映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

アイヒマン・ショー

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1961年、ナチスの将校でユダヤ人虐殺を推進した責任者、アドルフ・アイヒマンの身柄が拘束された。15年に及ぶ逃亡生活の果てのことだった。身柄はイスラエルに送られ、エルサレムの法廷で裁かれるという。TVプロデューサーのミルトン・フルックマンは、この裁判を放映すべく、奔走する。立ちはだかるのは、テレビカメラを嫌がる判事たち、元ナチスの脅迫、そして自らが選んだ監督との意見の相違だった。

 

監督は「アンコール‼」のポール・アンドリュー・ウィリアムス。TVプロデューサーを演じるのは、ホビットマーティン・フリーマン。この映画は、アイヒマンの裁判を世界に向けて放映しようとしたテレビマンたちの物語である。

 

「世界には常に偏見がある。身の毛もよだつようなことが次から次へと起こる。もしそういう過去を忘れてしまえば、また我々は同じことを繰り返すかもしれない。忘れずにいること、記憶していることはとても重要だと思う。」(マーティン・フリーマン

          

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TVプロデューサーが選んだ監督にはある意図があった。それはアイヒマンがどのような人間か、映像を通じて伝えたいということだった。彼は言う。「彼の内面は必ず身体反応に現れる。それを逃すな」と。

 

「なにが子煩悩な我々と同じようなありふれた男を、何千人もの子どもを死に追いやる人間に変えたのか、それを見つめるんだ。状況が変われば、誰もがアイヒマンになりうる。」

 

そして執拗にアイヒマンの表情を追う。しかしアイヒマンは生存者のどのような証言を聞いても、収容所の悲惨な映像を見ても無表情だった…。

 

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作家の開高健はこの裁判を傍聴しこう書いている。

 

「アイヒマンはいつも無表情である。・・・しじゅうくちびるをけいれんさせて左へ左へつりあげる癖をくりかえす。鼻をゆがめ、口をとがらしたその顔は醜悪と呼んでよかった。」

 

そして検事総長から証拠となる「虐殺指令所」を見せられた時のことだった。

 

「たしかに記憶があります。この署名は私のものです」

「君自身がしたのだね?」

「そうです。私自身がしました。しかし……」

彼はつぶやいた。

「しかし、この署名は私の人格とは何の関係もないのです」

(「裁きは終わりぬ」開高健

 

アイヒマンは、自分の意思でなくただ命令に従っただけだと繰り返し語る。ただ、それが事実だとしても責任は生じるだろう。同じように原稿を依頼され現地で傍聴していた哲学者に、ハンナ・アーレントがいる。彼女は何も考えずにいることは、人間であることを放棄したことだと語る。彼女の伝記映画(ハンナ・アーレントマルガレーテ・フォン・トロッタ監督2012)の中のセリフにこういうくだりがある。

 

「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。…人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。…私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

f:id:mikanpro:20160515193657j:plain    映画ハンナ・アーレント

 

考えることによって人間は人間でありうる、という言葉には説得力がある。しかしアイヒマンは本当に何も考えていなかったのだろうか。彼なりに考えた末に選んだ結論が命令を忠実に実行することだったのではないか。そういう疑問が浮かぶ。

 

人間は誰しもそんなに強靭な思考力があるわけでもないし、強くもない。だから本当は「危機的状況」に至る前に「考え抜」かねばならないのだろう。映画の中で監督が言ったように、状況が変わって誰もがアイヒマンにならないために。

 

彼らが撮影した映像は、世界37か国で放映された。裁判そのものには賛否両論があるようだが、裁判の記録映像が与えた衝撃は計り知れない。アイヒマンがどのような人間であるのか、全世界に伝わったのだ。それは感情をあらわにするだろうと予測した、監督の意図に反する形でではあったが。

 

監督ポール・アンドリュー・ウィリアムズ

主演:マーティン・フリーマン、アンソニー・ラパリア

イギリス映画 2015 / 96分

 

公式サイト

http://eichmann-show.jp/

 

ハンナ・アーレント

http://www.cetera.co.jp/h_arendt/