フロリダ・プロジェクト
アメリカ、オーランド。夏休みの子どもたち。新しい車がやってくると、6歳の女の子ムーニーは、友だちとモーテル2階の廊下から唾を飛ばしっこする。車のフロントはベタベタ。やがて持ち主の中年女性が、ムーニーのいる部屋に怒鳴り込んでくる。
「今度は何をしたの。ムーニー?」
若い母親のヘイリーはあきれ顔だが別に叱るわけでもない。ムーニーとその友だちを連れて車の掃除をさせる。ここはディズニーランドの裏の安モーテル。ヘイリーとムーニー母子はここで暮らしている。ヘイリーは仕事にあぶれ、その日の生活費にも事欠くありさまだが、いたずら好きのムーニーはお構いなし。
宿泊に来た客をからかったり、モーテルの電気室に忍び込んだり、廃墟となったリゾートホテルで暖炉に火をつけようとしたり…。華やかなディズニーランドの裏側の、打ち捨てられたような場所だが、子どもたちにとってはここが夢の遊び場なのだ。
しかし、いたずらの度が過ぎたことで、母親たちの間に軋みが生じ、徐々に子どもたちの夢が現実の圧力に押され始める…。
監督はショーン・ベイカー。アメリカでは今、アパートを借りることができない人々が、安モーテルに住み続けるという現実があるという。その数は増加の一途をたどり、およそ4割が家族連れである。
「彼らは“定住する家を持たない”という意味でのホームレスだ。2週間モーテルに泊まって、一度外泊をする。リサーチをしていくうちにこれは国家的な問題にもかかわらず、知っている人がほとんどいないということがわかり、よりこの問題について深く知りたいと思った。」
なかなか職が見つからないヘイリーはニセの香水を、近くの高級ホテルの敷地で売りつけることにする。しばらくはうまくいくがやがて警備員に咎められ、あえなく退散。いよいよ金に窮したヘイリーはある行動に出る。そのことがやがて児童相談所の査察を招くことになるのだが。
映画は終始子どもたちの目線で描かれる。その憎たらしさも可愛さもどこにでもいる子どもそのままだ。ここまで子どもに寄り添うことができるのか、と思うほどカメラとの距離が近い。カラフルなモーテルの外観と青空。明るい色彩の氾濫の中で、現実の厳しさが黒い影のように体を離れず、少しずつヘイリーを飲み込んでゆく。
終盤、ヘイリーはカメラに向かって大声で叫ぶ。
「ファックユー」
誰に対してか。何に対してか。自分自身にか。
宣伝文句では、ラストシーンは「誰も見たことのないマジカルエンド」ということだ。しかし、こんなにも悲しいラストシーンはない。このあと時間は流れ続ける。ムーニーは生き続ける。ムーニーの人生が続いてゆく。大好きな母親が太刀打ちできなかったこの世界で。
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー
主演:ブルックリン・キンバリー・プリンス、ブリア・ヴィネイト、ウィレム・デフォー
アメリカ 2017 / 112分
公式サイト
オー・ルーシー!
混みあった駅のホーム。さえない年配のOLが所在無げに電車を待っている。うしろから若い男性が何かを耳打ちすると、ホームに入ってくる電車に飛び込む。呆然とする女性、節子。出勤すれば自分よりさらに年配の女性が、興味深げに聞いてくる。しかし日常は変わらない。
ある時、姪が連絡してきて、英会話教室に前払いしているのだが、自分の代わりに通ってくれないかと頼まれる。お金が無くなったというのだ。60万だという。仕方がない。教室を訪ねてみると、怪しげなビルの一室で、いきなり教師にハグされ、ルーシーという名前を付けられ、金髪のかつらをかぶせられる。驚くが、悪い気はしない。それどころか、このイケメン先生に惚れてしまうのだ。
しかし、次に行くとイケメン先生はもういなくなっている。実は、彼は節子の姪と恋人同士で、二人してアメリカに行ってしまったのだ。節子は娘を心配する姉とアメリカ行きを決意するが…。
監督は平栁敦子。ニューヨーク大学大学院映画学科修了作品の短編「Oh Lucy!」が各国で賞を受賞。これはその長編バージョンだという。
「語学力や年齢にかかわらず、本当のことを言っていいのか、言わない方がいいのか、迷うことってありませんか? 特に『女の子なんだから静かにしなさい』と言われて育った日本の女性には多いような気がします。『目立つことはしないように』と言われがちなOLの節子に、ルーシーというキャラクターを通して自分の本音を叫んでほしいと思いました。」
節子はルーシーという名前をもらい、カツラをかぶってからタガが外れてくる。自分の気持ちに正直になる、と言えば聞こえはいいが、心の中のどろどろまで一緒に吐き出してしまうようになる。それは、これまで外に出るのを押さえつけ、体内にたまって腐食し続けていた欲望のようなものだ。これは吐き出しきるまで終わらない。吐き出しきってもどうなるか分からない。ただルーシーという名前を与えられただけで、なんと人間は繊細で単純なものだと改めて思う。
イケメン先生からは「狂ってる」とまで言われ、結果的に姪にもひどい仕打ちをすることになる節子。若ければ一連の出来事は青春だったかもしれないが、ある年齢に達すると同じ事が悲劇に見える。
人はいくつもの人格を場合によって使い分けたりするものだと思う。同時に、素の自分と社会の中で見せる自分にもギャップがある。しかしそのギャップが、人間としての複雑な魅力を生んだりもするのではないか。節子の悲劇はその複雑さがうまく醸成されないで水と油のようになっていることなのだろう。
映画には英会話教室で知り合った小森という中年男性が出てくる。短いが重要な役割を果たす小森を役所広司が演じている。教室での名前はトム。節子演じる寺島しのぶと役所広司が、へたくそな英語で会話するシーンは笑ってしまう名場面である。
この男性が最後にとった行動は常識を少し外しているのだが、それは小森の行動なのか、それともトムなのか。それとも…。
監督:平栁敦子
主演:寺島しのぶ、南果歩、役所広司、忽那汐里、ジョシュ・ハートネット
日本・アメリカ 2017 / 95分
公式サイト
タクシー運転手
1980年5月、ソウル。タクシー運転手のキム・マンソプは、学生たちがデモを行い道がふさがれることに苛立つ。客は今にも生まれそうな妊婦で病院へ急いでいるのだ。なぜデモなんかするのか。
「デモをするために大学に入ったんじゃないだろうに」
家に帰ると小学生の一人娘が大家の息子と喧嘩しておでこを擦りむいている。怒鳴り込むサボクだが、家賃を滞納していることを責められると言い返せなくなってしまう。傍らで父親を見つめる娘がいる。父と娘二人暮らしでつまりとても貧乏である。
そんなマンソプは、ひょんなことから外国人記者を乗せて光州へいくことになった。謝礼がいいのにつられて行ったはいいが、そこでは、戒厳令下で軍とデモ隊が衝突する緊迫の事態が進行していた。サボクは記者を置いて逃げ帰ろうとするが、お婆さんが道端でタクシーを求めているのを発見し…。
監督は韓国のチャン・フン。
「この話は平凡なタクシー運転手と外国人記者、それから光州で出会う2人の視線を通じて描かれる“あの日”に対する物語だ。そして平凡なある個人と時代が生んだ、危険な状況に負けず、最後まで自分の仕事を成し遂げたという話でもある。」
この話は実話だそうだ。ドイツ人記者はユルゲン・ヒンツペーター。彼は1980年5月の光州事件を取材し記録した唯一の外国人記者だという。2003年には韓国の民主化に寄与した功労者として第2回ソン・ゴノ言論賞を受賞、その様子は映画でも描かれている。授賞式で彼はこう語っている。
「自分の目で真実を見て伝えたいだけだった。勇敢な韓国人タクシー運転手キム・サボク氏と献身的な光州の若者たちがいなければ、このドキュメンタリーを撮ることは出来なかった。」
この時光州で起きていたことは常軌を逸していた。軍が丸腰の自国民に発砲を続け、傷ついて倒れた人を助けに行く人たちも皆殺しにしているのだ。正気ではない。軍は事実を隠蔽しマスコミも報じない。しかし、タクシー運転手のマンソプは一人娘を思い、記者を置いてソウルに帰ろうとする。
途中娘にこれまで買ってやれなかった新しい靴を買い、喜ぶ姿を想像しながら走るのだが、光州を離れるにつれ、次第に後ろ髪をひかれ始める。このまま客を見捨てて帰っていいのか、しかしあのままあそこにいると危険だ、それに娘が一人なのだから帰らなければ、思いが交錯し道路の真ん中で止まってしまう。
「歴史上の偉人が成し遂げた大きな事柄ではなく、普通の人々の小さな決断と勇気が積み重なり何かが成し遂げられるといった、近くで見ていなければ知り得ない事柄を描きたかった。マンソプのタクシーに乗りながら、観客の皆さんにも、自分たちの話として考えてもらえる機会になれば嬉しい。」(チャン・フン監督)
映画はいくつもの小さな決断と勇気が描かれる。それによって少しずつ政治が変わってゆく。しかし民主主義とはこんなにも犠牲を払わなければならないものなのか。マンソプは逡巡しながら決断を下す。その決断は政治変革のためではなく、友情といったもののためなのだ。そのことが小さな決断と勇気の可能性を信じさせてくれる。
監督:チャン・フン
主演:ソン・ガンホ、トーマス・クレッチマン
韓国 2017 / 137分
公式サイト
ニッポン国VS泉南石綿村
2015年4月、大阪府泉南市で「泉南石綿の碑」の除幕式が行われている。この地域は明治の終わりから100年にわたって石綿紡織業が地場産業だったという。
資料写真を背景に監督の原一男がナレーションで説明している。石綿は耐火性や耐久性に優れ安価で生産されることから、建築資材として重宝された。だが、その石綿は極めて恐ろしい側面を持っていた。人間の体にはいると20年以上の潜伏期間を経て、肺がんや中皮種などを発症させるのだ。
「静かなる時限爆弾と言われるゆえんである」
大阪泉南地域で石綿の被害にあった人たちは、2006年、黙認してきた国の責任を問う裁判を起こした。この映画は、その戦いを8年にわたって記録したドキュメンタリーである。監督の原一男にとっては、これまでにない取材対象だったという。「製作ノート」にこう記している。
「二十代の頃に、ドキュメンタリー作品を作る、という生き方を選択した時点で私には思い決めたことがあった。“生活者は絶対に撮らない”。“撮りたいのは表現者である”と固く自分に言い聞かせたのだ。…これからカメラを向ける人たちは、“生活者は絶対に撮らない”と、私のルールとして思い決めたまさにその人たちなのであった。果たして普通の人を撮ってオモシロイ映画になるだろうか、という不安を抱えながらのスタートだった。」
この疑問と不安は、撮影の最後まで残っていたらしい。しかしでは、なぜ原監督は「普通の人」である彼らを8年間も(!)撮影し続けたのだろう。なぜ途中でやめて別の“表現者”を撮影しに行かなかったのだろうか。
考え得るのは、彼らの“何か”に惹かれ続けたからだ。想像するにそれは、普通の人が普通でない状況にある、ということではないのか。だから確信を持てずにいながらカメラを回し続けたのではないのか。その普通と普通でないものの落差に、見るものが考えさせられる要素が潜んでいるのに違いない。映像はないが、原告団のさまざまなインタビューを聞きながら、私たちはその落差を想像するのだ。
ただ原監督はあくまで“表現者”にこだわり続けた。そのことが映画の後半になってよくわかってくる。
休憩をはさんで、映画の後半が始まる(この映画は3時間35分と長いので丁度半分くらいのところで10分間の休憩が入るのだ)と、画面には原監督が登場し、取材相手に向けて語り始める。
「あの、原告の人たち、もっと怒っていいんじゃないかっていうような不満が私にはあります。…皆さんの動きを私はカメラを回しながら思うのは、何かこうじれったさと、何か本当にこういうことしかできないのかっていう悔しさとがね、いつも入り交じってんですよ」
すると相手が答える。
「なるほど。まあ、極端な話ね、厚労省前、総理官邸前で焼身自殺? いうことですよね、極端な話、フフ」
「いや、あの……そこまでは言いませんが」
この部分について原監督は、心の中では「はい!その通りです」と考えていた、という。撮影でそういうことを本当に狙っているのなら、それは不満が鬱積していくだろうなと思う。そもそも取材相手を間違えているのだ。
ところがこれ以降、映画に登場する取材相手は、何か「怒り」が増しているように感じられた。抱える熱量の大きさを感じられるほど、受け取る側の印象が強くなるのは間違いない。だが彼らは原監督にアジられて怒っているのかもしれないのだ。そのことが奇妙に冷めた感覚を与え続ける。
このテーマであくまで“表現者”を撮ることにこだわるのであれば、撮影する監督自身に最初から最後までカメラを向けるべきだったのではないかと思う。映画に登場する人たちの中で、おそらく唯一の“表現者”なのだから。
監督・撮影:原一男
構成:小林佐智子
編集:秦岳志
日本映画 2017/ 215分
公式サイト
ラッキー
赤茶けた土地に灌木が茂り、サボテンが立ち並ぶ。そこに大きなリクガメがゆっくりと横切ってゆく。アメリカ南西部。90歳でひとり暮らしの男の一日がまた始まる。ゆっくりとしたウォーミングアップを行い、冷蔵庫に冷やしたグラスのミルクを飲み干す。そして再びグラスにミルクを注ぎ冷蔵庫に戻す。明日のためだ。
男の名はラッキー。いつもの喫茶店でコーヒーを飲み、クロスワードパズルを解く。ある時「現実主義」という言葉が出てくる。
「現実主義はモノなのか?」
辞書で調べると「状況をありのまま受け入れる姿勢や行動と、ありのままの状況に対処する心構え」と書かれてある。ラッキーは夜行きつけの飲み屋でマスターに「現実主義」について説明する。
「目に見えているものが現実ってこと?」
ラッキーは答える。
「そうだがお前の現実と俺のは違う」
同じ日々が続くある朝、ラッキーは突然気を失う。病院で検査を受けるが何も異常はない。医師は加齢のせいだというが、ラッキーはこれまで考えなかった「死」について考え始める…。
監督はジョン・キャロル・リンチ。初の監督作で、脚本は主役の俳優ハリー・ディーン・スタントンに当て書きした。ハリー・ディーン・スタントンは「パリ・テキサス」などで知られる名優。ラッキーのキャラクター造形や辿ってきた人生(例えば沖縄戦経験など)は、ハリーとほぼ同じだという。
「老いや、人生の終盤を生きることをテーマにした映画でよくある、過去を振り返って、かつての恋人に詫びたり、過ちを正したりするような映画にしたくなかった。一人の男が自分をどう見つめるかを描きたかった。しかも、神や天国という“第二幕”といった安心材料なしに生きる姿をね。ハリーの人生はまさにそうだった。」
偏屈な男である。自分は自分であり、他人は関係ない。この姿勢を貫くためにどれだけ強くなければならないか。あるいはどれだけ鈍感でなければならないか。映画はラッキーの老いた日々を、凡人には到達できない数々の名セリフを交えながら淡々と綴る。
曰く、「孤独とひとり暮らしは意味が違う」
曰く、「つまらん雑談なら、気まずい沈黙の方がマシだ」
曰く、「人はみな生まれる時も、死ぬ時も一人だ。“ひとり(alone)”の語源は“みんなひとり(all one)”なんだ」
ラッキー(ハリー)はとにかく“ひとり”にこだわる。パンフレットに1989年のインタビュー記事が採録されていて、その中でこんなことを語っている。
「一人が皆、一人ずつであるということ。あらゆるものも含めて。だからつながろうとすること。映画も、良い作品は皆、そのことに意識的だと思う。そのことで生命を肯定する方向に人を動かそうとするのが良い映画なんだ。」(雑誌「SWITCH」1989.12)
そんなハリーにも悩みがあった。暗闇や空虚を恐れていたというのだ。同時に「死」を恐れていた。先ほどのインタビューで、ハリーはこうも語っている。
「死を恐れないようなところまで行きつくことができるかどうか。このことが一番大きな問題じゃないかと思う。」
映画の終盤、ラッキーは行きつけの飲み屋でタバコを吸おうとしてオーナーから注意される。「この店は私が管理しているの」と。するとラッキーはこう言い放つ。
「すべてはなくなる。君もお前もあんたも俺も、タバコも何もかも、真っ暗な空(くう)へ。管理するものなどいない。そこにあるのは無だけだ。」
オーナーのベスが問う。
「すべてが無だとしたらどうするの?」
しばらく沈黙した後、ラッキーが答える。
「〇〇するのさ」
「死」や空虚を恐れていたラッキー(ハリー)が出したこの答えが、彼の到達点である。この映画を最後に、名優ハリー・ディーン・スタントンは2017年9月、91歳で亡くなった。
監督:ジョン・キャロル・リンチ
主演:ハリー・ディーン・スタントン、デヴィッド・リンチ
アメリカ 2017 / 88分
公式サイト
あなたの旅立ち、綴ります
人のやることが気に食わない。家政婦がいても、庭師がいても、文句をつけては全部自分でやってしまう。お屋敷の中、夜になると孤独になる。眠れないので薬を飲む。多めに飲んでも死なずにまた病院から戻ってくる。81歳。広告業界で成功した女性、ハリエット・ローラーだ。
ある日、新聞の死亡記事が目に留まる。もし自分が死んだらどんな風に書かれるのか。これは他人に任せてはいられない。俄然やる気が出てきた。かつて広告を出していた新聞社を訪れ、ライターのアンに自分の訃報記事を書くように命じる。
ところがアンが書いてきた記事はひどいものだった。それもそのはず、彼女を知っている人で彼女をよく言う人は誰もいなかったのだ。アンは言い放つ。問題は私の才能じゃない、あなたよ、と。ここから、自分の死亡記事を完璧なものにするためのハリエットの苦闘が始まる…。
監督はマーク・ぺリントン。ミュージックビデオの監督としても知られているという。
「彼女の人生は一見問題がないように見える。でも実際は空っぽなんだ。外見と内面がぶつかり合っている。この映画のなかで、彼女は意義深い人生とは何なのかを定義づけなければならない。」
人は人生の後半に自分を変えることができるのか、その興味で映画をみた。ハリエットによると、追悼記事に必要な要素は4つあるという。
①家族や友人に愛されたこと
②同僚から尊敬されたこと
③誰かの人生に影響を与えたこと
④見出しになるような特別な何か
①と②は事実でないなら難しい。そこで③と④を実現するために、ハリエットは地域のコミュニティセンターを訪れ、問題を抱える子どもたちに影響を与えようと画策するのだが…。
アンは当初いやいや取材を続けていたが、次第にハリエットの奔放さと辿ってきた人生にひかれ始める。アンには実はエッセイストになりたいという夢があったのに勇気を持てずにいるのだ。
映画を見てみると、ハリエットは本質的なところは何も変わっていない。どちらかというと隠されていたハリエットが発見されたのだ。人は若い時に必要とするものと、年老いて必要とするものが違うのではないかと思う。若い時のままのやり方では、年老いて必要なものが手に入らないのだ。ハリエットはアンとの交流の中でようやくそのことに気づく。しかし気づいた時には、自らの死期が近づいていた。
ハリエットがこの映画の中で繰り返し語ることがある。
リスクを背負って冒険してこそ生きる意味がある
というものだ。彼女の行動と語る言葉は、ハリエットが意図した以上にアンの人生に影響を与える。その影響こそがハリエットの人生だと、監督は言う。
「周囲の人にどのような影響を与えているかを見るまでは、その人のことってわからないもんなんだよ。」
監督・製作:マーク・ペリントン
主演:シャーリー・マクレーン、アマンダ・セイフライド
アメリカ 2016 / 108分
公式サイト
15時17分、パリ行き
人混みの中、リュックを担いでキャリーバックを引きずる男。その背中をカメラは追いかける。顔は判然としない。ひげ面。そしてサングラス。やがてここが列車の駅だと分かる。男が乗り込もうとするのはアムステルダムを15時17分に出発したパリ行きの列車だ。
一転して陽気なアメリカの若者が3人。オープンカーでどこかの町を走る。3人は親友だとひとりの青年が語る。そして子供時代の回想。3人とも枠に収まり切らないいわゆる落ちこぼれ、それ故に強いきずなが生まれる。
若者たちは成長し、アンソニーは学生、アレクは軍人となった。スペンサーは人を助ける仕事がしたい、と空軍のパラレスキュー部隊を志願するが不合格。空軍の救急救命士となった。
一方パリ行きの列車内では、誰かが10分も洗面所に入ったきり出てこない。夫婦連れの男が様子を見てくると言って立ち上がる…。
映画は3人の物語を、パリ行きの列車で起きていることを短く入れ込みながら進んでゆく。やがてその2つの流れが一点で結びつく。これは実話である。監督はクリント・イーストウッド。
「彼らは私たちの身近にいるような普通の若者で、正しい時に正しいことをした男たちだ。事件の当日、乗客たちは走行中の列車内に閉じ込められ、AK‐47ライフルとルガーピストル、カッターナイフ、そして270発もの弾薬を持ったテロリストに遭遇した。もし3人が取り押さえていなかったら、大惨事になっただろう。」
テロリストの姿を見、椅子に伏せた後、銃を構える男に最初に飛びかかっていったのはスペンサーだった。その時、ある奇跡が起こる。スペンサーは列車に乗り込む数日前に、アンソニーに向けて語る。
「ある大きな目的のために人生に導かれているような気がする。」
奇跡的な偶然にはある大きな力が働いていると誰しもが考える。スペンサーはそれを「人生」と言った。その言葉をおそらく脚本に生かしたのだろう。しかし監督のイーストウッドは少し違う言い方をしている。それは、
「私たちの中にあるもう一つの能力だと思う。潜在的な意識が体を動かし、自分の命を救うんだ。…つまりその力は誰もが持っているということだ。」
3人の若者を含め車内にいた5人は本人に演じてもらったという。それ以外は何ともシンプルな映画だ。自在と言ってもいい。おそらくは何の葛藤もなく作られた、イーストウッドの吐息のような、つぶやきのような作品。それは息をするように詩を吐き出す、老詩人の詩のようだ。ほらここにこんな若者たちがいる、すごいだろ、と目を細めて語るイーストウッドおじいちゃんの顔が目に浮かぶ。
老詩人は例えば谷川俊太郎、86歳。イーストウッドと同年代。最近の詩にこんな詩句があった。
言葉は不自由だ
泣き声と笑い声だけで
詩が作れないものか
「(どこからか言葉が)また詩が気になって」谷川俊太郎
詩人にとっての言葉のように、映画監督にとって演技なんてものも不自由なものなのか知らん、さて。
監督・製作:クリント・イーストウッド
主演:スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラー
アメリカ 2018 / 94分
公式サイト