映画のあとにも人生はつづく

最近見て心に残った映画について書いています

レッドタートル ある島の物語

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暴風雨に会い、浜に打ち上げられた男。気づくとそこは無人島だった。男は竹を刈って筏を作り、島を出ようと試みる。しかし、何者かが邪魔をして何度も島に逆戻りしてしまう。ある時、その犯人が大きなウミガメだと気づいた男は、怒って浜に上がったウミガメを仰向けに転がすが…。

 

とてもシンプルな筆致のアニメーションである。監督はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットアカデミー賞短編アニメーション映画賞を受賞した「岸辺のふたり」を見たジブリ鈴木敏夫プロデューサーが制作を依頼した。高畑勲監督と議論しながら10年の歳月をかけたという。

 

「無人島にいる一人の男の題材は、私がずっと温めていたもののひとつでした。このような題材はありふれていますが、私はこういった典型的なものが好きなのです。ただ、無人島にいる彼がどのようにして生き延びたのかという話には興味がありませんでした。今回の映画では、それ以上の何かを描きたかったのです。」(監督インタビューから)        

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谷川俊太郎がこの映画に寄せた詩があり、一部映画のコピーに使われている。

 

どこから来たのか
どこへ行くのか いのちは?

 

人間にとって永遠の謎は、なぜ自分は今ここに生きているのか、ということだろう。誰にもわからないがゆえに何度も反芻される。

 

そういえば昔公園で、アリの動きを飽かず眺めていたことを思い出した。人間のいのちは個別のものだが、どんどんカメラがひいて俯瞰してゆくと、人間は個別の存在ではなくなり「人間」となる。そして人間のいのちは、なにか大きな流れの中の一部のように見えてくる。映画はそのようないのちの本質を伝えようとしている。だから監督はこのように語っているのだ。

 

「人間は死に抗い、それを恐れ、戦いますが、これは健全で自然なこと。それなのに、私たちは生命の純粋さや、死に抗う必要がないことを美しく直感的に理解しています。」

 

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個別のかけがえのなさを持ちながら、かつ全体の一部である。これは矛盾しているのか、それとも…。映画に答えはない。ただ人は個別でないと生きてゆけないが、一人でも生きてゆけない。存在のかなしみとはこのことだろう。映画では、そこに現れるもう一つのいのちが限りなく美しく、名前のない男の生をまさに個別のものにしているのだ。


谷川俊太郎の詩の続きはこうだ。

 

空と海の永遠に連なる
暦では計れない時
世界は言葉では答えない
もうひとつのいのちで答える

 

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原作・脚本・監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット
音楽:ローラン・ペレズ・デル・マール
日本・フランス・ベルギー 2016 / 81分
 
公式サイト 

http://red-turtle.jp/credit.html

怒り

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八王子の住宅街。ある一軒家に夫婦の惨殺死体が見つかる。壁には犯人が血で書いたと思われる「怒」の文字が…。1年後、犯人は整形を繰り返しながら逃亡を続け、日本の各地で、犯人の特徴を持つ男たちが現れる。

 

千葉の漁師町に住み着いた素性の知れない男。東京の盛り場をうろつく心優しいゲイの若者。沖縄の無人島で野宿するバックパッカー。この中に犯人がいるのかいないのか、3人とも犯人の指名手配写真と似ている。映画は、彼らと出会ってしまった人々の物語である。

 

原作は吉田修一。監督は李相日。「悪人」と同じコンビだが、今回脚本は李監督一人で書いたらしい。原作者の吉田修一が語っている。

 

「僕が李監督との会話の中で聞いたすごく好きな言葉があるんです。こちらが映画ってクライマックスに至るまでの流れってあるじゃないですか、みたいな話をしているときに、『いや、僕は全シーンをクライマックスとして撮りたいんです』って。『怒り』を観たときにまず思い出したのが、その言葉でしたね。本当に最初から最後までテンションが一切緩むことなく張りつめている。」

 

全編クライマックスシーンが果たしていい映画なのか、と言う疑問はあるが、圧倒的な熱量を湛えた映画という印象は残る。これだけの熱量の映像をまとめ切ったというのもすごいことなのだろう。ただ、ストーリーを進めるのに忙しく、余分なものをそぎ落としてしまっているために、リアルな物語にもかかわらず印象が寓話的である。いいも悪いも、まるでこれから始まる長い、長い物語の予告編のような。
   

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犯人の山神一也は犯行現場に「怒」の文字を遺した。怒りとは何か。それがこの映画の根本的なテーマなのだろう。李監督は語っている。

 

「この映画は<怒り>について特定の答えは明示していませんが、例えば犯人の山神に関しては、彼自身が<怒り>という怪物に全存在を支配されてしまった。紙一重で誰もが心の中に、発露できない怒りの火種を抱えて生きている。私たちは自分や、他者の奥底に漂う<眼に見えないもの>とどう向き合うべきなのか。」

 

自分の思い通りにならない苛立ちと、怒りは違う。怒りは人間になくてはならないとてもまっとうな感情だと思う。人は自らを守るために、時に相手を攻撃しなければならない。そのために必要な感情なのだろう。ただ統御することが難しいため、時に負の感情になり、時に正の感情になる。

 

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沖縄編ではこのテーマが際立つ。広瀬すずが演じる泉(いずみ)とそのボーイフレンド辰哉が、那覇で米軍基地反対のデモを見守るシーンがある。辰哉の父親が熱心な運動家なのだ。デモに参加する人々には、まっとうな怒りがある。しかし辰也は都会から来た泉に恥ずかしそうに言う。

 

「こんなことで何も変わらんさ。」

 

2人はその後、変わらない現実に打ちのめされる。泉はある事件に巻き込まれ、怒りさえ抱けぬほどに長い放心の日々を過ごすことになるのだ。

 

やがて、あることをきっかけに彼女は行動を起こす。そして離島の砂浜を彷徨いながら、咆哮する。何度も、何度も叫び続ける。その叫びは、彼女の中に生まれた「怒り」であり、それは、彼女が再び生きなおすための力となるまっとうな怒りである、と思う。

 

監督・監督:李相日

原作:吉田修一「怒り」(上下・中公文庫)

音楽:坂本龍一

主演:渡辺謙森山未來松山ケンイチ綾野剛広瀬すず宮崎あおい妻夫木聡

日本 2016 / 142分

 

公式サイト 

http://www.ikari-movie.com/

アスファルト

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フランスのとある郊外。今にも崩れそうな団地の一室に住民が集まっている。老朽化したエレベーターを補修すべきかどうか、話し合っているのだ。ほぼ全員が賛成したが一人だけ反対した住民がいる。2階に住む中年男のスタンコヴィッチだ。今までエレベーターを使ったことがない、使わないものにお金を出したくないという。「団結と言うことを知らないのか」となじられるが、結局お金は出さない代わりにエレベーターを使うな、と約束させられた。ところがある時、彼はひょんなことから車いすで暮らす羽目になってしまう…。はてさて。

 

映画はこの団地に住む3人の男女が、それぞれ誰かと出会う物語だ。車いす生活になってしまったスタンコヴィッチをはじめ、引っ越してきたばかりの落ちぶれた女優、なぜか団地の屋上に不時着した宇宙飛行士をかくまう羽目になった主婦。
監督はサミュエル・ベンシェトリ。小説家でもあるらしい。自身が書いた2つの短編にもうひとつエピドードをくわえて脚本化した。

 

「一言でいうなら『落ちてくる』3つの物語、といえるだろう。空から、車いすから、栄光の座から人はどんなふうに“落ち”、どのように再び上がっていくのか。」

           

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落ちてきた宇宙飛行士の若者はアメリカ人で、主婦とは言葉が通じない。主婦には同じ年頃の息子がいるが、服役中でひとり暮らし。寂しさを紛らわすように若者に好意を寄せる。得意のクスクス料理を食べ、片言で会話を交わす二人。宇宙はどんな感じ?と聞くと、飛行士が絵を描きながら答える。

                                                         

「宇宙は海の底のようなものさ。暗闇に囲まれてる。…ギリシャでは、星は天の穴というそうだ。そこには目があって我々を見ている。」
「神ね。」
「そう…神だ。こういう考え方が好きなんだけど、…つまり、暗闇の背後にはまぶしい光があるんだ。」

 

英語が分からない主婦にはおそらく最後の言葉はわからない。だが、言葉では伝わらないことがいい。闇の背後に別の世界があるというイメージ。私たちは闇から抜け出すことは困難なのだけれど、そう思うだけで心が静かに満たされる。その思いが二人に共振する。

 

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三人が三様に孤独であり、出会う人もまた孤独。しかしそれぞれがなぜか惹かれあう。老女優を演じたイザベル・ユペールはこう語っている。

 

「映画全体が孤独がひとつのテーマになっていると思う。孤独が何かのきっかけで表に出て、そしてそれが感動を呼ぶ。それがこの映画の成功の理由ね。それぞれの登場人物が何かしら傷を持っているということなの。」

 

映画の所々で、何かがきしむような不穏な音が流れる。誰もが気に掛けるが、誰もそれが何かを知らない。孤独とはこの不可解な音のようなものかもしれない。ある人は子供の泣き声のようだと言い、ある人は虎の唸り声のようだという。事実は大した問題ではない。聞こえたと人に話すこと。それをきっかけに生まれる想像。話すことで孤独ではなくなる。孤独について話すことで人は孤独でなくなる。

 

こういう物語ってなかなかないけどあってもいいよね、と思わせるうまさがある。そして、見終わった後は静かな勇気をもらえる。素晴らしい映画だと思う。                        

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監督:サミュエル・ベンシェトリ

脚本:サミュエル・ベンシェトリ、ガボル・ラソフ

主演:イザベル・ユペール、ギュスタヴ・ケルヴァン、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ

フランス 2015 / 100分

 

公式サイト 

http://www.asphalte-film.com/

ティエリー・トグルドーの憂鬱

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ひとりの中年男が文句を言い募っている。どうやら職業紹介所のようだ。結局は経験者しか採用されないのに、ここで専門技術の研修を受けたことで数か月も無断にした、と繰り返し述べている。男の名はティエリー・トグルドー。もう1年半も失業状態が続いている。

 

家では妻と障害をもつ高校生の息子の3人暮らし。それなりに楽し気な暮らしのようだ。ただ先立つものがない。ティエリーがようやく得たのはスーパーの監視員の仕事だ。巡回、監視カメラのチェック、見つかった万引き犯を個室に連れ込んで支払いをさせる…。

 

ある時、スーパーの事務員が客の割引券を自分の懐に入れているのが見つかる。彼女は叱責され解雇されるが、翌日職場で自殺してしまう。後日彼女には薬物中毒の息子がいたということが分かる。
      

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監督はフランスの俊英、ステファヌ・ブリゼ

 

「彼は私たちが毎日ニュースで聞く失業率の一面なのだ。新聞では2行で書かれていることの裏側には、人々の悲劇が存在している。」

 

ティエリーは明らかに解雇された職員の立場に近い。しかし今の職種は職員を糾弾する立場だ。ティエリーの憂鬱はそこからくる。原題は「La loi de marche」(市場の規則)だが秀逸な邦題だと思う。

 

「工場が閉鎖されてから、彼は20か月にわたって失業し、今やどんな仕事でも引き受けるしかない。結果として、道徳的に受け入れられない状況にそれぞれが置かれることになる。彼はどうすればいいのか?仕事を続け、不公正なシステムの共犯者になるべきか?それとも離職して、不安定な生活に戻るべきか?それがこの映画の中心にあることだ。システムの中の人間だ。」

 

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システムは効率的に稼働するためにバグを取り除いてゆく。人間はもともとバグを抱えた存在で、みなそれと折り合いながら生きている。だからかシステムの中に入ると、人間的な人ほどシステムのバグになる可能性が高い。これも憂鬱を加速させる。

そしてそれと意識しないうちに、誰もがシステムの共犯者として、バグの人間を追い詰める。

 

「誰も本当に卑劣な人間な訳じゃない。しかしそれぞれの方法で誰もが、世界の暴力に参加してしまっている。これが私たちの世界なのだ。」

 

割引券を自分のものにした職員は、システムにとってはバグだ。しかし、ティエリーにとっては自分自身と変わらない。彼は人の痛みを感じ取ることができるために、やがて憂鬱さは極限にまでくる。
     

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ティエリーは最後にある決断をするが、人間の尊厳を守るとか、そんな大げさなものではない。ただ映画は、人は何のために生きるか、その答えを探している。探そうとするその意志が希望である。

 

監督:ステファヌ・ブリゼ

脚本:ステファヌ・ブリゼ、オリヴィエ・ゴルス

主演:ヴァンサン・ランドン

フランス 2015 / 92分

 

公式サイト

http://measure-of-man.jp/

イレブン・ミニッツ

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不思議な映画である。何が不思議かと言えば、人の数だけあるような人生の喜怒哀楽が、この映画はすべて「無」だと語っているのだ。つまり、人生は空に現れた小さな黒いシミのようなものにすぎない、と。

 

午後5時。映画監督の宿泊するホテルの一室に招かれたひとりの女優。女優の夫は嫉妬にかられてホテルに向かう。そのころ、ホテルの周囲では様々な人たちが、それぞれの生活で悪戦苦闘していた。

 

配達先の人妻と情事を楽しむ配達夫、若い女性に唾を吐きかけられるホットドック売り、思い悩んだ末に質屋に強盗に入ったはいいが主人が首を吊っており、失敗に終わった若者…。そして、11分後に起きる「ある瞬間」に向かって映画の時が刻まれてゆく。

 

監督はポーランドの巨匠、イエジ―・スコリモフスキ。すでに78歳である。

 

「実のところ、登場人物の心の軌跡であるとか、動機を追ったり、もっともらしいストーリーラインやプロットポイント(筋を別の方向へ転回させるプロット上の重要なできごと)を提示したり、あるいは始まりと真ん中と終わりがあることを前提に考えたりすることには興味がない。」

                    

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ここに物語はない。人生の断片があるだけだ。ただ何事かが起きる予感が見るものをぐいぐい引っ張ってゆく。登場人物の幾人かは空に小さな黒いシミのようなものを見る。それが何であるのか。最後の最後に暗示されるそれは、いかにも不気味にこの世界をシンボライズする。

 

しかし人の世界を俯瞰すると、こうも滑稽なものになるのか。サム・ペキンパー監督の「わらの犬」という映画がある。タイトルは、老子の言葉、

 

「天地は仁ならず 万物を芻狗となす」
(天地自然は非情で、すべてのものをわらの犬のようにあつかう)

 

から採られているそうだが、「イレブン・ミニッツ」の登場人物たちはまさしく「わらの犬」だ。人間なんてそんなものだと、冷徹に精緻にそのことを見せつける。ただ登場人物それぞれの滑稽さが、逆にその悲惨を救ってはいるのだが。

 

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再びしかし…と考え込んでしまう。
この世界に生み出される多くの映画が希望のかけらを捨ててしまう。この不条理な現実が横行する世界で、希望のない映画は不毛である、と言ってしまいたい誘惑にかられる。安易な希望はごまかしであり絶望をかえって深めるということは、容易に想像がつくことだけれど。そして捨てるよりも生かすほうがはるかに困難な道なのだろうけれど。

 

監督・脚本:イエジ―・スコリモフスキ

主演:ヴォイチェフ・メツファルトフスキ、パウリナ・ハプコ

ポーランドアイルランド 2015 / 81分

 

公式サイト

http://mermaidfilms.co.jp/11minutes/

 

太陽のめざめ

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フランスの青少年裁判所。6歳の子どもと、生まれたばかりの赤ちゃんを連れた母親が、判事に責められている。学校に行かせていないというのが理由のようだ。逆上した母親は、「子どもなんてウンザリ マロニーも荷物もいらない!」と荷物を叩きつけて出て行ってしまう。置き去りにされたことを知ってか知らずか、目を丸くして眺めている6歳のマロニー。物語はこの日から10年後を描く。

 

同じ青少年裁判所。17歳になったマロニー、そして同じ母親。想像通りマロニーは非行を繰り返し、何度もここにやってくる。判事も10年前と同じ、カトリーヌ・ドヌーヴ演じるフローランス。マロニーはいつも何かにイライラし、暴力を繰り返す。そしてついに矯正施設に送られることになる。

 

監督は「なぜ彼女は愛しすぎたのか」のエマニュエル・ベルコ。

 

「私には保護司をしているおじがいて、彼は毎夏、ブルターニュの海辺で、非行に走った子どもたちや犯罪に手を染めてしまった子どもたちのためのキャンプを運営していました。私も子どもの頃、そのキャンプに参加する機会があったのです。その時出会った少年・少女たちにショックを受けたのを覚えています。彼らのふてぶてしさや権威とか決まりごとに対する反抗心が、私には新鮮でした。と同時に、保護司たちが彼らを<正しい道>に戻そうとしている姿にも心を動かされました。」

 

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マロニーは、施設の教官、新たに担当になった保護司ヤンの粘り強い働きかけで、少しずつ心を落ち着かせてゆく。しかし、マロニーに否定的な人間に会うとすぐに反転する。落ち着き逆上し落ち着き、その繰り返し。そんな中、マロニーは施設の教員の娘テスと出会う…。

 

人は変わることができるのか。変われると信じているからこそ、保護司たちは我慢強く働きかけるのだろうが、生まれつきの性格と言うものはどう関係しているのだろうか。精神科医斉藤学氏がパンフレットの解説でこう書いている。

 

「人は生まれつき邪悪な妄想を抱える存在。そこから他者への善意と思いやりを育ててゆくもの。現代精神分析はこの『思想』から始まった。」

 

そして人が「社会化」するために、「懲罰の受容」が必要であり、それはすなわち「懲罰する人の中に愛を見出せるようになることだ」という。

 

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「あんたは俺に何をしてくれたんだ」

マロニーは何度もこう叫ぶ。


自分の感情を抑えられない、すぐ暴力を振るう、社会ルールを守ることができない、こういう若者を辛抱強く見守り導く人たちがいる。人間性に対する絶大な信頼がないと出来ないことだと思う。すべての人間はもともと邪悪な妄想を抱えており、それを両親など他者の働きかけで矯正していくものなら、小さいころに矯正の機会を失くした者にもチャンスはあるはずだ―。理屈はそうだが実践するのは相当に難しいと、この映画は教える。

 

映画は決して楽観しない。かつて非行少年だった保護司のヤンや、ベテラン判事の人間的な感化力をもってしても溶かすことの出来ない氷の心がある。それはそれでしようがないというような判事の達観が、なぜかすがすがしい印象を残す。終盤でマロニーに希望の芽が生まれるが、それが再び不幸の芽に反転しないことを祈らずにはいられない。  

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監督・脚本:エマニュエル・ベルコ

主演:カトリーヌ・ドヌーヴブノワ・マジメル、ロッド・パラド

原題:La tete haute

フランス 2015 / 119分

 

公式サイト

http://www.cetera.co.jp/taiyou/

いしぶみ

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暗闇の中、綾瀬はるかの朗読が静かに始まる。背後に古びた金属のような壁がある。その壁には中学生になったばかりの子どもたちの姿がぼんやりと映し出される。広島二中一年生たちである。昭和20年8月6日、生徒たちは建物解体作業のため朝早く本川の土手に集合していた。

 

「わずか五百メートルの間近にいた広島二中の一年生は、閃光に目を焼かれ、服は燃えだし、そして小さなからだは地面にたたきつけられ、十メールも吹きとばされたのでした。」

 

床にはいくつもの木箱。その一つに朗読している内容の子どもが大きく映される。

 

「岡田彰久くん。『腰まで砂に埋まったが、気がついて、燃える砂を手で掘ってはいでた。』原子爆弾のものすごい熱で、そのとき砂も燃えたのです。」

 

大やけどを負い、猛火に追われて川に飛び込み、家に帰りつこうとして道端で倒れ…。広島二中生のあの日の事実を遺族の手記からよみがえらせてゆく。

    

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この映画は、1969年に広島テレビで放送された番組を是枝裕和監督がリメイクし、去年放送された番組をさらに再編集した。

 

「『いしぶみ』では、もう少しフラットに、被害者寄りではないポジションでの朗読にしようと考えたので、綾瀬はるかさんには「子どもを戦争に巻き込んでしまったことに罪の意識を感じ、自責の念を持っている旧制・広島二中の先生」の立ち位置で読んでもらいました。だから根底に流れているのは悲しみより、自分に対して、時代に対しての怒りです。」
東洋経済オンライン記事から)

 

是枝監督は、被害体験を語るだけではアジアで共感されないとし、この作品で被害体験を相対化するべきという問題意識を投げかけている。

 

「広島・長崎を語り続けることは大事なことだし、あの戦争を経験した一般の人が、それを被害体験として語らざるを得ないことは、自分の親を見ていてもわかります。(…)だからこそ、経験していない人間が戦争を語る意味があるとすれば、被害体験を相対化する、その一点だろうと。」(パンフレットから)

 

そのため試行錯誤し、たまたま生き残った二中の生徒の証言を入れることにした、という。ジャーナリストの池上彰氏が彼らを訪ね、話を聞いて歩く。自分が生き残ったことに忸怩たる思いを抱える人、彼らの死を考えることで人生が変わったという人、広島を絶対視すべきではないと語る人などが証言してゆく。

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「相対化」とはどういう意味だろうか。個人の哀しみの中に閉じこもらない、ということなのか。ただ作品から立ち上がってくるのは、個別の経験そのものだ。亡くなった子どもたちも、生き残って今では老人となった人も。あくまで個人的な体験を核にしないと、戦争を否定する契機そのものが失われてしまうような気がする。

 

綾瀬はるかの朗読は素晴らしいが、聞き取りづらい点があるとすると、それは固有名詞が頻繁に出てくるせいだ。そしてそのことはこの朗読ではとても大事なことだと思う。人間は数ではない。名前を持った個人がこの場所にこの時間生きていたのだと固有名が語っているのだ。

 

「六学級の大隅美昭くんは、東京から疎開してきて、宮島の親類から通学していたのですが、ゆくえのわからない生徒のひとりで、焼けこげた弁当箱が唯一の形見になりました。」

 

佐伯郡大野町の家で一学級の豊久正博くんは、お父さん、お母さんにみとられて八日の夜十一時に、亡くなりました。」

 

「五学級の山下明治くんは、三日目の九日明け方、お母さんにみとられて亡くなりました。…『死期がせまり、わたしも思わず、お母ちゃんもいっしょに行くからね、と申しましたら、あとからでいいよ、と申しました。』」

 

・・・
    

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理不尽に固有名が消えてゆく。個別の悲劇こそが最大の悲劇なのだ、人間にとって。映画では紹介されなかったが、旧作「いしぶみ」の書籍には、山下明治くんのお母さんの短歌が最後に紹介されている。この思いはあらゆる理屈を超えて痛切である、と思う。

 

烈し日の真上にありて八月は
腹の底より泣き叫びたき

  

監督:是枝裕和

出演:綾瀬はるか

日本映画 2016 / 85分 

 

公式サイト

http://ishibumi.jp/

 

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「いしぶみ 広島二中一年生 全滅の記録」広島テレビ放送 編 ポプラ社