映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

ぼくと魔法の言葉たち

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アメリカ、マサチューセッツ州。プライベートなホームビデオが映し出される。ありふれた親子。しかし…。

 

3歳になる頃 オーウェンは突然消えた

自閉症だと医者は言った

 

一生話せないかもしれない、と医者は続ける。失意の家族。しかし転機は6歳の時に訪れる。オーウェンの発する言葉が、いつも見ているディズニーのセリフかも知れないと両親が気づいたのだ。これは、ディズニーアニメによって言葉を取り戻したオーウェン・サスカインドの、今を追ったドキュメンタリーである。 

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6歳の時、父親のロンがディズニーのキャラクターになりきって、彼に声をかけてみる話は感動的だ。オーウェンのお気に入りは、「アラジン」に出てくるオウムのイアーゴ。この時までほとんど言葉を発しなかったオーウェンに、ロンは声色を真似て背後から近づく。そして聞いてみる。

 

「君でいるのって、どういう気分?」

 

すると、オーウェンがきちんと答えたのだ。

 

「つまらないよ。友達がいないから。」

 

監督は、TVプロデューサーでありドキュメンタリー作家のロジャー・ウィリアムズ。 

「ゲイの黒人である私自身もはみ出し者であると感じているので、世の中の声なき人たちに声を与えたいと考えてきました。そして私たちみんなが共に暮らし、互いを理解し合える方法を見つける努力を続けてきました。」

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オーウェンから世界はどのようにみえるのか。映画は音と映像を駆使し、彼の内面世界を描こうとする。彼に聞こえているであろう外界の音を作り出し、彼が考えた独自の物語はアニメ化して見せる。監督とサスカインド一家はもともと知り合いだったという。制作には2年の歳月をかけた。

 

「正直に言えば、自閉症の人たちに対して、少し恐れを抱いていました。どのように触れ合い、コミュニケーションを取ればいいかが分からなかったからです。しかしこの作品のお陰で自閉症への考え方が完全に変わりました。自閉症が欠点や障害であるという見方はなくなり、相違点だと思うようになりました。」

 

オーウェンとわれわれは違う。明らかに違う点がある。ただし、「われわれ」の、我とあなたも違う。同じように明らかに違う点がある。私以外の人が私と違うことに苛立ったり、怒ったりしても詮無いことである。厳密な意味で「普通の人」というのは存在しないのだ。だとすれば人間の社会というのは、違いを許容しない限りお互いにとても生きづらいものだと思う。                       

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オーウェンは成長し、両親のもとを離れる。映画はその後を追いかけ、誰にも訪れる青春の試練、すなわち「失恋」がオーウェンにも訪れるさまを記録する。ディズニーでその試練を乗り切ることができるか、私たちはハラハラドキドキしながら見守ることになる。

 

それにしてもオーウェンの、失恋相手に対する自制心に満ちた態度には驚かされる。自閉症は対人コミュニケーションに難があるという。しかしこういう時の絶望の深さに違いはなかろうに、強いひとである。

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監督:ロジャー・ロス・ウィリアムズ
原作:「ディズニー・セラピー 自閉症のわが子が教えてくれたこと」(ビジネス社)
アメリカ 2016 / 91分
 
公式サイト

http://www.transformer.co.jp/m/bokutomahou/

はじまりへの旅

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アメリカ北西部。鬱蒼とした森の中に7人の家族が暮らしている。父親と、高校生くらいの長男をはじめに男女6人の子ども。鹿を狩り解体して食べ、夜は読書。そして音楽。昼は訓練と称して山道を走り、格闘術を覚え、ロッククライミング。すべて父親のベンが指導する。

 

世間とのつながりはほとんどない。しかし子どもたちはとても優秀だ。六か国語を話し、手を骨折しながらも自力で岩棚をよじ登る。ある時、入院のため離れていた母親が自殺したとの報が入る。悲しみに暮れる家族は、母親の実家が行う葬儀に出席しようと2400キロの旅に出る。しかしそこは、自分たちとは違う考えの人たちが住む別世界だった…。

 

監督・脚本はマット・ロス。この作品でカンヌ映画祭「ある視点」監督賞を受賞した。この物語は自らの生い立ちと関係があるという。

 

「僕自身子どもの頃に、北カリフォルニアとオレゴンのコミューンで生活し、テレビや最新テクノロジーのない人里離れた場所にいたんだ。…このストーリーは普遍的でどこの国にも通用するものだと思う。親がどんな教育をするか、子どもに自由に考えさせるのか、親の考えを押し付けるのか。僕らが生きる時間は限られている。その時間、いったい何を考え、何をするのか。そういうことをこの映画を観た人に考えてもらえたらと思う。」

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子どもたちは、基本的には父親がつぎからつぎへと出す課題をこなし続ける優秀な生徒だ。とても真面目でとても従順である。「巨人の星」の星一徹と飛雄馬のようなものだ。おかげで6歳の子どもが権利章典の内容と意味について語ることができる。

 

しかし問題は彼らが成人した後どう生きるか、ということだと思う。このまま世間と隔絶した社会に生きるのであれば、果たして六か国語が必要だろうか。他人と隔絶した社会に暮らせば、もしかすると能力を効果的に向上させることができるかもしれない。しかし、他者とのかかわりの中で生きるという人間の宿命のようなものから逃げているという感じがしないでもない。言ってみれば他者とのかかわりの中で生きるから権利章典も必要なのだ。

 

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 やがて子どもたちの中からも少しずつ父親への反旗の心が芽生えてくる。長男のボウは隠れて大学を受験し、次男のレリアンは時折あからさまな反抗の態度を見せる。この一家のヒーローは言語学者のノーム・チョムスキーだ。彼の誕生日はクリスマスのように祝うのが慣例らしい。旅の途中、誕生を祝う家族の中で、次男のレリアンだけが浮かない顔をしてこう言い放つ。

 

チョムスキーの誕生日を祝うなんておかしいでしょ!」

 

すると父親のベンは、

 

「ちょうどいい機会だからお前の考えを言ってみろ」

 

と迫る。それに対してレリアンは何も言うことができない。おそらくチョムスキーを自分でも尊敬しているからだろう。理論的に正しいことと感情的に気に食わないことがうまく整理できない。正しくても気に食わないことだってあるのだ。逆に間違っていても好きになることもある。

 

母親の葬儀に参列するというだけで家族に様々な困難が降りかかる。自らの自由は他人の不自由を前提とする、そんな状況があちこちで発生する。そして、ついに絶対的な支配者(教育係?)であった父親にも迷いが生じ、あることを決断するのだが…。

 

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父親を演じたヴィゴ・モーテンセンは語っている。

 

「この物語は、一個人でありながら社会の一員であることの新しい、より良いバランスを探るために常に努力することと、自分の間違いを認めてより良い人間になるために学ぶことについて語っているんだ。」

 

子どもにとってぶれない父親がいいのか、迷いながら進む父親がいいのか。これまで何の迷いもなかったような父親が旅の途中で迷い始める。父親が迷う分、子どもたちが意志的になる。社会に対して閉じていた目を開き始める。絶対者の迷いは、時に大きな教育的課題を与えることになる、映画を観てそう感じた。これはあらゆるコミュニティに当てはまることかもしれない。

 

監督・脚本:マット・ロス
主演:ヴィゴ・モーテンセンジョージ・マッケイ
原題:CAPTAIN FANTASTIC
アメリカ 2016 / 119分
 
公式サイト

http://hajimari-tabi.jp/

ムーンライト

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マイアミ。麻薬地区と呼ばれる一角。瓦礫のようなアパートで、売人のファンはある男の子を見つける。女の子のような繊細な雰囲気をもつその子は、仲間からのいじめにあい、その場所に逃げ込んでいたのだ。ほとんど何も話さずうつむきがちな男の子。名前はシャロン。あだ名はリトルという。

 

シャロンは“おかま”といってからかわれていたのだが、彼はその意味も知らない。ファンはそんなシャロンを気にかけ、何かと面倒を見ようとする。マイアミのビーチでシャロンに泳ぎを教えるシーンが美しい。海面すれすれのカメラがとらえるシャロンは、驚くような戸惑うような不思議な表情をして、未知の世界を感じ取る。ファンは、自分が子どもの頃に言われた言葉をシャロンに伝える。

 

「月明かりの下でお前たちの肌は青く輝いて見える」

 

映画はシャロンが思春期を迎え、大人になるまでを3部で構成されている。それぞれに違う役者が演じるが、同じ雰囲気の「目」を持つ役者を選んだという。監督は長編2作目のバリー・ジェンキンス

 

「私自身、黒人やゲイの映画と思って作っているわけではなく、人物そのものを描いている。黒人であることは私の大きな一部だが、映画の全てではない。…人の心の奥底にいつも渦巻いている感情の変化を、見る人がたどれるような物語を作りたいと思った」(朝日新聞インタビュー)

   

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いじめられっ子のシャロンは高校生になっても変わらない。母親の麻薬中毒は次第に度を増してゆく。唯一心を許せるのが幼なじみのケヴィンだ。ある夜、月明かりの浜辺で偶然出会い語り合う。この映画の美しいシーンにはいつも海の匂いがある。そして頬を撫でる風がある。ケヴィンが言う。

 

「俺たちのところでもこんな風が吹く。風が吹くとみんな静かになる。風を感じたくて。」

「心臓の音しか聞こえないんだろ。」

「そうさ。」

 

シャロンはこの夜のことを後々まで忘れることがない。

 

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シャロンはあることをきっかけに、ケヴィンと離れる。そして生まれ変わる。生きてゆくために。やがて麻薬の売人となってのし上がったシャロンに、ある日ケヴィンから電話がかかる…。

 

どんなに外見が変わり、社会的な立ち位置が変わろうとも変わらないものがある。己が人生で本当に望んでいるものだ。それを守るために人は深い孤独を生きなければならない。そしてある時、その柔らかな生の心を差し出す時が来る。おずおずと。人生のほとんどすべてを掛け金にして。映画はそのことを静かに伝え、月明かりの中で終わる。 

 

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監督・脚本:バリー・ジェンキンス
主演:トレヴァンテ・ローズ、マハーシャラ・アリナオミ・ハリス
原案:タレル・アルバン・マクレイニー
アメリカ 2016 / 111分
 
公式サイト

http://moonlight-movie.jp/index.html

汚れたミルク あるセールスマンの告発

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回想は自らの結婚式で始まる。パキスタンの下町。自宅に花嫁を迎えたアヤンは、2階の部屋から隣家に声をかける。窓越しに隣家のテレビでインド映画を見るのだ。パキスタンの庶民の暮らしなのだろう。窓の前に二人並ぶ姿がなんとも慎ましい。

 

アヤンの仕事は製薬会社のセールスマンだ。国産の薬は医者に受けが悪い。アヤンは思い切って多国籍企業の試験を受け合格する。与えられたのは粉ミルクを病院に納品する営業だった。持ち前のセールスセンスと企業の資金で、着実に医師たちに食い込んでゆくアヤン。ある時、自分が売っている粉ミルクを飲んだ乳児が、死亡する事件が相次いでいることを知る。アヤンは仕事をやめ企業を訴えようとするのだが…。

 

映画はパキスタンで起きた実話だそうだ。パキスタンの貧しい地域では、粉ミルクを不衛生な水で溶かして飲ませるため、乳幼児が死亡してしまう。企業はそれを知りながら買収した医師を通じて粉ミルクを売り続け、今も子どもたちが亡くなっているという。

                                         

監督は「鉄くず拾いの物語」のダニス・タノヴィッチ。

「映画の中で述べたように、これは昔からの問題で、いつまでも繰り返されています。粉ミルク製造業者は、粉ミルクを与えられた赤ん坊が、母乳を与えられた赤ん坊より病気になりやすいこと、貧困の場合死ぬ可能性が高まることを知っています。それでも事態は変わらないのです。」
  

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アヤンはなぜ大企業を訴える勇気を持ち得たのか。

 

「自分の信念に背く夫を尊敬できない」

 

と妻に言われたからだ。シンプルな話だ。アヤンは一人ではない。父と母、妻、そして小さな娘。それらの関係の中でアヤンは生き方を定め、行動する。その意味でこれはアヤンの家族の物語でもある。

 

アヤンは自らと家族の身に危険が及ぶと、人権組織に助けを求める。人権組織はドイツのテレビ局を通じてこの問題を世界に知らしめようとするのだが、アヤンのある秘密が暴露され、放送は中止になってしまう…。

 

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この問題が今も続いていることに驚くが、その要因の一つはマスメディアが報じないということにあるのだろう。ドイツのテレビ局はアヤンの秘密を知って放送を中止したというが、アヤン抜きでも調査報道は出来た筈だった。しかし中止したのは相手が巨大企業であったからだ。この映画も、大きな枠として映画製作者たちがアヤンの証言を聞くという構成になっている。客観的な視点をあえて入れ込まないと訴えられるというのが理由のようだ。

 

この映画のパンフレットに載せられていた言葉が、とても印象に残っている。

  

「巨悪として描かれる企業だが、その一人ひとりの保身や怒りや正当化や諦めは、どれも経験あるなじみ深い感情だった。悪とは目をつぶる弱さの集合体なのだ。」
(末永絵里・乳児用液体ミルクプロジェクト代表)

 

私たちは小さな存在に過ぎない。それでも目を開き小さくでもつぶやく勇気が持てれば、と思う。

 

監督:ダニス・タノヴィッチ
主演:イムラン・ハシュミ
原題:Tigers
インド・フランス・イギリス 2014 / 94分
 
公式サイト

http://www.bitters.co.jp/tanovic/milk.html

彼らが本気で編むときは、

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小さなアパートの一室、洗濯物をたたみ終わると、テーブルに置いてあるコンビニおにぎりを食べる女の子。11歳のトモ。夜中に帰ってくる母親は酔って吐きながら眠ってしまう。いつものことなのか、寝起きの母親を残して学校に行く。しかしやがて母親は帰ってこなくなる。

 

困ったトモが頼れるのは母親の弟。つまり叔父さんのマキオだ。職場に行くと歓迎してくれたが、今はひとり暮らしじゃないという。ちょっと変わった同居人がいるらしい。そんなマキオの部屋でトモを待っていたのは、トランスジェンダーのリンコだった。それから3人の、奇妙であたたかな共同生活が始まる。

 

監督は「かもめ食堂」の荻上直子。新聞で、あるトランスジェンダーの女性の話を読んだのがきっかけだったという。

 

次男として生まれた彼女は、幼少期から可愛いものや女の子用の服を欲しがった。中学に入り『おっぱいが欲しい』と明かされると、彼女の母は、『あなたは女の子だもんね』と胸につける『ニセ乳』を一緒に作った、と記事にあった。そこには、女の子になった息子を自然のこととしてしっかり受けとめる母がいた。」

                    

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マキオは、介護施設で母親をていねいに洗う職員のリンコを見て、その美しさに一目惚れしたという。リンコはもともと男性として生まれた、ということを知ったのはそのあとのことらしい。そんなこともあるのだ。マキオは言う。

 

「リンコみたいな性格の人に惚れちゃったらね、それ以外のことはどうでも良くなっちゃうんだ。男とか、女とか、そういうことももはや関係ないんだ。」

 

映画を見ながら、「リンコみたいな性格」、すなわち「美しい性格」とはどういう性格なのかについて考えていた。他人に対する思いやりのあること、愛情の深いこと、そして考えられるのは、無私であること。「私」を捨てることの出来る人は美しい。しかしリンコは決して無私なひとではない。「私」の性に徹底的にこだわった末に行きついた生き方なのだから。しかし、逆にそこだけにこだわりぬくことで、あとのことは「無私」になることができるのか。

 

先日新聞を読んでいたら、哲学者の池田晶子氏の次の言葉が紹介されていた。

 

「君が自分を捨てて、無私の人であるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。真実だよ。」(「14歳からの哲学」)

 

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リンコはトモに愛情を抱き、やがて自分たちの子どもとして育てたいと考えるようになる。しかし乗り越えるべきハードルは多い。そんなとき、トモの母親が姿を現す。

 

荻上監督は語っている。

トランスジェンダーであっても心が女性であれば、子どもができたら母性がわいて、母と子という関係性が生まれてくる。今回一番描きたかったことはそれなんです。…そして、リンコのなんということのない日常を丁寧に描くことで、その延長線上にある『誰もが持っている孤独感』を出せればと思いました。」

 

トランスジェンダーの人が、決して美しい性格の人ばかりというわけではないだろう。しかし、黙って編み物を続けるリンコの横顔には、必要以上に傷つき、悲しみ、憤り、それでも「私」を捨てることができなかったひとりの女性の、近寄りがたい「孤独」が滲んではっとさせられる。

                

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監督・脚本:荻上直子
主演:生田斗真、桐谷健太、柿原りんか
日本映画 2017 / 127分

 
公式サイト 

http://kareamu.com/

 

海は燃えている 

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地中海。イタリア最南端の島、ランペドゥーサ島。海岸沿いの松の木が低い枝を四方に長く伸ばしている。11歳の少年サムエレは枝の錯綜する頭上に小鳥を探している。やがて小さな枝を折るとナイフで削り始める。パチンコを作るのだ。

 

サムエレは友だちにパチンコの作り方を得意げに語る。「木は松がいい」と。二人は海岸沿いに生えるサボテンの葉に穴を開け、人の顔に見せる。それらをめがけてパチンコで撃ち合う。サボテンは面白いように砕ける。サボテンの笑った顔がゆがむ。

 

島の住民は5500人。人々は漁で生活している。しかし、年間5万人を超える難民・移民がアフリカなどから押し寄せる。この島のセンターを通じてヨーロッパ大陸へ渡るのだ。しかしサムエレが彼らと交わることはない。映画は、この島に移り住み1年半の歳月をかけてその日常を記録した。

 

監督はジャンフランコ・ロージ。

 

「距離は近いはずなのにコミュニケーションがとれないのです。その図式はヨーロッパのメタファーのようだと思いました。」

                      

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難民たちがのるボートからは、救助の要請が無線でひっきりなしにくる。

 

「今の位置は?」

「助けてください。小さな子どもがいます…」

 

やってくる難民の状況はひどい。救助艇が近づくと極度の脱水症状で動けなくなった男たちが何人もいる。中には死体となった人も。まさに命をかけて大陸を抜け出してくるのだ。

センターではアフリカの男たちが、これまでの来し方を歌うように語っている。

 

…ナイジェリアから逃げてきた。砂漠にのがれたが脱水症状で俺たちはみな自分の小便を飲んだ。俺たちは自分の小便を飲んだんだ。リビアの監獄ではいつもいつも殴られた。そして海に出たんだ。海に出たからこうして助かった。仲間はほとんど死んだが、俺はこうして助かった…

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ジャンフランコ・ロージがこの映画を撮るきっかけとなったのは、島に住む一人の医師ピエトロ・バルトロとの出会いからだという。彼はこの20年間、救助された移民・難民の上陸にすべて立ち会ってきた。

 

「一時間半ほどの濃密な話し合いのあと、彼はコンピューターのスイッチを入れ、私が移民・難民の悲劇に『自分の手で触れるよう』、これまで誰にも見せたことのないいくつかの写真を見せてくれました。胸の張り裂けるような写真でした。…私はランペドゥーサ島に引っ越し、古い港の小さな家を借りました。私はこの悲劇を島民の目を通して語りたかったのです。」

 

バルトロ医師のもとにある日、サムエレ少年がやってくる。視力検査をすると左目をほとんど使っていなかったことが分かる。視力を回復するため、右目をマスクして左目を鍛えるようにと言われる。しかし左目だけだと何度打ってもパチンコが的に当たらない…。

 

漁師の父親からは「パチンコばっかりしてないで、胃を鍛えろ」と言われるサムエレ。実は父親の船に乗り、酔って吐いてしまったのだ。「早く一人前の船乗りにならないとな」。親子でスパゲティを黙々と食べる姿が、不思議と愛おしいものに感じられる。

             

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ドキュメンタリーで、撮影者の存在をほとんど感じさせない映画を久しぶりに見たような気がする。カメラがいることをあえて無視するのは逆に不自然、という考えからか、最近の多くのドキュメンタリーは取材相手とカメラとの関係性を軸に展開する。

 

しかしジャンフランコ・ロージはあえて取材者の存在を隠す。そのことで1カット1カットが独自の緊張感を帯びている。それが現実のドキュメントでありながら詩的な余韻を残す要因だろう。そして濃密なカットは、撮影されなかった膨大な現実を想起させる。これほどのドキュメンタリーになかなか出会えるものではない。

 

「いかに撮るかでなく、いかに見逃すかが重要なのです。」

 

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ロージ監督は来日した時の記者会見で、バルトロ医師の言葉を紹介した。なぜランペドゥーサがここまで、島にやってくる人々を受け入れるのか、と監督が問うた時のことだ。

 

『ランペドゥーサは漁師たちの島で、漁師たちは海からくるものを受け入れるからだろう。』

 

そしてこう語っている。

 

「これは美しい言葉だと思いました。未知への恐怖を受け入れる。彼らから魂を学ぶべきではないでしょうか。」

 

未知なるものを受け入れることが成熟である、ということか。少年サムエレは桟橋につながれた小舟に揺られながら、船酔いに備えてからだを慣らす。やがて左の視力が少し回復する。「もう少しだ、もう少しだ」とつぶやく。

 

監督・撮影:ジャンフランコ・ロージ
イタリア・フランス 2016 / 114分
 
公式サイト

http://www.bitters.co.jp/umi/

ブラインド・マッサージ

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中国、南京。繁盛するマッサージ院にある日、恋人を連れた王(ワン)がやってくる。院長と幼なじみの王はここで働くため、深圳からやってきたのだ。寮で寝泊まりしながら働くマッサージ師はすべて盲人。王とその恋人、孔(コン)の出現は、このマッサージ院にちょっとした波風を立てる。

 

若い小馬(シャオマー)が、ひょんなことから孔に触れ、女性の匂いに目覚めるのだ。ことあるごとに孔に触れようとする小馬。心配した先輩が、小馬を風俗店に連れてゆくのだが…。

 

この映画は、あるマッサージ院で働く盲人たちの、それぞれの恋愛の断片を描いた群像劇だ。たとえば客から美人と評判の都紅(ドゥホン)。客の声を何度も耳にする院長の沙(シャー)は、都紅の“見えない”美しさに惹かれてゆく。ある時都紅に近づき、その思いを告げる。

                      

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「目が見えないことで、今まで自分が惨めだと感じたことはない。しかし今、君の美しさを知ることができない自分を惨めに感じる。知りたいんだ。君が持つ“美”を。」

 

沙は都紅の顔を、手のひらと指で撫でてゆく。“美”を指先で捕まえようと。しかし沙が触れている都紅の肌、顔の輪郭は、はたして都紅の“美”なのか。目に見える美しさは、見えないものにとって一体どんな意味があるのか。都紅はこう言い放つ。

 

「あなたは私を愛していない。目が見えない女ほど、愛を見抜くの。」

 

監督は中国の俊英、ロウ・イエ

「(この作品は)現実の世界とのかかわりを暗喩(メタファー)として描いた作品だと言われることがありますが、目が見えない世界というのは、暗喩(メタファー)の世界なんかよりも奥が深くて、すごい世界ですよ。」

 

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先輩に連れられた風俗店で、マンを紹介された小馬。何度も通ううちそれはやがて恋愛感情に変わる。頻繁に通いすぎて警察の摘発の巻き添えを食う。ほかの客がいると知って部屋に乗り込み逆に散々に殴られる。とにかく小馬という男は一途だが、マンも次第に惹かれてゆき…。

 

作品中に盲人の声を代弁するようなナレーションが時折入る。そのなかに、小馬とマンのことを語るこういう言葉があった。

 

「運命は目に見えないから、盲人のほうが敏感にそれを感じ取る」

                      

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そして別のところでこういう言葉も。

 

「盲人にとって健常者は別の種類の動物だ」

 

目が見えないことは欠落ではない。この世には2種類の人間がいるのだ。目が見えない人間と目が見える人間。それぞれがまったく違う世界を生きている。そのことの生きづらさと、裏返しの誇り。映画はそれらを容赦なく映し出し、びりびりと見るものの感情を波立たせる。

 

監督:ロウ・イエ
原作:『ブラインド・マッサージ』ビー・フェイユイ著 白水社
主演:ホアン・シュエン、ホアン・ルー、メイ・ティンほか
中国・フランス 2014/115分

 

公式サイト

http://www.uplink.co.jp/blind/