ある会議室。モニターを見ながら映像を言葉にして語る女性、尾崎美佐子。目の見えない人に映画を楽しんでもらうための音声ガイドだ。映画が終わると、その場にいた視覚障がいを持つ人たちが、ガイドの内容について意見を言う。目が見えない立場で、映画を楽しめたかどうか、表現は適切か、など口々に指摘する。ボランティアで行う音声ガイドに対する遠慮からか、当たり障りのない言葉が続く中、ある男だけが厳しく言い放つ。
「今回のガイドは、今のままだと邪魔なだけです」
美佐子のガイドは意見の押し付けだという。男は中森雅哉。元は知られたカメラマンだったが、徐々に視力を失いつつある。言葉の激しさに戸惑い、怒りさえ覚える美佐子だったが…。
「『あん』のときに音声ガイドを制作して、初めて今作のモチーフになっている世界に触れたのですが、音声ガイドの皆さんの映画への愛に本当に感動したんですよ。その愛で、目の不自由な人たちに映画を届けようとしていて。私は、そういう愛を持って誰かとコネクトしていこうとする人たちの物語を作りたい。」(シンラネットインタビュー)
映画は劇中でもう一つの映画を新撮している。「その砂の行方」という作品だ。認知症の妻をもつ年老いた男が、ラストで砂浜をさ迷い歩く。音声ガイドの美佐子はそのラストで映像をこうガイドする。
「重三の顔は希望に満ちている」
中森が美佐子のガイドで特に引っかかっていたのは、このラストシーンだ。後日、美佐子が自分のガイドについて意見を聞きたいと監督を訪ねるシーンがある。監督はその個所を読んで少し考え込んでしまう。
「あのね、重三はもう死ぬかもしれないんだよ。そういう年齢なんだ。死ぬかもしれないし、まだ死なないかもしれない…」
すると美佐子が強い口調で言い返す。
「そんなあやふやなものじゃなくて、映画はもっとはっきりした希望が必要なんです」
少し驚く監督。助監督が休憩時間の終わりを告げる。立ち上がりながら監督は言う。
「この映画が君の希望になったことをうれしく思うよ」
美佐子の父親は失踪しており、認知症の母親が田舎でサポートを受けながらひとり暮らしをしている。この映画は「希望」について語ろうとしているのだ。
映画は美佐子がこのラストシーンをどうガイドするのかを縦軸に、元カメラマン中森との交流を横軸に進む。中森の絶望は深い。視覚を失う中で、生きる証のようなカメラマンという職業を捨てなければならないのだ。
演じる永瀬正敏は、映画からは本来感じ取れない、視覚と聴覚以外の感覚、つまり匂いや体温、息遣いなど人間の生理に由来するものを感じさせる。永瀬の演技によるものなのか、タイトなカメラワークによるものなのか、両方なのか。とにかく永瀬の中森のおかげで、この作品は不思議ななまもののような映画になっている。
加えて作品中にあふれる光。河瀬監督は舞台あいさつで
「世界に存在する愛とか光とかを全部集めて刻みたかった」
と話したという。しかし、映画が語る希望は「光」にあるのではない。闇に閉ざされようとする中森にとって光は希望ではない。
白杖をつきながら美佐子に向かってふらふら歩く中森の足元、崩れる砂浜を一歩一歩踏みしめる劇中映画の重三の足元、かろうじて踏み出すそのわずかな一歩に、希望はあると思える。
そして映画は私たちに、こう問いかけているのだ。
「あなたにとって、いやむしろあなたの隣にいる人にとって、希望とは何ですか」
と。