映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

帰ってきたヒトラー

f:id:mikanpro:20160625230344j:plain

「あの時と同じ…
    最初はみな笑っていたわ」

 

あのヒトラーが2014年のドイツにタイムスリップした。ちょび髭で軍服姿、おかしな言動は物まね芸人と間違われ、すぐにテレビ出演することに。人の心を鷲づかみにする話術はお手の物のヒトラーは、一躍人気者になってゆく。やがて一緒に活動を続けていたディレクターは、残された映像から彼が本物のヒトラーだと気づくのだが…。

 

この映画の独特なところは、物語の中に新たに撮影したドキュメント映像を織り込んでいるところだ。劇中のヒトラーはテレビディレクターに連れられ、ドイツ中を回って人々の話を聞いて歩く。が、これがドキュメントなのである。人々はヒトラーの扮装をした役者(オリヴァー・マスッチ)を受け入れ、本音をぶつけてくる。外国人(移民)が嫌いな中年女性、自分を引っ張ってくれる強い指導者を求める若者…。

 

監督のデヴィッド・ヴェンド氏は、


「あれほど多くの人々が公然と外国人に反対し、民主主義に対して激しい怒りを露わにするとは思ってもいなかった。」


という。

 

「ドイツ全土にわたり僕たちが撮影した多くの人々が、ヒトラーと同じ考えを持っていることにとても驚いている。つまりドイツ国民は絶えず話し合う民主主義的な社会よりも、再び強い指導者を必要としているということだ。」
           

                                                                         f:id:mikanpro:20160625230415j:plain

オリヴァー・マスッチ演じるヒトラーは、他者に対する慈愛と自分に対する自信に満ちているように見える。実際のヒトラーはどうだったのか。ただ当時のドイツ人が熱狂したのだから、いくばくかそういう風に見える要素があったに違いない。そして、現代のヒトラーは、大衆の心をつかむためなら道化と思われてもかまわないと語り、進んでその役を演じようとするのだ。彼の目指すところが何なのか誰も知らないまま、人々は再び彼の手中に落ちてゆく。

 

3年前日本の麻生太郎副総理は、「ワイマール憲法はいつのまにかナチス憲法変わっていた、あの手口に学んだらどうか」と述べた。(後に発言を撤回したが、こういう人が今も日本の副総理なのだ。)まさしく現代のヒトラーはそのように動いている。

f:id:mikanpro:20160625230525j:plain


この映画は絶対悪のヒトラーを相対化し、人間的な側面に光をあてた。その事で賛否両論あるようだが、そのような視点に立たなければ、現代のヒトラーを見破ることができないということなのだろう。

 

ヒトラーを悪のモンスターとして、民衆を無力化する悪魔として描けば、実際に彼が行った事実やホロコーストに対する責任から目をそらすことになるし、民衆が負うべき責任を軽んじることにもつながる。ユダヤ人の迫害を可能にしたのはドイツ国民だ。自ら進んでヒトラーに投票する民衆がいなければ、彼が政権を握ることはなかったはずだから。」
(デヴィッド・ヴェンド監督)

 

なぜ人々は自分を選んだのか。ヒトラーはテレビディレクターにそう問いかける。そして自分で答える。

 

「それは、皆が私と同じ考えだからだ。…倫理的にも。」    

                       f:id:mikanpro:20160625230553j:plain

映画の後半、今の時代に根を下ろした排外主義的なムードの実写映像がフラッシュで流れる。その映像を背景に現代のヒトラーが静かにつぶやく。

 

「好機到来だ」

 

監督:デヴィッド・ヴェンド
原作:ティムール・ヴェルメシュ「帰ってきたヒトラー」(河出文庫
主演:オリヴァー・マスッチ
ドイツ映画 2015 / 116分

 

公式サイト

http://gaga.ne.jp/hitlerisback/

FAKE

f:id:mikanpro:20160615215410j:plain

「あなたの怒りではなく、あなたのかなしみを撮りたい。」

監督の森達也氏は映画のはじめにこう告げる。相手は佐村河内守氏だ。全聾の作曲家を自称していたが、実は別の人間に作曲させていたことで大きな騒動を巻き起こした佐村河内守氏。世間からバッシングを受けた人物の、その後に密着したドキュメンタリーである。

 

奥さんと一匹の猫。静かに暮らす佐村河内氏の家には、いくつかのテレビ局が出演依頼に訪れる。来客があるたびに奥さんは、必ず珈琲とケーキをふるまう。テレビ局の人たちは佐村河内氏を出演させるため言葉を尽くすが、それはどれも浮いたように聞こえる。ある時、海外メディア(新聞)が取材に訪れ、作曲のための楽器が一切家にないことに非常に驚くが…。

 

森監督はパンフレットにこう書いている。

「視点や解釈は無数にある。一つではない。もちろん僕の視点と解釈は存在するけれど、最終的には観たあなたのもの。自由でよい。でもひとつだけ思ってほしい。
 様々な解釈と視点があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴らしいのだと。」

     

                                                                          f:id:mikanpro:20160615215439j:plain

                 
佐村河内氏は耳が聴こえないことを疑われていたが、医師の診断書があるといって見せてくれる。そこには「感応性難聴」とある。メディアはこれをちゃんと伝えないと言って、佐村河内氏も森監督も憤慨して見せる。しかし、全聾と言うわけではないようだ。実はNHKなどで放送されるよりずいぶん前に「交響曲第一番」という彼の自伝を読んだ。そこには「全聾」になった苦しみ、かなしみが連綿と綴られていたのだが。つまり私も騙された一人である。

 

映画の前半で佐村河内氏が森監督に尋ねる。信じてくれますか僕を、と。森監督が答える。信じないと撮れないです、と。そして付け加える。(あなたと)心中です、と。これがこの映画の視点である。この視点で見ると、テレビ局の人たちやゴーストライターを務めた新垣隆氏は、滑稽な笑いものになる。確かに面白いのだが、こういう風にしてしまうと、結局佐村河内氏をバッシングする世間とそんなに変わらないのではと思ってしまう。

f:id:mikanpro:20160615215531j:plain


「誰が彼を造形したのか。誰が嘘をついているのか。自分は嘘をついたことはないのか。真実とは何か。虚偽とは何か。この二つは明確に二分できるのか。メディアは何を伝えるべきなのか。何を知るべきなのか。そもそも森達也は信じられるのか。」

 

真実と虚偽。この二つが明確に二分できないことなど皆知っている(のではないか)。理屈ではなく、生活実感として。みな虚と実の間を行ったり来たり。問題なのは、人はその不安定さに耐えられないことだ。何が本当で何が嘘か分からず、不安で、不安で仕方がない。だから確かな嘘が現れた時、喜び勇んで叩き始める。確かなものが逃げないように、確かなものが確かにあることを確かめるように、繰り返し、繰り返し。「かなしみ」というならこのことではないか。

 

映画の後半になって、今度は森監督が尋ねる。あなたは私を信じますか、と。佐村河内氏が答える。あなたは丸ごと私を信じてくれた。私はそのような人間になりたいと思うから、あなたを信じる、と。森監督は言う。私は信じたふりをしているかもしれないですよ、と。しばらく考えて佐村河内が答える。そうしたらそれは私の問題です。・・・
        

                                                                        f:id:mikanpro:20160615215608j:plain

しかし彼はなぜ嘘をついたのだろうか。ともかく世間に認められたいから?だから嘘をついた?映画は、そもそもの話には触れていない。しかし、だれもが抱えているこのどうしようもない弱さ。そこに陥ってしまった男にやはり普遍的な「かなしみ」がある、と思う。

 

監督:森達也
出演:佐村河内守
撮影:森達也、山崎裕
日本映画 2016 / 109分

 

公式サイト

http://www.fakemovie.jp/

或る終焉

f:id:mikanpro:20160605205810j:plain

車のフロントガラス越しに一軒家が見える。しばらくすると女性が出てくる。車に乗り込んで出発した後を追いかける。カメラが運転手の横顔にパンする。やがて正面に向き直ったとき相手の車のすぐ後ろまで来ている。そこで暗転。次に映し出されるのは扉の向こうの浴室。先ほどの運転手が今度は、動けないらしい老女の体を丹念に洗っている。やせ細った体が痛々しく見える。男は介護の仕事をしているようだ。しかし誰を追いかけていたのか、謎のまま男の日常が進む。

 

エイズを患っていた女性はやがて死ぬ。次は脳こうそくで体が思うように動かない老人の男性。そしてがんが転移した年老いた女性。幾通りもの肉体の衰弱、そして死。誰もが迎えなければならない人生の最期。しかしそれは決して美しいものではないばかりか、汚物にまみれてのたうち回るような峻烈な世界だ。男はその傍らに寄り添うようにして介護を続ける。ある時、がんが転移した患者に、楽に死なせてくれるようお願いされるのだが…。

 

                                                                               f:id:mikanpro:20160605205915j:plain

  監督はメキシコのミッシェル・フランコ。祖母に付き添っていた看護師をヒントに作り上げた、という。

 

「彼女は終末期患者の世話を20年続けていると教えてくれた。喪失と死は彼女の人生の一部であり、この仕事は感情の処理が難しく、慢性うつ病を引き起こしかねないという。それでも彼女は他の仕事に就くことはないだろう。これが彼女の人生であり、キャリアなのだ。彼女は喪の状態から立ち直って再び人生と繋がるために、すぐにまた別の終末期患者を探すのだ。」

 

ティム・ロス演じる看護師は、度を越えて献身的。患者とほぼ一体化してしまうようだ。そのため家族からはとんだ誤解を生み、セクハラで訴えられたりもする。なぜそこまで?
ミッシェル・フランコは、「この主人公を、死ぬとわかっている患者とだけ親密な関係を持てるようなキャラクターとして考えた」という。
やがて最初のシーンで追いかけていたのは誰なのかが明かされ、彼自身の秘密も明らかにされる。

f:id:mikanpro:20160605205952j:plain

 

様々な死に様を見ていると、やはり命が尽きるとはこのようなことなのかと改めて思い知らされる。死を迎えるとはやはり肉体が変化することなのだ。当たり前だけれど。そしてその死にざまは千差万別。徐々に衰弱する覚悟の死もあれば、穏やかな日常をいきなり断ち切られる死もある。その生と死の境目に看護師は向き合い続ける。

 

そしてやってくるラスト。最後に訪れるこのシーンは誰もが驚愕する。今この日常が続いていくのが当たり前と感じている私たちは、しばらく呆然とする。やがてこの出来事が、これまでこの映画が描いてきたものと深いところで繋がっていることに、改めて気づくことになる。

 

「僕にとって映画が素晴らしいのは、それが人生を探求するひとつの方法だから。もちろん答えを見つけることはできないけれど、僕らはどんな人間で、どのように生きて、いかに他人と関わりあっていくか、ということを考える手段でもある。」(ミッシェル・フランコ

 

監督・脚本:ミッシェル・フランコ
主演:ティム・ロス
原題:CHRONIC
メキシコ・フランス 2015 / 94分
 

公式サイト

http://chronic.espace-sarou.com/

海よりもまだ深く

f:id:mikanpro:20160525214448j:plain

駅の階段を降りた先にある立ち食いそば屋。良太は春菊天そばを注文する。美味そうである。西武線清瀬駅。旭が丘団地まではここからバスに乗る。年老いた母親が一人で暮らしているのだ。この日は亡くなった父親の遺品に金目の物を探しに来た。「確か掛け軸が雪舟だったよね…。」と母親につめよるが、母親は父親の物は捨ててしまったと、にべもない。良太、ちょっといじましい。

 

良太を演じるのは阿部寛。一度新人賞をとったきりパッとしない小説家志望の中年男だ。小説のリサーチと言い訳して興信所で働いているが、無類のギャンブル好きがたたって、いつも金に困っている。しかも、愛想をつかされ離婚した元妻(真木よう子)と一人息子に未練たらたら。ストーカーまがいの尾行までしてしまう。

 

監督・脚本は「海街diary」の是枝裕和。自分が生まれ育った実在の団地で撮影した。脚本の冒頭に「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」と書いたという。

 

「仕事だけでなく家庭でも、良太は息子であり、夫であり、父であり、弟でもありながら、何一つまともにできていません。良太をはじめ登場人物はみんな、なりたかったものになれない人生を送っています。考えてみれば団地だって、建て始めた当初は単身の高齢者ばかり暮らす現在の状況を予想だにしていなかったはずです。その切なさと登場人物の切なさを重ね合わせたいと思いました。」

               

                    f:id:mikanpro:20160525214603j:plain

そういえば昔、出張が多かった頃、同じように出張に出かけた先で後輩がつぶやいた言葉が忘れられない。

 

「ビジネスホテルのバスタブに浸かっていると、俺ここで何やってるんだろうな、って思うんです。」

 

彼が夢見ていた自分は、田舎のビジネスホテルのバスタブに浸かるような人間では決してなかったのだろう。今でもホテルのバスタブを見るとその時の言葉を思い出す。

 

なりたかった大人になれるひとなんていない。なぜなら、子どものころなりたかった大人は、あこがれの誰かか、周囲の期待する未来の自分か、だからだ。そんなのは自分ではない。自分ではないのでなれるわけがない。そこからどうしてもそれてしまう自分の足取りは、それだからこそ自分自身のものだ。それに気づいたとき、人は自分の道を歩きはじめることになるのだろう。

 

f:id:mikanpro:20160525214717j:plain

一筆書きのようなシンプルな映画だが、思いのほか余韻が深い。良太が単純そうに見えてそう簡単ではないという印象が一因かもしれない。母親役の樹木希林は劇中で「人生なんて単純よ」と言い切るのだが…。

 

小説家と言うのは、現実世界のマイナスがすべてオセロのようにプラスに反転する、と何かで読んだことがある。だとすれば良太もいじましい自分をそのまま書けばいいのだ。いい小説が出来るかもしれない。それともまだまだマイナスが足りないのだろうか。

 

未練も夢も捨てなくてよい。ただ自分の未来は彼方にはない。それは場末のビジネスホテルの、汚いバスタブの中から生まれるものかもしれないのだ。

 

原案・監督・脚本・編集:是枝裕和
主演:阿部寛樹木希林真木よう子
日本映画 2016 / 117分

 

公式サイト

http://gaga.ne.jp/umiyorimo/

 

アイヒマン・ショー

f:id:mikanpro:20160515193437j:plain

1961年、ナチスの将校でユダヤ人虐殺を推進した責任者、アドルフ・アイヒマンの身柄が拘束された。15年に及ぶ逃亡生活の果てのことだった。身柄はイスラエルに送られ、エルサレムの法廷で裁かれるという。TVプロデューサーのミルトン・フルックマンは、この裁判を放映すべく、奔走する。立ちはだかるのは、テレビカメラを嫌がる判事たち、元ナチスの脅迫、そして自らが選んだ監督との意見の相違だった。

 

監督は「アンコール‼」のポール・アンドリュー・ウィリアムス。TVプロデューサーを演じるのは、ホビットマーティン・フリーマン。この映画は、アイヒマンの裁判を世界に向けて放映しようとしたテレビマンたちの物語である。

 

「世界には常に偏見がある。身の毛もよだつようなことが次から次へと起こる。もしそういう過去を忘れてしまえば、また我々は同じことを繰り返すかもしれない。忘れずにいること、記憶していることはとても重要だと思う。」(マーティン・フリーマン

          

                                                                               f:id:mikanpro:20160515193505j:plain

TVプロデューサーが選んだ監督にはある意図があった。それはアイヒマンがどのような人間か、映像を通じて伝えたいということだった。彼は言う。「彼の内面は必ず身体反応に現れる。それを逃すな」と。

 

「なにが子煩悩な我々と同じようなありふれた男を、何千人もの子どもを死に追いやる人間に変えたのか、それを見つめるんだ。状況が変われば、誰もがアイヒマンになりうる。」

 

そして執拗にアイヒマンの表情を追う。しかしアイヒマンは生存者のどのような証言を聞いても、収容所の悲惨な映像を見ても無表情だった…。

 

f:id:mikanpro:20160515193624j:plain

 

作家の開高健はこの裁判を傍聴しこう書いている。

 

「アイヒマンはいつも無表情である。・・・しじゅうくちびるをけいれんさせて左へ左へつりあげる癖をくりかえす。鼻をゆがめ、口をとがらしたその顔は醜悪と呼んでよかった。」

 

そして検事総長から証拠となる「虐殺指令所」を見せられた時のことだった。

 

「たしかに記憶があります。この署名は私のものです」

「君自身がしたのだね?」

「そうです。私自身がしました。しかし……」

彼はつぶやいた。

「しかし、この署名は私の人格とは何の関係もないのです」

(「裁きは終わりぬ」開高健

 

アイヒマンは、自分の意思でなくただ命令に従っただけだと繰り返し語る。ただ、それが事実だとしても責任は生じるだろう。同じように原稿を依頼され現地で傍聴していた哲学者に、ハンナ・アーレントがいる。彼女は何も考えずにいることは、人間であることを放棄したことだと語る。彼女の伝記映画(ハンナ・アーレントマルガレーテ・フォン・トロッタ監督2012)の中のセリフにこういうくだりがある。

 

「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。…人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。…私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

f:id:mikanpro:20160515193657j:plain    映画ハンナ・アーレント

 

考えることによって人間は人間でありうる、という言葉には説得力がある。しかしアイヒマンは本当に何も考えていなかったのだろうか。彼なりに考えた末に選んだ結論が命令を忠実に実行することだったのではないか。そういう疑問が浮かぶ。

 

人間は誰しもそんなに強靭な思考力があるわけでもないし、強くもない。だから本当は「危機的状況」に至る前に「考え抜」かねばならないのだろう。映画の中で監督が言ったように、状況が変わって誰もがアイヒマンにならないために。

 

彼らが撮影した映像は、世界37か国で放映された。裁判そのものには賛否両論があるようだが、裁判の記録映像が与えた衝撃は計り知れない。アイヒマンがどのような人間であるのか、全世界に伝わったのだ。それは感情をあらわにするだろうと予測した、監督の意図に反する形でではあったが。

 

監督ポール・アンドリュー・ウィリアムズ

主演:マーティン・フリーマン、アンソニー・ラパリア

イギリス映画 2015 / 96分

 

公式サイト

http://eichmann-show.jp/

 

ハンナ・アーレント

http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

山河ノスタルジア

f:id:mikanpro:20160505210947j:plain

ペットショップボーイズの「GO・WEST」にあわせて若者たちが踊る。中国山西省の田舎町、汾陽。その中に25歳の美しいタオがいる。1999年、この時タオには、思いを寄せられている二人の幼なじみがいる。一人は内気な炭鉱労働者、一人は自信たっぷりの実業家だ。二人の間で揺れ動きながら一方を選択するタオだったが…。映画はこのあと27年にわたってタオの人生を点描することになる。

 

監督は「長江哀歌」「罪の手ざわり」の中国気鋭ジャ・ジャンク―。

 

「昔は世俗的な話には興味がなかったが、今はありきたりな物語をどう撮るかが大事だと思えるようになった。」

 

2014年、離婚したタオは、上海にいる夫に長男の親権を譲って一人で暮らしている。祖父の葬儀で久しぶりに会う息子に、得意の餃子を作って食べさせるタオ。そして2026年、長男のダオラーは成長しオーストラリアの大学に通う。しかし、中国語が話せず父親とコミュニケーションが取れずにいた…。 

                    f:id:mikanpro:20160505211018j:plain

監督の言うように特別な人間が出てくるわけではない。どちらかと言うと皆典型的な人物だ。ただ2026年の大学で、年配の語学教師だけは典型から外れている。少し謎めいたところのある女性で、ダオラーは次第に惹かれてゆく。それまで12年、母親と会っていないダオラーの封印された思いが、彼女に触れることで溢れ出す。

 

「名前はタオ。“波”と同じ発音なんだ」

 

それでも母に会うことをためらうダオラーに、彼女が言う。

 

「時間がすべてを変えるわけじゃないのよ」

 

f:id:mikanpro:20160505211101j:plain

 

その時、初老となったタオは中国の田舎町でひとり、餃子を作っている。若いころから作ってきたあの餃子だ。タオは、息子に呼びかけられたようで思わず振り返る…。

 

映画は変わらぬものを描き、そのことがしきりと胸を打つ。なぜなのだろう。

先日リバイバル上映されたバベットの晩餐会を見に行った。この作品も変わらぬものを描き心にしみる。            

                   f:id:mikanpro:20160505211145j:plain                                        

ノルウェーの寒村の教会。厳格な牧師のもとに暮らす美しい姉妹がいた。姉のマチーヌに心惹かれながら、ついに恋を打ち明けずに去った将校が、30年後の晩餐会にやってくる。それぞれがもう若くはない。バベットが作る素晴らしい晩餐のあと、かつて別れの挨拶を交わした同じ玄関で向き合う。将軍となった彼が言う。

  

「わたしはこれまでずっと、毎日あなたとともにいたのです。お答えください、あなたもそれをご存じだったと」

 

すると彼女が何の迷いもなく答える。

 

「ええ、そのとおりでした」

 

 

時の流れは多くの傷を癒してくれる。だから錯覚してしまうが、時の流れで色々なことが変わってしまうことに、実は私たちはとても傷つけられているのだ。

 

映画の終盤、タオは雪の降りしきる町に出る。そして誰もいない広場で、記憶の中の「GO・WEST」にあわせ、静かに踊る。雪の向こうに、いつも変わらぬ町の建物が見える。思えばタオはこの地を離れることがなかった。

永遠に続くように思えた時間はいつか終わり、この雪もいつか止む。そのことに傷つき、同じそのことに救われる。

 

監督・脚本ジャ・ジャンクー

主演:チャオ・タオ、チャン・イー、リャン・ジンドン

中国・日本・フランス 2015 / 125分

 

公式サイト

http://www.bitters.co.jp/sanga/ 

 

バベットの晩餐会

http://mermaidfilms.co.jp/babettes/

スポットライト 世紀のスクープ

f:id:mikanpro:20160425221433j:plain

アメリカ、ボストン。地元の名門新聞「ボストン・グローブ」に新しい編集局長がやってくる。それが物語の始まりである。彼は着任早々、神父が児童に性的虐待を加えていた事件を調べるように命ずる。30年の間に80人もの児童に手を出したケーガン神父の事件だ。事実の深刻さに比べて、この事件の取り扱いがこれまで少なすぎるというのだ。調べてゆくうち事態は予想を超えた広がりを見せてゆく…。

 

監督・脚本はトム・マッカーシー。 

「この作品で教会をバッシングするつもりはない。これは『なぜこのようなことが起きてしまったのか』という問いかけだ。子どもへの虐待だけでなく、その虐待を隠ぺいしようとした組織ぐるみの悪しき行いが教会内にあった。そしていまだに行われているところもあるかもしれない。なぜ誰も声を上げずに、この虐待が何十年も横行することを許してしまったのだろうか。」                        

                                                                                  f:id:mikanpro:20160425221456j:plain

教会という権威への挑戦と、周囲の無理解をものともせず続けられた粘り強い取材…。この映画は記者たちの調査報道の輝かしい実績として語られている。しかし、むしろ印象に残ったのは、数年前に同じ情報を提供されたとき、その重要性に気付かず小さな記事で済ませたという事実だ。それは勇気がなかった、ということとは少し違う気がする。

徹底した取材を命じた編集局長は言う。

 

「我々が歩んでいるのは暗闇の中だ。光が当たらないと、そこが間違った道なのかどうかが分からない。」

 

私たちが見る世界はいくつものフィルターがかかっていて、見えているのに見ていないことって結構あるのだろう。そして自分の見ている世界、感じている世界が唯一と思ってしまっているのだ。神父が何か悪いことをしている。しかしそれほどひどいことではあるまい。だって神父なのだから、と。しかしフィルターを一つ外すだけで、別の世界が姿を現す。壁の反対側に一面に白アリがこびりついているようなものだ。

 

そして壁を崩してもまたその奥に、また崩してもその奥に。白アリは消えてくれない。ボストン・グローブ紙は2002年、600本の記事を書いた。記事が出た後全世界で報告された神父によるレイプは4000件に及んだという。

f:id:mikanpro:20160425221538j:plain

日常の習慣、惰性、権威へのおもねり…、様々なフィルターを取り払って、壁の向こう側の小さな音に耳を澄ますこと。それはとても困難なことに違いない。だから、その道を歩むことの出来た人には栄光がある。この記者たちのように。しかしそこに栄光があるということそれ自体が、逆に人間社会の生きづらさを明かしてもいるのだ。

 

監督:トム・マッカーシー

脚本:ジョシュ・シンガー、トム・マッカーシー

主演:マーク・ラファロマイケル・キートンレイチェル・マクアダムス

アメリカ映画 2015 / 128分

 

公式サイト

http://spotlight-scoop.com/