人混みの中、リュックを担いでキャリーバックを引きずる男。その背中をカメラは追いかける。顔は判然としない。ひげ面。そしてサングラス。やがてここが列車の駅だと分かる。男が乗り込もうとするのはアムステルダムを15時17分に出発したパリ行きの列車だ。
一転して陽気なアメリカの若者が3人。オープンカーでどこかの町を走る。3人は親友だとひとりの青年が語る。そして子供時代の回想。3人とも枠に収まり切らないいわゆる落ちこぼれ、それ故に強いきずなが生まれる。
若者たちは成長し、アンソニーは学生、アレクは軍人となった。スペンサーは人を助ける仕事がしたい、と空軍のパラレスキュー部隊を志願するが不合格。空軍の救急救命士となった。
一方パリ行きの列車内では、誰かが10分も洗面所に入ったきり出てこない。夫婦連れの男が様子を見てくると言って立ち上がる…。
映画は3人の物語を、パリ行きの列車で起きていることを短く入れ込みながら進んでゆく。やがてその2つの流れが一点で結びつく。これは実話である。監督はクリント・イーストウッド。
「彼らは私たちの身近にいるような普通の若者で、正しい時に正しいことをした男たちだ。事件の当日、乗客たちは走行中の列車内に閉じ込められ、AK‐47ライフルとルガーピストル、カッターナイフ、そして270発もの弾薬を持ったテロリストに遭遇した。もし3人が取り押さえていなかったら、大惨事になっただろう。」
テロリストの姿を見、椅子に伏せた後、銃を構える男に最初に飛びかかっていったのはスペンサーだった。その時、ある奇跡が起こる。スペンサーは列車に乗り込む数日前に、アンソニーに向けて語る。
「ある大きな目的のために人生に導かれているような気がする。」
奇跡的な偶然にはある大きな力が働いていると誰しもが考える。スペンサーはそれを「人生」と言った。その言葉をおそらく脚本に生かしたのだろう。しかし監督のイーストウッドは少し違う言い方をしている。それは、
「私たちの中にあるもう一つの能力だと思う。潜在的な意識が体を動かし、自分の命を救うんだ。…つまりその力は誰もが持っているということだ。」
3人の若者を含め車内にいた5人は本人に演じてもらったという。それ以外は何ともシンプルな映画だ。自在と言ってもいい。おそらくは何の葛藤もなく作られた、イーストウッドの吐息のような、つぶやきのような作品。それは息をするように詩を吐き出す、老詩人の詩のようだ。ほらここにこんな若者たちがいる、すごいだろ、と目を細めて語るイーストウッドおじいちゃんの顔が目に浮かぶ。
老詩人は例えば谷川俊太郎、86歳。イーストウッドと同年代。最近の詩にこんな詩句があった。
言葉は不自由だ
泣き声と笑い声だけで
詩が作れないものか
「(どこからか言葉が)また詩が気になって」谷川俊太郎
詩人にとっての言葉のように、映画監督にとって演技なんてものも不自由なものなのか知らん、さて。
監督・製作:クリント・イーストウッド
主演:スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラー
アメリカ 2018 / 94分
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