或る終焉
車のフロントガラス越しに一軒家が見える。しばらくすると女性が出てくる。車に乗り込んで出発した後を追いかける。カメラが運転手の横顔にパンする。やがて正面に向き直ったとき相手の車のすぐ後ろまで来ている。そこで暗転。次に映し出されるのは扉の向こうの浴室。先ほどの運転手が今度は、動けないらしい老女の体を丹念に洗っている。やせ細った体が痛々しく見える。男は介護の仕事をしているようだ。しかし誰を追いかけていたのか、謎のまま男の日常が進む。
エイズを患っていた女性はやがて死ぬ。次は脳こうそくで体が思うように動かない老人の男性。そしてがんが転移した年老いた女性。幾通りもの肉体の衰弱、そして死。誰もが迎えなければならない人生の最期。しかしそれは決して美しいものではないばかりか、汚物にまみれてのたうち回るような峻烈な世界だ。男はその傍らに寄り添うようにして介護を続ける。ある時、がんが転移した患者に、楽に死なせてくれるようお願いされるのだが…。
監督はメキシコのミッシェル・フランコ。祖母に付き添っていた看護師をヒントに作り上げた、という。
「彼女は終末期患者の世話を20年続けていると教えてくれた。喪失と死は彼女の人生の一部であり、この仕事は感情の処理が難しく、慢性うつ病を引き起こしかねないという。それでも彼女は他の仕事に就くことはないだろう。これが彼女の人生であり、キャリアなのだ。彼女は喪の状態から立ち直って再び人生と繋がるために、すぐにまた別の終末期患者を探すのだ。」
ティム・ロス演じる看護師は、度を越えて献身的。患者とほぼ一体化してしまうようだ。そのため家族からはとんだ誤解を生み、セクハラで訴えられたりもする。なぜそこまで?
ミッシェル・フランコは、「この主人公を、死ぬとわかっている患者とだけ親密な関係を持てるようなキャラクターとして考えた」という。
やがて最初のシーンで追いかけていたのは誰なのかが明かされ、彼自身の秘密も明らかにされる。
様々な死に様を見ていると、やはり命が尽きるとはこのようなことなのかと改めて思い知らされる。死を迎えるとはやはり肉体が変化することなのだ。当たり前だけれど。そしてその死にざまは千差万別。徐々に衰弱する覚悟の死もあれば、穏やかな日常をいきなり断ち切られる死もある。その生と死の境目に看護師は向き合い続ける。
そしてやってくるラスト。最後に訪れるこのシーンは誰もが驚愕する。今この日常が続いていくのが当たり前と感じている私たちは、しばらく呆然とする。やがてこの出来事が、これまでこの映画が描いてきたものと深いところで繋がっていることに、改めて気づくことになる。
「僕にとって映画が素晴らしいのは、それが人生を探求するひとつの方法だから。もちろん答えを見つけることはできないけれど、僕らはどんな人間で、どのように生きて、いかに他人と関わりあっていくか、ということを考える手段でもある。」(ミッシェル・フランコ)
監督・脚本:ミッシェル・フランコ
主演:ティム・ロス
原題:CHRONIC
メキシコ・フランス 2015 / 94分
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海よりもまだ深く
駅の階段を降りた先にある立ち食いそば屋。良太は春菊天そばを注文する。美味そうである。西武線清瀬駅。旭が丘団地まではここからバスに乗る。年老いた母親が一人で暮らしているのだ。この日は亡くなった父親の遺品に金目の物を探しに来た。「確か掛け軸が雪舟だったよね…。」と母親につめよるが、母親は父親の物は捨ててしまったと、にべもない。良太、ちょっといじましい。
良太を演じるのは阿部寛。一度新人賞をとったきりパッとしない小説家志望の中年男だ。小説のリサーチと言い訳して興信所で働いているが、無類のギャンブル好きがたたって、いつも金に困っている。しかも、愛想をつかされ離婚した元妻(真木よう子)と一人息子に未練たらたら。ストーカーまがいの尾行までしてしまう。
監督・脚本は「海街diary」の是枝裕和。自分が生まれ育った実在の団地で撮影した。脚本の冒頭に「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」と書いたという。
「仕事だけでなく家庭でも、良太は息子であり、夫であり、父であり、弟でもありながら、何一つまともにできていません。良太をはじめ登場人物はみんな、なりたかったものになれない人生を送っています。考えてみれば団地だって、建て始めた当初は単身の高齢者ばかり暮らす現在の状況を予想だにしていなかったはずです。その切なさと登場人物の切なさを重ね合わせたいと思いました。」
そういえば昔、出張が多かった頃、同じように出張に出かけた先で後輩がつぶやいた言葉が忘れられない。
「ビジネスホテルのバスタブに浸かっていると、俺ここで何やってるんだろうな、って思うんです。」
彼が夢見ていた自分は、田舎のビジネスホテルのバスタブに浸かるような人間では決してなかったのだろう。今でもホテルのバスタブを見るとその時の言葉を思い出す。
なりたかった大人になれるひとなんていない。なぜなら、子どものころなりたかった大人は、あこがれの誰かか、周囲の期待する未来の自分か、だからだ。そんなのは自分ではない。自分ではないのでなれるわけがない。そこからどうしてもそれてしまう自分の足取りは、それだからこそ自分自身のものだ。それに気づいたとき、人は自分の道を歩きはじめることになるのだろう。
一筆書きのようなシンプルな映画だが、思いのほか余韻が深い。良太が単純そうに見えてそう簡単ではないという印象が一因かもしれない。母親役の樹木希林は劇中で「人生なんて単純よ」と言い切るのだが…。
小説家と言うのは、現実世界のマイナスがすべてオセロのようにプラスに反転する、と何かで読んだことがある。だとすれば良太もいじましい自分をそのまま書けばいいのだ。いい小説が出来るかもしれない。それともまだまだマイナスが足りないのだろうか。
未練も夢も捨てなくてよい。ただ自分の未来は彼方にはない。それは場末のビジネスホテルの、汚いバスタブの中から生まれるものかもしれないのだ。
原案・監督・脚本・編集:是枝裕和
主演:阿部寛、樹木希林、真木よう子
日本映画 2016 / 117分
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アイヒマン・ショー
1961年、ナチスの将校でユダヤ人虐殺を推進した責任者、アドルフ・アイヒマンの身柄が拘束された。15年に及ぶ逃亡生活の果てのことだった。身柄はイスラエルに送られ、エルサレムの法廷で裁かれるという。TVプロデューサーのミルトン・フルックマンは、この裁判を放映すべく、奔走する。立ちはだかるのは、テレビカメラを嫌がる判事たち、元ナチスの脅迫、そして自らが選んだ監督との意見の相違だった。
監督は「アンコール‼」のポール・アンドリュー・ウィリアムス。TVプロデューサーを演じるのは、「ホビット」のマーティン・フリーマン。この映画は、アイヒマンの裁判を世界に向けて放映しようとしたテレビマンたちの物語である。
「世界には常に偏見がある。身の毛もよだつようなことが次から次へと起こる。もしそういう過去を忘れてしまえば、また我々は同じことを繰り返すかもしれない。忘れずにいること、記憶していることはとても重要だと思う。」(マーティン・フリーマン)
TVプロデューサーが選んだ監督にはある意図があった。それはアイヒマンがどのような人間か、映像を通じて伝えたいということだった。彼は言う。「彼の内面は必ず身体反応に現れる。それを逃すな」と。
「なにが子煩悩な我々と同じようなありふれた男を、何千人もの子どもを死に追いやる人間に変えたのか、それを見つめるんだ。状況が変われば、誰もがアイヒマンになりうる。」
そして執拗にアイヒマンの表情を追う。しかしアイヒマンは生存者のどのような証言を聞いても、収容所の悲惨な映像を見ても無表情だった…。
作家の開高健はこの裁判を傍聴しこう書いている。
「アイヒマンはいつも無表情である。・・・しじゅうくちびるをけいれんさせて左へ左へつりあげる癖をくりかえす。鼻をゆがめ、口をとがらしたその顔は醜悪と呼んでよかった。」
そして検事総長から証拠となる「虐殺指令所」を見せられた時のことだった。
「たしかに記憶があります。この署名は私のものです」
「君自身がしたのだね?」
「そうです。私自身がしました。しかし……」
彼はつぶやいた。
「しかし、この署名は私の人格とは何の関係もないのです」
(「裁きは終わりぬ」開高健)
アイヒマンは、自分の意思でなくただ命令に従っただけだと繰り返し語る。ただ、それが事実だとしても責任は生じるだろう。同じように原稿を依頼され現地で傍聴していた哲学者に、ハンナ・アーレントがいる。彼女は何も考えずにいることは、人間であることを放棄したことだと語る。彼女の伝記映画(「ハンナ・アーレント」マルガレーテ・フォン・トロッタ監督2012)の中のセリフにこういうくだりがある。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。…人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。…私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」
映画「ハンナ・アーレント」
考えることによって人間は人間でありうる、という言葉には説得力がある。しかしアイヒマンは本当に何も考えていなかったのだろうか。彼なりに考えた末に選んだ結論が命令を忠実に実行することだったのではないか。そういう疑問が浮かぶ。
人間は誰しもそんなに強靭な思考力があるわけでもないし、強くもない。だから本当は「危機的状況」に至る前に「考え抜」かねばならないのだろう。映画の中で監督が言ったように、状況が変わって誰もがアイヒマンにならないために。
彼らが撮影した映像は、世界37か国で放映された。裁判そのものには賛否両論があるようだが、裁判の記録映像が与えた衝撃は計り知れない。アイヒマンがどのような人間であるのか、全世界に伝わったのだ。それは感情をあらわにするだろうと予測した、監督の意図に反する形でではあったが。
主演:マーティン・フリーマン、アンソニー・ラパリア
イギリス映画 2015 / 96分
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山河ノスタルジア
ペットショップボーイズの「GO・WEST」にあわせて若者たちが踊る。中国山西省の田舎町、汾陽。その中に25歳の美しいタオがいる。1999年、この時タオには、思いを寄せられている二人の幼なじみがいる。一人は内気な炭鉱労働者、一人は自信たっぷりの実業家だ。二人の間で揺れ動きながら一方を選択するタオだったが…。映画はこのあと27年にわたってタオの人生を点描することになる。
監督は「長江哀歌」「罪の手ざわり」の中国気鋭ジャ・ジャンク―。
「昔は世俗的な話には興味がなかったが、今はありきたりな物語をどう撮るかが大事だと思えるようになった。」
2014年、離婚したタオは、上海にいる夫に長男の親権を譲って一人で暮らしている。祖父の葬儀で久しぶりに会う息子に、得意の餃子を作って食べさせるタオ。そして2026年、長男のダオラーは成長しオーストラリアの大学に通う。しかし、中国語が話せず父親とコミュニケーションが取れずにいた…。
監督の言うように特別な人間が出てくるわけではない。どちらかと言うと皆典型的な人物だ。ただ2026年の大学で、年配の語学教師だけは典型から外れている。少し謎めいたところのある女性で、ダオラーは次第に惹かれてゆく。それまで12年、母親と会っていないダオラーの封印された思いが、彼女に触れることで溢れ出す。
「名前はタオ。“波”と同じ発音なんだ」
それでも母に会うことをためらうダオラーに、彼女が言う。
「時間がすべてを変えるわけじゃないのよ」
その時、初老となったタオは中国の田舎町でひとり、餃子を作っている。若いころから作ってきたあの餃子だ。タオは、息子に呼びかけられたようで思わず振り返る…。
映画は変わらぬものを描き、そのことがしきりと胸を打つ。なぜなのだろう。
先日リバイバル上映された「バベットの晩餐会」を見に行った。この作品も変わらぬものを描き心にしみる。
ノルウェーの寒村の教会。厳格な牧師のもとに暮らす美しい姉妹がいた。姉のマチーヌに心惹かれながら、ついに恋を打ち明けずに去った将校が、30年後の晩餐会にやってくる。それぞれがもう若くはない。バベットが作る素晴らしい晩餐のあと、かつて別れの挨拶を交わした同じ玄関で向き合う。将軍となった彼が言う。
「わたしはこれまでずっと、毎日あなたとともにいたのです。お答えください、あなたもそれをご存じだったと」
すると彼女が何の迷いもなく答える。
「ええ、そのとおりでした」
時の流れは多くの傷を癒してくれる。だから錯覚してしまうが、時の流れで色々なことが変わってしまうことに、実は私たちはとても傷つけられているのだ。
映画の終盤、タオは雪の降りしきる町に出る。そして誰もいない広場で、記憶の中の「GO・WEST」にあわせ、静かに踊る。雪の向こうに、いつも変わらぬ町の建物が見える。思えばタオはこの地を離れることがなかった。
永遠に続くように思えた時間はいつか終わり、この雪もいつか止む。そのことに傷つき、同じそのことに救われる。
監督・脚本:ジャ・ジャンクー
主演:チャオ・タオ、チャン・イー、リャン・ジンドン
中国・日本・フランス 2015 / 125分
公式サイト
http://www.bitters.co.jp/sanga/
「バベットの晩餐会」
スポットライト 世紀のスクープ
アメリカ、ボストン。地元の名門新聞「ボストン・グローブ」に新しい編集局長がやってくる。それが物語の始まりである。彼は着任早々、神父が児童に性的虐待を加えていた事件を調べるように命ずる。30年の間に80人もの児童に手を出したケーガン神父の事件だ。事実の深刻さに比べて、この事件の取り扱いがこれまで少なすぎるというのだ。調べてゆくうち事態は予想を超えた広がりを見せてゆく…。
監督・脚本はトム・マッカーシー。
「この作品で教会をバッシングするつもりはない。これは『なぜこのようなことが起きてしまったのか』という問いかけだ。子どもへの虐待だけでなく、その虐待を隠ぺいしようとした組織ぐるみの悪しき行いが教会内にあった。そしていまだに行われているところもあるかもしれない。なぜ誰も声を上げずに、この虐待が何十年も横行することを許してしまったのだろうか。」
教会という権威への挑戦と、周囲の無理解をものともせず続けられた粘り強い取材…。この映画は記者たちの調査報道の輝かしい実績として語られている。しかし、むしろ印象に残ったのは、数年前に同じ情報を提供されたとき、その重要性に気付かず小さな記事で済ませたという事実だ。それは勇気がなかった、ということとは少し違う気がする。
徹底した取材を命じた編集局長は言う。
「我々が歩んでいるのは暗闇の中だ。光が当たらないと、そこが間違った道なのかどうかが分からない。」
私たちが見る世界はいくつものフィルターがかかっていて、見えているのに見ていないことって結構あるのだろう。そして自分の見ている世界、感じている世界が唯一と思ってしまっているのだ。神父が何か悪いことをしている。しかしそれほどひどいことではあるまい。だって神父なのだから、と。しかしフィルターを一つ外すだけで、別の世界が姿を現す。壁の反対側に一面に白アリがこびりついているようなものだ。
そして壁を崩してもまたその奥に、また崩してもその奥に。白アリは消えてくれない。ボストン・グローブ紙は2002年、600本の記事を書いた。記事が出た後全世界で報告された神父によるレイプは4000件に及んだという。
日常の習慣、惰性、権威へのおもねり…、様々なフィルターを取り払って、壁の向こう側の小さな音に耳を澄ますこと。それはとても困難なことに違いない。だから、その道を歩むことの出来た人には栄光がある。この記者たちのように。しかしそこに栄光があるということそれ自体が、逆に人間社会の生きづらさを明かしてもいるのだ。
監督:トム・マッカーシー
脚本:ジョシュ・シンガー、トム・マッカーシー
主演:マーク・ラファロ、マイケル・キートン、レイチェル・マクアダムス
アメリカ映画 2015 / 128分
公式サイト
ルーム
朝起きると身の回りの様々なものにあいさつする。ランプさん、おはよう。椅子さん、おはよう、と。一日の始まり。母と子がストレッチ。これも毎日の日課のようだ。「部屋」には窓がなく、外の明かりは天窓だけ。今日はジャックの5歳の誕生日。母と子はこの部屋から出ることなくケーキを作って過ごす。しかしこの日1日だけではない。7年間、一度も外に出たことがないのだ。
母親は17歳の時、だまされて連れてこられ監禁された。ジャックはこの部屋の中しか世界を知らない。なぜか時折大人の男がやってきて、その間だけ洋服ダンスの中で眠る。ジャックを演じるジェイコブ・トレンブレイがとてもかわいい。子どもは子どもでこの世界の中で精いっぱい成長を続けているのが分かる。5歳の誕生日を機に、母親は子どもに本当のことを話す。そして脱出を試みるのだが…。
監督はレニー・アブラハムソン。脚本が原作小説を書いたエマ・ドナヒューである。レニーがエマに書いた手紙にはこう書かれていたという。
「部屋はジャックにとってはすべてであり、ママにとっては牢獄だ。そこはとても豊かな、物語にあふれ、同じ日々が繰り返される場所。」
子どもは実に素直である。与えられた世界をとりあえず生きるしかないからだ。その与えられた世界を豊かにする天才でもある。でももし、今までの世界は嘘で、この壁の向こうに本当の世界があると言われたら、どうだろうか。さらにその世界に飛び込めと言われたら?私たち大人では無理かもしれない。ジャックは最初拒否するが、母親を信じ、そのとてつもない「跳躍」をやってのける。
初めて見る広い青空、初めての街路樹、初めての風。未知への驚きと不安と喜びがないまぜになったジャックの表情は、一度見ると忘れられない。生きるとはこのような表情を見せることをいうのだ、と思う。この時ジャックは本当の意味で生き始める。
しかし逆に母親は、元の世界に戻ったことで、自分の欠落と向き合わなければならなくなる。あり得たかもしれない人生の可能性、なぜ友人ではなく自分だったのか。極めつけはマスコミの質問だ。子どもに父親のことを話すのか?子どもが生まれた時、なぜ犯人に子どもだけは外の世界においてきてくれと頼まなかったのか?
…直後に彼女の中の何かが切れてしまう。
「人々がたとえ非常に暗いことを経験している最中であっても、人生に価値や希望や救済を見出す力を持っていることを描いている。それにこれはラブストーリーだ。母親と子供の愛の物語。人々は宣伝文句を見て『なんだか暗そうだな』と言うかもしれないが、そうじゃない。常に、最初から、光に向かう旅路だ。」
ふたりはどこへ向かうのか。ジャックは母親を助けるためにある決意をする…。運命は母親に地獄を味わわせたが、同じ運命がジャックを母親のもとに連れて来た。その未来を信じるに足るやさしく勇敢な子供を。
監督:レニー・アブラハムソン
脚本:エマ・ドナヒュー
主演:ブリー・ラーソン、ジェイコブ・トレンブレイ
原題「ROOM」
原作:エマ・ドナヒュー「部屋」上下巻(講談社文庫)
アイルランド・カナダ映画 2015 / 118分
公式サイト
リップヴァンウィンクルの花嫁
雑踏の中、一人の女性が男性を待っている。初めて会う相手のようだ。スマホでお互いの位置を確認しあう。ようやく会えると男性がカフェに誘う。女性がついてゆく。黒木華である。
黒木華を見るために映画館に行った。渋谷のユーロスペースは休日のせいか、満席。ぎゅうぎゅう詰めの観客席で、岩井俊二監督の期待にたがわぬ映像を堪能する。女性を撮るのがうまいと言われる。彼の見たいと欲する映像が、女優の魅力のある焦点に合致する。幸福な人である。ただ少ししつこい場面もあったけれど。
渋谷ユーロスペース
物語はいつもうつむき加減に生きている主人公の七海が、様々な出会いや事件を通して成長してゆく、そんな姿を描く。SNSで本音を呟きながら、リアルのつながりは希薄なままただ流されてゆく七海。「ネットで買い物をするように彼氏も手に入れた」。
「でも七海を否定的に描いたわけではなく、どちらかというとSNSという発明によって出会いが生まれているということの是非を、彼女を通して描きたかった。保守的な考えでいうと、そんな出会いは本当の出会いといえるのかとなるんだけど、じゃあ逆に今までの装置はどうだったのかと。」(岩井俊二インタビューから)
やがて七海はひょんなことから真白という女性と出会う。SNSを介する出会いではない。ただ普通の出会いでもない。皆がリアルと感じている世界が嘘だと分かる世界で出会う。だからじゃあ、いったいリアルって何なのよ、という問いかけが映画の通奏低音になっている。
真白はガラス細工のようにもろい。リアルな世界に生き、傷ついてもあえて逃げすに傷つき続ける。そしてそのまま七海に触れる。そして抱き合いながら言う。
「コンビニとかスーパーとかで買い物してるとき、お店の人がわたしの買った物をせっせと袋に入れてくれてるときにさ、あたしなんかのためにその手がせっせと動いてくれてるんだよ わたしなんかのために 御菓子や御総菜なんかを袋につめてくれてるわけ それを見てると胸がギュッとして泣きたくなる あたしには幸せの限界があるの 誰よりも早く限界がくる ありんこよりも早く だってこの世界はさ 幸せだらけなんだよ」
傷つきたくない。誰しも。だから関係を希薄にとどめる。そして時の過ぎるのを待つ。七海もそうだった。しかし真白は逃げない。だから傷つく。そんな真白に七海は惹かれてゆくが…。
映画の後半、服をすべて脱ぎ捨て感情を爆発させる老女(りりぃ)が出てくる。七海を交えたそのシーンは、リアルとはこういうことだと強烈な印象を残す。濃密な肉体性が立ち上がり圧倒される。
もし今、リアルな関係が希薄な時代だとしても、それは私たちが求めてきた結果だと思う。だとすると後戻りは出来ない。ただもしこのあと、人との関係に悩むことがあれば、このりりぃの姿を思い出すかもしれない。そこには確かにリアルな人間がいた、と。そのような肉体の振る舞いが、人の心を救うこともあるのだ、と。
監督・脚本:岩井俊二
日本映画 2015
公式サイト