ナイトクローラー
暗闇にぎょろぎょろとした大きな目が浮かぶ。アメリカ、ロサンゼルス。工場の敷地に忍び込んで金網を切り取り盗みだす男。金網を売りに行った工場で、なぜか就活生よろしく自分を売り込む。「勤勉で向上心が強く仕事はすぐ覚える。最初は研修でいい、無給でいいから雇ってくれ」と。相手は軽蔑したように言う。「コソ泥は雇わない。」
男は、相手が自分の行為をどう思うかの自己反省が、まったく欠けている。これは徹底的に一貫していて、そのため男に人間的な雰囲気がない。何かに動かされるロボットのようだ。この男がある偶然から、事故や犯罪現場の悲惨な映像がテレビ局に高く売れることを知り、走り回るようになる。
自分で言うように確かに勤勉で向上心が強い。とにかく嫌がられても至近距離から撮る。時には不法侵入して家の中まで入り込む、もっと悲惨な映像を、もっと陰惨な映像を、もっともっともっと…。男をたきつけ映像を買い取るテレビ局の年配女性ディレクターは言う。「私たちのニュースは、のどを切り裂かれて叫びながら走り回る女なの」だと。男は迷うことなく走り続ける…。
監督・脚本はダン・ギルロイ。この映画を製作するにあたって何人かのナイトクローラー(事件・事故現場の映像を撮り高値で売る業者)を取材したという。
「僕が皆に感じたのは、戦場の兵士や救急隊員と同じようなアドレナリンのほとばしりだね。犯罪現場や誰かの死に目というドラマチックで緊迫感のある状況に身を置くことからそれは生じるんだ。そして奇妙なことに彼らはその中毒になっているようだった。」
「他人の<破滅>の瞬間に、カメラを持って現れる―」これが映画のコピーだが、言いえて妙だと思う。次第に男は事件現場を自ら作り出すようになる。とびきりの映像が撮れるように、絶妙に犯罪者と警察を誘導する。映像の取材者にとって現場にリアルタイムでいることは何物にも代えがたい誘惑だ。そして倫理的には決して許されない行為に手を染めてゆく…。
この男は単純に金のため、残虐で刺激的な映像を求めているだけだ。だから、こうした行為を非難することはたやすい。しかしこれが、社会のために政治家の悪事を映像で暴くとかなんとか、そういう場合だとしたらどうだろうか。その映像が社会を大きく変えるものだったら?あるいは人間の本質に迫る映像を求めるドキュメンタリーの場合だったら…。かつて「ゆきゆきて神軍」を撮ったドキュメンタリー映画監督の原一男はこう語っている。
「まず(取材相手を)アジテーションするとします。そしてアジテーションされる側が、その言葉を自分の体内で一回ろ過させて、それで体を張って何かを起こす、アクションをね。アクションを起こしてこそ見える何かというのがきっとあるはずでね。」
(「踏み越えるキャメラ」原一男)
原一男は取材相手をアジテーションし、その後の変化と行動をカメラに収めてゆく。この手法は賛否両論あるだろう。だがこのようにすることで、何もしなければ見えないその人自身のある側面と、それにまつわる何事かをあぶりだす。取材者がこれから撮りうる映像に積極的に加担する、という意味でこれは映画の男がやっていることと構造が同じだ。(合法かどうかはさておいて)では目的の崇高さがその行為を担保するのだろうか。原はそうではないという。
「何を見たいかって、…“恥ずかしい”ところですよ、言ってみれば。隠したいところ。その恥ずかしいと思う部分を、僕はやっぱり見たいわけ。隠すから見たいと思う。そこがやっぱり徹底しているように思います。」
「正義があるからしようがないというふうに思えたんじゃなくて、これはもう申しわけないと。これはエゴイズムでけっこうです、というようなところまでいっていた。」
(同上)
取材相手の隠しておきたいこと、秘密にしていることをあぶりだしたいという取材者の欲求は、動機や結果の善悪に関係なく、何かインモラルな種を宿しているような気がする。原一男はそれを「子連れ狼」に倣って「冥府魔道」と称した。そのことの自覚無くして本当は取材することなど出来ないのだろう。その意識がない故にこそ映画の男は非難されるべきなのだ、と思う。
ギルロイ監督は逆にこうも言っている。
「この映画はサクセスストーリーだと僕は捉えている。…トラブルを抱えているが、ある種の才能がある若者が、ある世界に足を踏み入れて行き、そのトラブルや才能が罰せられるのではなく報いられる。これはそんなストーリーなんだ。」
しかしこれがアメリカンドリームなら、こんなものが果たして「夢」だろうか。
監督・脚本:ダン・ギルロイ
2014/118分
公式サイト