこんな真夜中に、と思いながらバナナを食べさせているのだ。

 

「『で、ようやく1本食べ終わったと思って、皮をゴミ箱に投げ捨てて…』
もういいだろう。寝かせてくれ。そんな態度を全身にみなぎらせて、ベッドにもぐり込もうとする国吉に向かって、鹿野が言った。
『国ちゃん、もう1本』
なにィー!という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは、急速に冷えていったという。
『あの気持ちの変化は、今でも不思議なんですよね。もう、この人の言うことは、なんでも聞いてやろう。あそこまでワガママがいえるっていうのは、ある意味、立派。』」
                                                                  (「こんな夜更けにバナナかよ」渡辺一史著)

 

鹿野はなぜこうもわがままで傍若無人なのか。性格と言ってしまえばそれまでだが、首と手しか動かせず、ほとんどすべてを他人の手に委ねる必要がある鹿野にとって、自分の欲望を実現させることは、単なるわがまま以上の「自立」の大きな基礎になっているらしい。原作の渡辺一史はこう語っている。

 

「従来、自立というのは『他人の助けを借りずに、自分でなんでもできること』…を意味していました。しかし、そうではなくて、自立というのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めること、そのために他人や社会に堂々と助けを求めることである。彼らがそんなふうに『自立』の意味を180度転換してくれました。」                                        

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バナナの話でさらに驚くのは、ボランティアの国吉の怒りが消えたことより、鹿野がこうしたことを意識的に行っていると言っていることだ。「自分の殻を割らない」「自分探しをやっている」ボランティアがいれば、その人が変わる可能性を待っているというのだ。

 

「ボランティアは一人ひとり、考え方も違えば、価値観も違う。・・・そこをオレがなんとか引っぱってきて、引きずりだす。それがテクニックさ。」
                                                                  (「こんな夜更けにバナナかよ」渡辺一史著)

 

何もかもオープンにしなければ生きていけない鹿野にとって、「殻をかぶった」人間がまだるっこしく見えているのは間違いない。本音を言えよ、と叫んでいるのだ。こうした強烈なキャラクターに出会うと、人はやはり変わっていかざるを得ないだろうなと思う。

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三角関係のなか、美咲に対して自らを「偽善者」と自嘲し、医学生でありながら医者の道を諦めるとまで言い出した田中。映画の終盤、田中は鹿野にこう言い募る。

 

「正直って何ですか?正直に生きるってそんなにいいことですか?振り回されるまわりの身にもなってくださいよ。」

 

果たして3人はどうなっていくのか―。偽善の善も、善は善、と私のような人間は考えてしまう。そんなに純粋な善がどこにあるのか、と。正直であるとは悪であることではない。善と悪の間をいったりきたりする人間だと認めることだ。その振れ幅のなかにその人の個性がある。

 

監督:前田哲

脚本:橋本裕志

原作:「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」渡辺一史著(文春文庫)

主演:大泉洋高畑充希三浦春馬
日本  2018 / 120分

公式サイト

http://www.bananakayo.jp/

アリー/スター誕生

 

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ステージを終えた男は、倒れこむように車に乗り込み瓶酒をあおる。途中で車を止め、ふと見つけたバーに入ってゆく。男は店員が興奮するほど顔の知られた人気歌手だ。にぎやかな店内で、昼間ウェイトレスをして働く女が、ラヴィアンローズを歌っている。これが二人の出会いである。

 

深夜スーパーの駐車場で語り合う二人。女は男の話を聞いて即席で歌を口ずさむ。

 

話を聞かせてよ
心の穴を必死に埋めてきたのね
まだ必要なの?
平気な顔して
つらくない?

 

まぎれもない才能。男はアレンジして自分の舞台で歌わせる。すぐに注目されスターダムをのし上がってゆく女。しかし男、ジャックは反比例するように酒浸りになり落ちてゆく。セクシーなダンスが気に入らないと、酒を飲んではくだを巻き「醜い」とまで口走る。女、アリーはついにグラミー賞の新人賞にノミネートされるが、その席上で決定的な事件が起こる…。                                                           

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監督は主演も兼ねたブラッドリー・クーパーで、その見事な歌声も披露している。

「かねてから僕は“愛”に関する物語を作りたかった。どんな人でも感情移入できるものだと思う。恋愛そのものにせよ、失恋にせよ、その高揚感にせよ。恋というのは、人が一番生きている実感を味わうもの。もともと僕は、すべての映画は癒しを与えるものであるべきだと信じているんだ。癒しを最大限に提供する題材に、恋愛以上のものはないと信じている。」

 

事件の後、ジャックはアルコール依存症治療のため入院する。自分の行動が、アリーの将来もズタズタにしてしまったかもしれない。

 

見舞いに訪れたアリーは、

「あなた、この後どうするの?帰ってくる?」

と聞く。

「・・・どうしてそんなことを聞く?」

「気にしないで、ただ聞いただけよ。」

「・・・」

「本当にただ聞いただけ」

 

このさりげない会話が妙にリアリティがあって、映画を見終わった後も何度も反芻してしまった。微妙にすれ違う会話がこの後の二人を暗示している。何気なく聞いた一言が、ジャックの心に一抹の疑念を抱かせる。その疑念が沸点近くになった時、ある男が訪ねてくる…。 

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アリーは男を最後まで見捨てることをしない。自分の夢のためだとか、ファンのためだとか、興行的なことのためだとか、そういう言い訳を自分にしない。そういうことはやはりなかなかできるものではない。

 

「愛しすぎている」

 

とマネージャーは言うが、それとも少し違うような気がする。もう少し根本的な人間の在り方のような。もちろん自分の夢のために男を捨てる選択が悪いわけではない。そういう女性を多くの物語の中で見てきた。そしてそのことを大して不思議とも思わず、賞賛すらしてきたかもしれない。

 

だが、その賞賛は自分の気持ちに無理を強いていたのかとも思う。アリーの生きざまを見ていると。なぜか気持ちが温かくなる。人間に対する信頼が呼び覚まされる。

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演じるレディ・ガガの歌声は素晴らしく、とてつもない力がある。そのせいなのか、これが実話のドラマ化のような印象を与えて、展開の無理があまり気にならない。そしてその歌声だけではなく、アリーの生きてゆく態度が私たちにあたたかな希望を与えてくれる、そんな映画である。

 

監督・脚本・主演:ブラッドリー・クーパー
主演:レディ・ガガサム・エリオット
アメリカ  2018 / 136分

公式サイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/starisborn/

日日是好日

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家族でフェリーニの「道」を見に行った。小学校5年だった。典子は何がいいか、さっぱり分からなかった。しかし、

 

「世の中には『すぐわかるもの』と、『すぐわからないもの』の二種類がある。すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる。」

 

という。「道」も、「お茶」も。

 

原作はエッセイストの森下典子が書いた「日日是好日」で、実話。映画は原作にほぼ忠実に作られている。     

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 大学生の典子(黒木華)は、従姉の美智子(多部未華子)と近所の武田先生(樹木希林)のもとで「お茶」を習い始める。それから四半世紀、人生の折々に体験することがらが、お茶の体験と交差しながら、それぞれの意味を深めてゆく。

 

お茶には細かな決まりごとが無数にあるが、その決まりごとの意味を先生は教えてくれるわけではない。なぜ茶室に入るときに左足から入るのか、なぜ畳一帖を六歩で歩かなければならないのか、なぜお茶を飲み干す時、ずずっと音を立てるのか―。

 

「意味なんてわからなくていいの。お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」

 

監督の大森立嗣は言う。


「原作で特に面白かったのは、お茶の世界って、まず形を作って、そこに心を入れてくるんだというところ。自分が、自分が、という感じの個性を主張しないで、どんどん個性を無くしていったはずなのに、でもそこに間違いなく自分がいる。その様子が、なんとなく黒木さんの印象とつながっているような気がしました。」

 

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「形」とはおそらく最もベーシックな部分であり、それを守ることで最低限の水準をクリアできるものだ。しかし「形」を繰り返し繰り返し辿ることで、やがて「形」の別の意味が現れてくる。「形」は「形」でなくなり「形」を踏襲する「人間」が反映されてくるのだろう。

 

ただ、それまでにどのくらいの時間がかかるかは誰にも分からない。そんな気の長い話に付き合いきれない、という人はさっさと「自己」を探しはじめ、他にはない「個性」を見つけるのに躍起となる。どちらがいいとか正しいとかいう話ではない。ただ「形」を無くすことは自由であるがゆえに、自分で一からすべてを見出してゆくという、気楽に見えて最も困難な道となる。

 

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この映画はクライマックスがあるわけではなく(まああると言えばあるのですが)、すべてのエピソードが等価で描かれる。終わりそうで終わらない物語は、人生という当たり前の時間の流れを感じさせる。自分の人生のクライマックスなんて誰にも分からないのだ。

 

特に茶室の場面では、映画館で流れてくるはずのない日本間の畳の匂いであったり、鼻先を潤す雨の匂いを感じる。細やかな季節の移ろいがいかに美しいものであるか、日本という国に暮らしながらその美しさを十分には甘受できていない自分に対する、憐れみのような感情さえ湧きおこってくる。そんな映画である。

 

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監督・脚本:大森立嗣
主演:黒木華樹木希林多部未華子
日本  2018 / 100分

公式サイト

https://www.nichinichimovie.jp/

判決、ふたつの希望

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レバノンベイルート。ある政治集会の模様が映し出される。人々は党首の演説に酔いしれている。キリスト教右派系のこの政党を支持するトニーは、アパートに帰ると身重の妻と二人暮らしだ。ある日、ベランダの水漏れ修理をしたいと現場監督の男が訪ねてくる。トニーはけんもほろろに追い返す。一目見るなりパレスチナ難民と気づいたからだ。

 

ヤーセルという現場監督は強引に修理を始めるが、トニーはそれを見るや、取り付けた配水管を叩き壊してしまう。怒ったヤーセルはトニーに「くず野郎!」と罵声を浴びせる。これにはトニーが黙っていられず、建設会社に乗り込んで謝罪を要求する…。うまくコミュニケーションが取れず事態が悪化する典型のような話が展開してゆく。

 

映画を見るまでよく知らなかったが、レバノンは18もの宗派が混在するモザイク国家だという。キリスト教イスラム教各宗派それぞれに対立する要素を抱えているわけだが、そうした中でパレスチナ難民は、キリスト教徒にとって、戦火を招く厄介な存在と思われている。イスラエルレバノン侵攻は彼らのせいだと考えているらしいのだ。二人のつまらない諍いには、根強い社会的な背景がある。                 

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トニーは執拗に謝罪を求めるが、悪いのはトニーとしか見えない。どう考えればいいのかと思いながら映画は進んでゆく。建設会社の社長に言わせれば、ヤーセルは「謝罪が苦手な人間」だが、会社のことを考えついには謝罪に赴く。ところがここでトニーが逆に罵声を浴びせてしまう。

 

「お前らはろくでなしだ。シャロンに抹殺されていれば良かったのにな」

 

シャロンとは対パレスチナ強硬派の元イスラエル首相のこと。ヤーセルは何も言わず、トニーに近づくやその腹を殴りつけ、ろっ骨を骨折させた。映画はこの後、裁判劇へと展開する…。

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監督は55歳のジアド・ドゥエイリ
「この映画をひと言で要約するなら、『尊厳の探求』となるでしょう。ふたりの主人公はそれぞれ名誉と尊厳を傷つけられ、互いに相手に問題の責任を押しつけて非難し合います。本作は断固として楽観的で人道主義的な映画であり、和解に至るために可能な道を提示しています。」

 

裁判が進むにつれ、それぞれの背景(キリスト教右派パレスチナ難民)に属する外野の人たちが参戦し、やがて国中の大騒ぎとなる。テレビ番組では、トニーの支持する政党の党首が、トニーにこう呼びかける。

 

「誰もが過去に傷を負って生きている。つらいだろうが歴史は変えられない。忘れぬこと。歴史を踏まえ、進むこと。もはや戦いは終わったんだ。」
           

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憎しみあう者同士が和解することは、果たして可能なのだろうか。その昔、和解するためには“許す”必要はない、と聞いたことがある。許さないままに和解する? そんなことが可能なのか、思ったが、それはやはり一種の社会的な知恵なのだと後で気づいた。先ほどの党首の言葉は、許さなくとも良い、和解しなければならないと言っているのだ。

 

ただし映画は別の希望を提示する。外野の喧騒の中で、トニーとヤーセルが少し気持ちを交わすシーンがある。ごく些細で個人的な事柄によって。お互いの背景とは関係のないシチュエーションで。

 

監督は、

「少しずつアドリブで作っていったシーンで、自分でも何がしたいかまったく分からないまま手探りだったが、結果的に映画で最高のシーンになった。」

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映画がここで語っているのは、和解は“個人的には”可能だということだ。宗派や政党同士では無理なことも、個人にかえると可能になる。建前で許せないことも許せたりするのだ、おそらく。

 

裁判の後半、トニーの秘密が明らかにされる。それを知ったヤーセルは、ある行動に出る。ごく個人的な意志をもって。些細なことで始まった諍いは、些細なことで解決するのが良い。判決とは何の関係もないとしても。

 

監督:ジアド・ドゥエイリ
主演:アデル・カラム、カメル・エル=バシャ
レバノン・フランス  2017 / 113分

 

公式サイト

http://longride.jp/insult/

教誨師

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狭い密室にふたりの男が机をはさんで対峙している。一言も発さず静かに目を閉じている男は死刑囚、もう一人はキリスト教教誨師のようだ。教誨師は宗教の教義に基づいて、被収容者と対話を重ねる。ある人は自らの身の上を語り、ある人は刑務官の愚痴を言い、ある人は讃美歌を歌ってみせる。

 

映画はこの狭い密室をほとんど出ることがない。何度も重ねられる6人の死刑囚との対話を、静かに繰り返し映し出す。牧師の佐伯は時折聖書の言葉を伝えようとするが、大抵の場合うまくいかない。よそ行き(に見える)言葉が宙に浮いてしまい、しまいに相手を苛立たせ怒り始める始末だ。

 

文字が読み書きできない進藤という老人は、そのために他人の借金を背負い込んだ。しかしそのことに何の恨みも無く、それどころか自分が金持ちになったようだという。佐伯は進藤に文字の勉強をしないかと誘う。
また、17人もの人間を殺したという高宮という若者(おそらく相模原の障碍者施設殺傷事件をイメージしている)は、いつも佐伯に論争を挑んでくる。佐伯が事件の被害者に触れ「奪われていい命はない」と言えば、「じゃ死刑囚は?」と問い返してくるのだ。  

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死刑囚との対話の中で、佐伯は自らのことを少しずつ話始める。叔父が牧師であったこと。兄が若い時に人を殺してしまったこと。出所前に自死してしまったこと。そして自分のしていることを問い直し始める。

 

監督は佐向大
「死刑囚は『死』を持って罪を償うわけですから、懲役刑や禁固刑と違い、拘置所にいる間は宙ぶらりんな状態で、ただ死を待っている。それってものすごく特殊な状況だと思うんです。でも死が訪れるのはすべての人に言えることで、そう考えると我々だってそう変わらないのではないか。」

 

ずいぶん乱暴な物言いだが、「死」を待つ身であることは確かに変わらない。映画でははっきりとは説明がないが、死刑囚の教誨は特別なことであるらしい。

 

教誨とは、受刑者等が改善更生し、社会に復帰することを支援する仕事です。…ところが、死刑の教誨は特殊です。「生きていく」こころを説くはずの教誨師が、「死んでいく」ことを手伝うことになるからです。」龍谷大学教授・石塚伸一氏 堀川恵子「教誨師」解説)

 

牧師である佐伯の悩みもここにあるのではないか。

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最初何も語らなかった鈴木は、自分のことを語る佐伯に触発されたのか次第に雄弁になってゆく。察するにある女性をストーカーして殺害してしまったらしい。それは周りの人間、両親とか警察とかが自分の愛情を邪魔したためだと思い込んでいる。それに少しでも異を唱えようものなら怒り狂うのだ。

 

ある時その鈴木が、晴れやかに佐伯に語る。「先生の言うように真剣に祈ったら、相手がごめんなさいと言ってくれた」と言うのだ。相手とは被害者のことらしい。

 

「被害者があなたに謝るのですか?」

 

その通りだといい、死後の世界で彼女にプロポーズする希望が生まれ、生き返ったようだという。「あなたのおかげです」と。佐伯は絶句してしまう。
  

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「奪われていい命はない」。それが死刑囚であっても。では彼らの罪はどうなるのか。以前読んだ中村文則の小説「何もかも憂鬱な夜に」の中に次の一節があり、忘れられない。刑務官が死刑囚に語る言葉だ。

 

「俺は死刑にはどうしても抵抗を感じるよ。死刑にはいろいろ問題があるのもそうだけど、人間と、その人間の命は、別のように思うから。…殺したお前に全部責任はあるけど、そのお前の命には、責任はないと思ってるから。お前の命というのは、本当は、お前とは別のものだから。」

 

映画の終盤佐伯は、文字を覚え始めた進藤老人に、大切にしていたグラビア写真の切り抜きを手渡される。その裏にはたどたどしい文字でこう記されていた。

 

「あなたがたのだれがわたしをせめることができるか」

 

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原案・脚本・監督:佐向大
主演:大杉漣古舘寛治光石研、五頭岳夫
日本  2018 / 114分

公式サイト

http://kyoukaishi-movie.com/

ハナレイ・ベイ

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仕事が忙しくなかなか映画を見ることが出来なかった。久しぶりに見たのが村上春樹原作の「ハナレイ・ベイ」だった。

 

ハワイ・カウアイ島のハナレイ湾。美しい入り江の風景は、フラの曲にもたびたびうたわれているという。早朝、日本人の青年がサーフボードに身を預け、海に漕ぎ出す…。鳴り響く電話の音。サチはカウアイ島にやってくると、息子の遺体と対面する。右足は無残に失われている。サメに襲われたのだ。

 

サチは遺骨を持って帰国しようとするが、ふと思いついて滞在を延ばし、息子が亡くなったビーチに座って海を見つめる。1週間。そして毎年同じ時期にここを訪れビーチを眺める。10年間。ある時二人の若い日本人サーファーと知り合い、ハナレイ・ベイに片足のサーファーがいるという話を聞く…。

 

村上春樹は、自分にとって大切な何かを失ってしまった人のかなしみを繰り返し書いているが、この小説もそうである。そのかなしみのなか、生きながらえるために必要なのは、どうにか時間をやり過ごすことだ。それが出来れば再び生きなおすことが出来るかも知れない。時間が大きな波のようにあらゆるものを押し流してゆく。しかし10年経っても流れて行かないものがサチの中にある。朽ちて川面に顔を出す杭のように。                 

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監督は、「トイレのピエタ」の松永大司


「(映画製作の)根底には生きること死ぬことがあるんです。とは言っても、日々、生きていることに感謝とかそういうことではなく、ふとした瞬間に、死んだ人のことや死んだ事実に向き合うと、いま自分が生きている時間に感謝したり世界が輝いて見えたりする。…サチにとって息子の死は当然、悲しいことですが、何か新しい力になればいいとも思っていて。」

 

原作と違って、映画ではかつての夫や息子の具体的なシーンを提示することで、サチの内面をより複雑にしている。DVの夫。何かというと反抗する息子。嫌いだったけど愛情を抱いているという分かりにくい感情を吉田羊の内面を探らせない表情がうまく伝えている。自分には片足のサーファーが見えないことに絶望してサチが叫ぶように言う。

 

「息子を嫌いでした。でも愛しています。ハナレイ・ベイは私を受け入れてくれない。それでも私は受け入れないといけないのでしょうか。」

 

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息子の遺体を確認した日、警官が語った言葉がある。

 

「できることならこう考えてみてください。息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていったのだと」

 

息子は「自然の循環の中に戻っていった」。サチはそのことを理解するために、この場所を繰り返し訪れる。それが「ハナレイ・ベイを受け入れる」ということかもしれない。たとえ相手がかたくなに拒んだとしても。

 

映画の終盤、夫の遺品であり、息子が好んで使っていた古いウォークマンをサチが聞いてみるシーンがある。このシーンの吉田羊はたとえようもなく美しい。癒えないかなしみが希望につながるかもしれないと、とても静かに語っている。                                                     

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脚本・監督・編集:松永大司
主演:吉田羊、佐野玲於村上虹郎
原作:「ハナレイ・ベイ」村上春樹

日本  2018 / 97分

公式サイト

https://hanaleibay-movie.jp/