映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

幸福なラザロ

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イタリアの山奥の小さな村。ひとつ屋根の下に住む年頃の娘たち。窓の外ではその娘のひとりに愛を打ち明ける歌を歌う男。場面は転換し、皆が見守る中、部屋の中で求婚する男と受け入れる女。夜通し続く祝い。小さな共同体の幸福。

 

ふたりはこの小さな村を出たいと言う。しかし、侯爵夫人の許しがないと無理だと言われる。村の外には狼もうろついている…。いつの時代なのか判然としないが、村人は侯爵夫人の小作であり、通いの商人からの借金でがんじがらめの状態であるらしい。

 

村人の中に働き者のラザロという青年がいた。何を頼まれても嫌な顔一つしない。しかし村人は彼をなんとなく馬鹿にしている、そういった関係。侯爵夫人はラザロを見てつぶやく。

 

「私は村人を搾取する。村人は彼(ラザロ)を搾取する。」 

          

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ある日、とある出来事がきっかけで、この村に街の警察がやってくる。隔絶した社会に生きている村人は驚くが、なお驚いたことに「小作」は今、法律で禁止されているという。実はこの物語は現代で、とっくに小作制度が終わったにも関わらず、侯爵夫人は村人を騙して奴隷のように働かせていたのだ。

 

ラザロはといえば、警察のヘリに驚き足を踏み外してがけ下に転落し死んでしまう。村人はラザロのことは忘れみなで街へ出てゆくが…。

 

監督は「夏をゆく人々」(夏をゆく人々 - 映画のあとにも人生はつづく)のアリーチェ・ロルヴァケル。これは実際にイタリアで起きた事件を元にしているという。

 

「私はこのラザロの冒険物語を通し、私の国イタリアを壊滅に追い込んだ悲劇を、愛とユーモアをもって、できる限り穏やかに伝えることを目指しました。…近代というものが何なのかまったく知らない何千人もの人が都市部へ押し寄せた時代。そのとき、彼らは今まで持っていたものを捨てて都市に移り住んだわけですが、そこで手に入るのは以前持っていたものよりお粗末なものばかりでした。」

 

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数十年後、がけ下に転落したラザロは狼によって息を吹き返す。ラザロとは「ヨハネ福音書」に登場する人物で、イエスキリストの友人であり、死後4日目にキリストの奇跡で蘇ったという。つまり作品中のラザロは善人であるがゆえに聖なる人物として描かれる。

 

ラザロは街に出て、かつての村人たちと再会する。彼らは打ち捨てられたような都会の隅でまとまり、粗末な建物で雨露をしのぎ、盗品を騙して売りつけるような暮らしをしていた。

 

だがそこにラザロが加わっても何が変わるわけでもない。グループ内が和むというわけでもない。何の影響も与えない。何々だから、という理由が必要なく彼は無垢な人間としてただそこにいる。

 

いやただひとつ、道端の草が食べられるかどうか村人に教えることで、野菜の栽培をしたらどうかという意見が出るようになった。自然に還れ、と言っているようにも見える。

 

ラザロとはいったい何なのか?              

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 「私が『ラザロのような人々』と呼ぶ人たちは、私の目から見たら善人だけれど、本人たちは自分のことを善人と思っていない、善人になろうとすらしていない人、善がなにかしらも分かっていない人のことを指します。…もし聖人が今日、現代社会に現れたとしたら、その存在に気づかないかもしれない。もしかしたら何のためらいもなく彼らのことを邪険に扱うかもしれません。」

 

存在に効果を求めてはいけない。ラザロは何もしないが、存在自体が目に見えぬ何かを与えるものとしてある。それは現実につながる何かではなく、何か心の在り方といったようなもの。私たちは現実につながる評価だけで生きているわけではないし、むしろ現実につながらない思いをたくさん抱えて生きている。だからこそ、現実につながることのない善人は聖人なのだろう。

 

監督・脚本:アリーチェ・ロルヴァケル
主演:アドリアーノ・タルディオーロ、アルバ・ロルヴァケルセルジ・ロペス
イタリア  2018 / 127分

公式サイト

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