私に会うまでの1600キロ
荒い息遣いが落ち着くと、岩棚をわたる風の音がする。アメリカカリフォルニア州北部の岩山。見渡す限りの緑。登りついた苦しげな女性。登山靴のなかは親指の爪がはがれかけている。痛みをこらえ、それを自らはがしながら呟く。
「釘よりも、ハンマーになりたい―」
何のことかと思うが、やがて彼女がいつも口ずさむサイモンとガーファンクル「コンドルは飛んでゆく」の歌詞だと分かる。脱いでいた靴はこのあと、崖を転がり落ちる。彼女は毒づきながらもう片方の靴を思い切って投げ捨てる。へえ、一体これからどうするんだろうと驚いてしまう。彼女は書いている。
「迷うまでもなかった。できることはひとつ。歩き続けるのだ。」
それがこの映画の始まりだ。
アメリカ南西部の砂漠と森を、南から北へ1600キロ歩き続けるパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)。この映画は、3か月に及ぶこの厳しい旅にひとりで挑んだ、26歳の女性の物語だ。監督は「ダラス・バイヤーズ・クラブ」が絶賛されたジャン=マルク・ヴァレ。原作は小説家シェリル・スレイドが自らの体験をつづった実話である。
PCTを歩く人は必ず何か理由があるという。彼女は4年前、最愛の母親を亡くした。45歳の若さだった。自棄になり、どんな男とも寝て、ヘロインにおぼれた。知らない男の子どもを妊娠し、夫とも別れた。まさに人生の崖っぷち。ひとは崖っぷちに立ったとき、どのように自らを救うのか。彼女が選んだのは、シンプルな方法だった。ただ目的地に向かって歩くこと。
「シェリル・ストレイドの物語は、人生がどれほどつらく残酷だとしても、人はよい道を進むことができることを思い出させてくれる。」(ジャン=マルク・ヴァレ)
シェリルは、トレイルの要所においてあるポストのノートに自分の名前とともに、自分が愛する作家の言葉を記してゆく。
勇気が君を拒んだら
その上をゆけ
エミリー・ディキンソンと
シェリル・ストレイド
新しい靴をはけば
幼子も世界に恋をする
シェリル・ストレイド
映画では、トレイルしながら彼女の回想シーンが頻繁に挟み込まれる。シェリルの父親はDV夫だった。母親は夫から逃れシングルマザーとなりながらシェリルと弟を育てた。どんなときにも前向きな母親にシェリルは時にイラつく。ある時母親に声を荒げる。
「どうして楽しいの? なにもないのに。一生ローン抱えてこんなボロ家住まい。乱暴な飲んだくれとなんか結婚するから。何に目をつむればのんきに歌えるの?」
母親が答える。
「酔っぱらいの暴力男だったけど、あなたたちを授かったわ。すべていい面を見るのは難しいけど、やるだけの価値はあるわ。」
そしてこうも語るのだ。誇らしく。
「私は最高の自分の見つけ方と、それを手放さない方法を、あなたたちに教えることができる。」
向学心にあふれ、娘と同じ大学に通おうとする母親。好きな作家はジェームズ・ミッチェナーだという。それを聞いたシェリルがミッチェナーは大衆作家だと言って馬鹿にするシーンがある。エミリー・ディキンソンやフラナリー・オコナーが読むに値する作家だと言って、こう付け加える。
「娘が自分より教養を持つようになるって変な感じ?」
シェリルは、こうした母親とのやり取りを、後悔をもって思い出さずにはいられない。母親にしてあげられなかったこと、死んだ後のどうしようもない自分。単純に歩き続けることの苦しみが、少しずつ何かを変えてゆく。旅の終わり近く「会いたい」と泣き崩れるシェリルの後ろ姿。苦しみを重ねた末の素直な涙が胸を打つ。何かを抱えていない人などいないのだ。自分も旅に出てみたい、そう思わせる真摯な力がある。
「もちろん、まだ痛みを感じる部分もあるわ。でもこの本で伝えたかったのは、“変容すること”なの。つまり旅は決して終わることはないのよ。…私にとって変化は受容することなの。」(シェリル・ストレイド)
シェリルはトレイルの最後のポストにも作家の言葉を記帳する。それは母親が好きだったあのジェームズ・ミッチェナーの言葉だった。
人生は驚きの連続
ジェームズ・ミッチェナーと
…シェリル・ストレイド
監督:ジャン=マルク・ヴァレ
脚本:ニック・ホーンビィ
原作:シェリル・ストレイド
原題「WILD」2014/116分
公式サイト
http://www.foxmovies-jp.com/1600kilo/
原作「私に会うまでの1600キロ」静山社