映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

リリーのすべて

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北欧の湿地帯。風に揺れる草原が映し出される。霧が湿気を帯びた風景に暗い重しを与える。主人公のアイナー・ヴェイナーは、故郷デンマークのヴァイレの風景を描き続ける画家だ。妻のゲルダも画家。とても仲の良い二人だが子供はいない。ある日ゲルダが、バレリーナのモデルの代理を夫に頼んだことから、アイナーの中の女性が目覚め始める。最初はゲームのように女装を楽しむ二人だったが、やがてただのゲームでは終わらないことに気付いてゆく…。

 

絵を描くアイナーを覗き込んでゲルダが言う。

 

「凄い集中力ね。絵の中に吸い込まれそう。…沼の中に沈んでいかないかしら。」

 

するとアイナーが言うのだ。

 

「沼に沈んだりはしないよ。沼は、僕の心の中にある。」

 

男が男であるとは、女が女であるとはどういうことか。肉体的に男であれば男と考えるのが普通だが、精神的に女である場合、肉体との齟齬に苦しむことになる。しかし精神的に女であるとはどういう状態を指すのだろうか?映画では女性的なしぐさをする自分に陶酔する、という場面が頻繁に出てくる。精神的に女であるとは、肉体的な女性性へのあこがれを言うのだろうか。当事者でない限りやはりその辺りは謎である。       

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監督は「英国王のスピーチ」のトム・フーパー

「僕にとっては、現実の自分と理想の自分との間の壁をどうやって乗り越えるかという、『英国王のスピーチ』と共通のテーマを持つ作品でもある。世界で初めて性別適合手術を受けたリリー・エルベの驚くべき物語であり、ふたりの人物の力強いラブストーリーだ。根底から変容していく結婚を描いている。」

(※リリー・エルベは女性としてのアイナーの名前)

 

自分は何者か。この問いはすべての人が抱きながら、誰も明快に答えることができない。だから多くの人はいろいろな場面で悩み苦しむ。しかしアイナーは、自分が男ではないことだけはとても明快に理解できていて、その否定的な自己認識が逆説的にアイナーに強さを与える。監督のトム・フーパーは語っている。

 

「死に至る危険性はものすごく高かったし、手術はいわば前例のない実験でした。この物語と7年間付き合ってきて僕が感じるのは、やはりそこに飛び込んでいったリリーのとてつもない勇気です。そして、それほどのリスクを負ってまで本当の自分になろうとした彼女が、アイナーとして生きていてどんなに辛かったか、想像していただけるのではないかと思います。」

 

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リリーはアイナーの故郷の沼地の中から生まれた。何があっても故郷の風景は変わらない。アイナーの強さは故郷の風景の持つ強さだ。鈍い色をした雲の下で、湿地のほとりにまっすぐに立つ樹々。高台から見おろす淀んだような海。決してきらびやかでないその景色がアイナーの内面を鉄鍛冶のように鍛える。

 

映画が進むにつれ、妻のゲルダの献身が尋常ではないことに気付く。嫉妬、葛藤、諦め…。様々な感情の波に翻弄されながら、自分の夫がどんなに変貌を遂げても愛し続けることをやめない。ゲルダもアイナーもどちらも強い。その強さが人間に対する信頼を呼び起こし、静かな感動を呼ぶ。

 

監督トム・フーパー

主演:エディ・レッドメインアリシア・ヴィキャンデル

原題「THE Danish Girl」

イギリス映画 2015 / 120

 

公式サイト

http://lili-movie.jp/

マネーショート 華麗なる大逆転

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世界金融危機を引き起こした2008年のリーマンショック。実はその裏で、危機を見越して大もうけをした人たちがいた・・・。映画は4人の人たちにスポットをあてそれぞれの人生模様を描いてゆく。当時の実写をスタイリッシュに織り込み、ユニークな演出で難しい金融用語をわかりやすく解説するなど、単なるドラマではない作品に仕上がっている。

 

それにしても取引の額が桁外れで、とてもついて行けない。例えば4人のうちのひとり、マイケル・バーリが投資したのは13億ドル(約1560億円)で、最終的にその倍額が手に入ったらしい。何じゃそれ?という感じ。それが全部自分のものではないだろうが、それにしてもね。最近大リーガーの年俸をみてもいったい何に使うのかと思うが、お金持ちはお金持ちの世界で超インフレなのだろうか。預かりしれませんな。

 

監督・脚本はアダム・マッケイ。コメディ映画やTV番組を作ってきた人だが、原作を読んで魅了され自ら名乗りをあげたという。この作品は単純に裏でボロもうけをした話ではなく、金融界の人たちが根から腐りきっていて、出し抜こうにも理屈通りにいかないというエピソードを盛り込んでいる。

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「初めは僕らのヒーローみたいな感じなんだけど、そのうち、とことん腐りきった金融システムにやられちゃって、しまいにはヒーローじゃなくなるんです。僕は“嘘くさい正義の味方”みたいなものが登場する映画が、あまり好きじゃなくてね。現実の世界はそういう風にはなってないじゃないですか。コメディをやる時も僕はできるだけ、主人公をいじって、100%の英雄にはならないようにしてるんです。」

 

だから「華麗なる大逆転」という副題だが、観終わった感じは爽快ではない。鬱々した感じが残る。しかこれもある意味当然ではある。なぜならいくらウォール街や銀行がひどいことをしていると嘆いて見せても、彼らはそのことに対して闘っている訳ではない。そのひどいやり方が破綻すると知って破滅の方にお金をかける、ただのギャンブラーだからだ。ブラッド・ピット演じるベン・リカートがいみじくも言う。「はしゃぐな」と。自分たちが成功すると言うことは何万人もの失業者が出て、年金や社会保障のお金が消えることなんだと。

彼らは大金を手に入れたが、それによって何かを変えたわけではない。監督も語っている。

 

「そもそも殆どの人は、何が起きたのか、いまだにわかってないと思いますよ。そして同じような問題が、いまだに金融システムの中枢に巣くっている。ただ、僕は専門家でも何でもないけど、これだけは言えますよ。いまだに金融機関は大きすぎてつぶせません。あの2008年を経験してもなお、どこの銀行もますます膨れあがってる。おかしいでしょ?この事実だけは、何度でも伝え続けていくべきです。」

 

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これに限らず、社会の悲惨な体験というのは、なぜうまく継承されないのか。失敗を繰り返すのは後世の人間など、別の人間だ。人の痛みはうまく想像できないという、人間の根本的な欠陥がこのことを邪魔しているのだ。しかし、その欠陥は同時に、人間が平穏に生きるのに必要な能力でもあるのだが。

 

監督・脚本:アダム・マッケイ

主演:クリスチャン・ベール、スティーブ・カレル、ライアン・ゴズリングブラッド・ピット

原題「THE BIG SHORT」

原作:マイケル・ルイス「世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち」(文春文庫)

アメリカ映画 2015 / 130

 

公式サイト

http://www.moneyshort.jp/

牡蠣工場

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岡山県瀬戸内市牛窓。牡蠣の名産地である。港の近くの作業場では、牡蠣の殻を剥くために何人もの人を雇っている。毎日毎日、いったいいくつの牡蠣を剥いているのだろう。気が遠くなるようだ。しかし、町は過疎で後継者もおらず人手が足りない。中国からの出稼ぎ労働者や、震災の後宮城から移り住んで来たという人などがこうした労働を支えている。

この映画はその日常を静かに綴ったドキュメンタリーである。

 

宮城から移り住んだ渡邊さんの作業場にも、近々中国から2人やってくるということがわかり、自然とカメラは牛窓の中国人労働者というテーマに向かう…。監督は想田和弘「選挙」「精神」などに続く「観察映画」第6弾ということだ。

 

「観察映画には『予定』もなければ、そこから外れる『想定外』もない。事前のリサーチや打ち合わせ、台本もない。予定調和や先入観を排し、そこで起きることを虚心坦懐に観察し、その結果を映画にするのみである。」  

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撮影する監督は、中国からくる労働者にかなり興味を持っているのが分かるが、ある程度以上は踏み込むことがない。中国人同士の会話も撮影するが、何を話しているのかもわからないままだ。

 

NHKの番組に「世界ふれあい街歩き」という番組がある。旅人の視線で番組が構成されており、あくまで旅人が触れることのできる情報以上に深入りすることはない。どんなに面白い人物に出会ってもあえて突っ込んで取材しないのだという。その感じに似ている。あくまで通りすがりに出会った人たちという以上の情報はなく、知るつもりも無いようだ。監督はこう語っている。

 

「ある意味『観察映画』は現実を素材にしながらも、ポエムの領域、詩の領域。事実関係を調べたりすると、詩ではなくジャーナリズムになってしまう。かといってその作業がまったく不要かというと、不要じゃない気もする。難しいですね。」(「観察する男」)

 

これを食い足りないと思うか。それくらいがいいのだと思うか…。私は少し食い足りなかった。来日した二人の中国人は中国のどこから来たのか、なぜ来たのか、国内の仕事探しはそんなに難しいのか、聞いてみたいような誘惑にかられる。そもそもそんなに貧しいような印象がないというせいもある。

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最も強い印象を残すのは、2人の中国人が来るというその日に、雇い主のおじいさんから撮影をやめてくれと言われるシーンだ。これから仲良くやろうという時にカメラがあることで、中国人がストレスを受けるのは嫌だという。ずっと後ろ姿で語るおじいさんの、受け入れ側の緊張と、あえて深読みすれば、後継者がおらず外国から人を呼ぶことに対する慙愧の思いが透けて見えるいいシーンだった。

 

ただ欲を言えば、このおじいさんの思いは想像するのでなく、もう少し突っ込んで知りたいと感じたのだ。観察映画では邪道なのだろうか。

 

監督・製作・撮影・編集想田和弘

製作:柏木規与子 2015 / 日本・アメリカ / 145分 

公式サイト

http://www.kaki-kouba.com/

ディーパンの闘い

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スリランカの森の中、仲間の遺体を荼毘に付す男―。少数民族圧迫に抵抗する反政府組織の兵士だ。闘い敗れ、妻も子も失った男の名は、ディーパン。彼はやがて故郷を捨てフランスに渡る。見も知らぬ女性と、親を失った女の子を連れて。3人は疑似家族を作り、難民として暮してゆくつもりなのだ。

 

フランスで彼にあてがわれた職は、郊外団地の管理人だ。3人は慣れない暮らしを続けていくうち、少しずつ心が通い合うようになる。しかし、その団地はクスリの密売人の巣窟で、無法地帯となっていた。ある日、白昼堂々と銃撃戦が展開され、(偽の)妻ヤリニは、そこから逃げ出そうとするのだが…。

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監督は「真夜中のピアニスト」、「預言者」のジャック・オディアール。

「第二の家族、新しい人生というのは映画にとってとてもポピュラーなテーマだけれど、なぜ自分がそこに惹かれるのかはわからない。ただ家族というより、むしろ新しい人生を持つというアイデアに惹かれるのだと思う。」

 

妻のヤリニとディーパンは最初お互いを探りあうようだったが、やがてディーパンが彼女を求めるようになる。しかし、ヤリニは「嘘」の状況に耐えられない。好意を持ったクスリ密売人にヤリニはタミル語で語る。「すべてが嘘なのよ。」と。次第に饒舌になるヤリニ。「本当の夫ではない。本当の娘ではない。私たちは家族ではない」。タミル語は声に出しても異国では心の中の呟きだ。

 

「見ず知らずの人間同士が、互いをわずらわしいと感じながら、どのようにして家族の生活を体験してゆくのか、疑似家族がどうやって本物の家族になるのかを描きたいと思うようになったんだ。」

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オディアールは最初、「わらの犬」のリメイクを構想していたという。サム・ペキンパー監督の「わらの犬」は、おとなしい大学教授が周囲の暴力性に飲み込まれて狂ってゆく物語だ。

わらの犬」は老子の言葉、

 

「天地は仁ならず 万物を芻狗となす」

(天地自然は非情で、すべてのものをわらの犬のようにあつかう)

 

から採っているという。

今回まったく違うものになったのだが、唯一似ているのが置かれた状況の異様さである。置かれた状況にあわせて人は行動しなければならない。状況を選ぶことが出来ないという意味で「天地は非情」である。                     

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わらの犬」も本作も非情を暴力によって克服しようとするのだが、オディアールはそこに「希望」を描きこむ。「嘘」からも「暴力」からも「希望」が横溢する。それがディーパンという男であり、オディアールの人間を見つめる眼の優しさだろうと思う。

 

監督・脚本:ジャック・オディアール

主演:アントニーターサン・ジェスターサン

原題「DHEEPAN」

フランス映画 2015 / 115

公式サイト

http://www.dheepan-movie.com/

 

ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります

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ニューヨークのブルックリン。5階建てのアパートの最上階に住む老夫婦。エレベーターがなく階段の上り下りがきつい年齢だ。夫婦は引っ越すために部屋を売ることにした。この部屋に住んで40年。思い出がいたるところにしみついているに違いない。何より眺めが素晴らしい。画家の夫がアトリエに使っている部屋からは、イーストリバーにかかる橋と対岸のマンハッタンが望める。果たしてそんな住居を手放すことができるのか?

 

物語は、不動産エージェントをしている姪の、商業主義的なペースに巻き込まれる形で進む。しかし老夫婦は次第に、自分たちは自分たちのペースで物事を進めるべきだと気づいてゆく。夫婦はモーガン・フリーマンダイアン・キートン。妻が言う。

 

「私たち、自由に生きてきた。黒人と白人の結婚がまだ30州で禁止されていた頃に結婚したわ。アパートを探すくらい何でもない。」                 

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折しもアパートの近くでテロリストが潜伏しているというニュースが流れ…。

 

監督はリチャード・ロンクレイン。 

「自分の人生の終わりが必ずしも下り坂でないと確信できるという事実を描いた物語です。この映画は、何か破滅的なことが起きたり、大きな失敗などしたりするわけではなく、すっかり落ち着いている夫婦が、ある週末のできごとをきっかけにまた活気を取り戻し、人生の新しい旅立を見つける物語です。」

 

驚くのはアパートの値段が100万ドルということだ。これが平均だというのだからさすがニューヨークである。夫婦が暮らすブルックリン界隈は、昔はアーティスト以外だれも住みたがらないところだったという。だが、40年の間に町も変わる。

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人は自分が手にしている物の価値になかなか気づかないものらしい。アパートが他人の目にさらされ、自分でも同じようなものを探して、すったもんだの末にようやく気づく。それは実は目に見える価値ではない。40年という時間の積み重ねで得た、生きる姿勢のようなものだと思う。

 

自分は年を取った時、時代の流れだという雰囲気に流されず、自らの姿勢を保てるか。それって若い人から見れば頑固老人と言うことになるのだろうけれど。

 

監督:リチャード・ロンクレイン

原作:ジル・シメント「眺めのいい部屋売ります」(小学館文庫)

主演:モーガン・フリーマンダイアン・キートン

原題「5 flights up」

アメリカ映画 2014 / 92

公式サイト

http://www.nagamenoiiheya.net/

サウルの息子

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焦点のボケた映像の中から一人の男が近づいてくる。カメラの前で立ち止まった男の顔に焦点が合い、以降カメラはその男の顔を執拗に写し出す。1944年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。男はゾンダーコマンドと呼ばれ、雑役に従事させられた収容者だ。数ヶ月延命出来るがやがて抹殺される。男はガス室に同胞を送り込み、その後死体を処理し、血と汚物にまみれた床を掃除する。ただ黙々と。

 

カメラはこの男、サウルから離れることがない。だから彼の周囲で起こることしか分からない。それどころかその周囲で起こることもクリアに写し出されることはない。この方法はサウルの意識の有り様をよく表している。周囲で起こることがクリアに見えてきたら、とてもまともではいられない。

 

ある時、まだ息のある少年が見つかる。すぐに殺されてしまうのだが、サウルは自分の息子だと信じ、ユダヤ教の教義にのっとって埋葬してやろうと決意する。その頃、彼の周囲では武装蜂起の計画がささやかれていた…。    

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監督はハンガリーのネメシュ・ラースロー。これが初の長編。5年の歳月をかけたこの作品でカンヌのグランプリを獲得した。

 

「このような暗い物語の中にも、私は大きな希望が存在すると信じる。倫理観、価値観、宗教が完全に失われても、自分の内の微かな声に耳を傾けた人間は、一見空虚で無意味な行為をなしとげることで、モラルを再発見し、生きのびる術を見つけ出すことが出来るのだ、と。」

 

サウルは地獄の環境のなかで人間性を保つために、何か人間的な目標を持ち、遮二無二行動せずにいられなかったのだ。

 

人間性とはなんだろう。人間性を失った人間も人間なのだろうか。人間性を失うほどに何かを失うのを怖れる心は、逆に人間的なのだろうか。それが人間か。一昨年伝記映画が公開された哲学者のハンナ・アーレントは、自分で考えることをせず非人間的な作業を効率よくこなし続けたナチスの高官について、「悪の凡庸さ」と言った。凡庸さは人間的ではないのだろうか。人間は非人間的なものを抱えるものなのか。

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やがて周囲の人間も、彼の思いの中に、かすかな希望の芽を感じとっているのがわかる。ひとはやはり人間性を失った世界では生きて行けないのだ。暴動に乗じて彼は逃げる。私はただの観客なのに、収容所の周囲に広がる自然が懐かしく感じられる。人間が作った非人間的なものから遠く離れたいと切に思う。やがてすべてが終わったとき、静かな雨の音がする。おそらくは太古の昔から変わらない音だ。

 

監督:ネメシュ・ラースロー

脚本:クララ・ロワイエ、ネメシュ・ラースロー

主演:ルーリグ・ゲーザ

原題「Saul Fia

ハンガリー映画 2015 / 107

公式サイト

http://www.finefilms.co.jp/saul/

ブリッジ・オブ・スパイ

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初老の男が自画像を描いている。とても画家には見えない。平凡な顔立ちの男だ。自画像を描く人間は常に自分の人生の意味を反芻している、という。男はやがてスパイ容疑で逮捕される。1957年、ニューヨーク。米ソ冷戦真っ只中の出来事である。男には弁護士がつけられた。ほとんどのアメリカ人がスパイの死刑を望む中、この弁護士、ドノヴァンはどんな人間にも等しく公平な裁判を受ける権利があると主張する。これが映画の前半である。

 

ドノヴァン弁護士の考え方に疑義を呈するCIAに向かって、彼は言う。

「あなたはイタリア系、私の祖先はアイルランドから来た。この二人を等しくアメリカ国民にしているもの、それが合衆国憲法なんですよ。この憲法を守ることがアメリカ人の務めなのです」と。

しかし、彼は周囲から「裏切者」として白い目で見られるようになり…。

 

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恐怖のために異物を排除したいという人々-。映画はとても不寛容なアメリカを描いている。人間に本能(恐怖)と理性(寛容)の両方があるとして、理性というのは生まれた時には常に0なのかもしれない。だから、育っていく過程で積み上げていかなくてはいけない。しかしうまく積み上げられないと、あるいは積み上げられても本能が勝ると、過去人間が不寛容故に体験した悲惨な歴史を、何度も何度も繰り返してしまう。ドノヴァンは理性的であるがゆえに迫害を受ける。

 

監督はスティーブン・スピルバーグ 

「誤解を恐れずに言えば、歴史と言うのはフィクションよりも面白いと思う。歴史の中でとても魅力のある出来事に気づくと、“誰もこんな話を作り出すことは出来なかった!”と思う。…そういう本では、誰も話題にしたことがないような貴重な話、真実の一片が見つかる。」

 

こんな人がいた、と言う素直な感動が映画の通奏低音として生きている。今は、「アメリカ人とは」、という問いにアメリカ人が答えられなくなっている時代なのかもしれない。スピルバーグはその答えをドノヴァンに見出そうとしているのではないかと思う。

 

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映画の後半は、アベルとアメリカ人捕虜との交換交渉を任されたドノヴァンの、旧東ドイツでの活躍をサスペンスフルに描く。個人的には前半のほうがはるかに面白かったのだが、映画全体としては後半のサスペンスがメインのようだ。

 

前半に印象深いシーンがある。ドノヴァンはスパイのアベルと心を通わせてゆくのだが、裁判が苦しい状況に陥ったときに、アベルが子供時代の話をする。見知らぬ男が家に居候していたとき、父親が「この人を見ておけ」と言った。子どもながらに見た目平凡な男だった。ある時自宅に憲兵がやってきて家族全員を殴り倒した。しかしこの男だけは何度殴られても立ち上がったのだ。何度も何度も。ついに殴るのを止めた憲兵は言った「…不屈の男だ」と。

 

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アベルはその「男」の影をドノヴァンに見ていたのだし、ドノヴァンはそのことを自分に語るアベルの信頼のメッセージを受け取るのだ。最初アベル憲兵の言葉をおそらくロシア語で言った。その言葉を、少し考えてようやく英語で言い変えたその間(マ)がいい。「…不屈の男だ」と。国籍が違っても「見るべき」人は同じということか。