映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

FAKE

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「あなたの怒りではなく、あなたのかなしみを撮りたい。」

監督の森達也氏は映画のはじめにこう告げる。相手は佐村河内守氏だ。全聾の作曲家を自称していたが、実は別の人間に作曲させていたことで大きな騒動を巻き起こした佐村河内守氏。世間からバッシングを受けた人物の、その後に密着したドキュメンタリーである。

 

奥さんと一匹の猫。静かに暮らす佐村河内氏の家には、いくつかのテレビ局が出演依頼に訪れる。来客があるたびに奥さんは、必ず珈琲とケーキをふるまう。テレビ局の人たちは佐村河内氏を出演させるため言葉を尽くすが、それはどれも浮いたように聞こえる。ある時、海外メディア(新聞)が取材に訪れ、作曲のための楽器が一切家にないことに非常に驚くが…。

 

森監督はパンフレットにこう書いている。

「視点や解釈は無数にある。一つではない。もちろん僕の視点と解釈は存在するけれど、最終的には観たあなたのもの。自由でよい。でもひとつだけ思ってほしい。
 様々な解釈と視点があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴らしいのだと。」

     

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佐村河内氏は耳が聴こえないことを疑われていたが、医師の診断書があるといって見せてくれる。そこには「感応性難聴」とある。メディアはこれをちゃんと伝えないと言って、佐村河内氏も森監督も憤慨して見せる。しかし、全聾と言うわけではないようだ。実はNHKなどで放送されるよりずいぶん前に「交響曲第一番」という彼の自伝を読んだ。そこには「全聾」になった苦しみ、かなしみが連綿と綴られていたのだが。つまり私も騙された一人である。

 

映画の前半で佐村河内氏が森監督に尋ねる。信じてくれますか僕を、と。森監督が答える。信じないと撮れないです、と。そして付け加える。(あなたと)心中です、と。これがこの映画の視点である。この視点で見ると、テレビ局の人たちやゴーストライターを務めた新垣隆氏は、滑稽な笑いものになる。確かに面白いのだが、こういう風にしてしまうと、結局佐村河内氏をバッシングする世間とそんなに変わらないのではと思ってしまう。

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「誰が彼を造形したのか。誰が嘘をついているのか。自分は嘘をついたことはないのか。真実とは何か。虚偽とは何か。この二つは明確に二分できるのか。メディアは何を伝えるべきなのか。何を知るべきなのか。そもそも森達也は信じられるのか。」

 

真実と虚偽。この二つが明確に二分できないことなど皆知っている(のではないか)。理屈ではなく、生活実感として。みな虚と実の間を行ったり来たり。問題なのは、人はその不安定さに耐えられないことだ。何が本当で何が嘘か分からず、不安で、不安で仕方がない。だから確かな嘘が現れた時、喜び勇んで叩き始める。確かなものが逃げないように、確かなものが確かにあることを確かめるように、繰り返し、繰り返し。「かなしみ」というならこのことではないか。

 

映画の後半になって、今度は森監督が尋ねる。あなたは私を信じますか、と。佐村河内氏が答える。あなたは丸ごと私を信じてくれた。私はそのような人間になりたいと思うから、あなたを信じる、と。森監督は言う。私は信じたふりをしているかもしれないですよ、と。しばらく考えて佐村河内が答える。そうしたらそれは私の問題です。・・・
        

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しかし彼はなぜ嘘をついたのだろうか。ともかく世間に認められたいから?だから嘘をついた?映画は、そもそもの話には触れていない。しかし、だれもが抱えているこのどうしようもない弱さ。そこに陥ってしまった男にやはり普遍的な「かなしみ」がある、と思う。

 

監督:森達也
出演:佐村河内守
撮影:森達也、山崎裕
日本映画 2016 / 109分

 

公式サイト

http://www.fakemovie.jp/