1945年8月9日。プルトニウム爆弾を積んだB29が長崎の上空に到着する。最初は雲に覆われていたが、やがて視界が晴れて町を見渡せるようになる。爆弾投下。11時02分。爆心地に近い長崎医科大学では、多くの学生が授業を受けていた。青白い閃光、溶けてゆくインク壺。世界がゆがみ、福原浩二という学生も死んだ。
3年後、浩二の母親が、婚約者の町子と墓参りに訪れる。母親の伸子は「もう浩二のことはあきらめよう」と決意する。その夜、不思議なことに浩二が目の前に現れる。
「母さんは、いつまでもぼくのことを諦めんから、なかなか出てこられんかったとさ。」
と言いながら。二人は楽しかった思い出を語り合いながら、やがて町子のこれからについて話すようになるのだが・・・。
監督は山田洋次。浩二役は二宮和也だが、監督のイメージは戦争で若くして亡くなった詩人、竹内浩三だという。
「たくさんの美しい詩を書いて、戦地で死んでしまったぼくの大好きな詩人です。この人は、日本人が笑いを失ってしまったようなあの戦時中でもマンガが大好きで、映画監督になりたかったという、ユーモアを愛する青年だったんです。残された写真の中の彼はいつもちょっとおどけていて、冗談を言っているような顔をしていて、楽しいキャラクターが伝わってきます。」(山田洋次監督)
戦死やあはれ
兵隊の死ぬるやあはれ
とほい他国で
ひょんと死ぬるや
だまって
だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
(竹内 浩三「骨のうたう」)
竹内浩三のように浩二も明るい。そしてよくしゃべる。常に何かしゃべっているのだが、悲しくて涙が出ると、消えてしまうという習性がある。あるとき、こんなことになったのは「ぼくの運命さ」と諦めたように話したとき、母親の伸子は思わず反論する。
「地震や津波は運命だけれど、これは人間が計画して実行したことなのよ」と。
浩二は複雑な表情を残し、消えてしまう。
「ぼくはメッセージのために映画は作りません。この作品の芯にあるのは、息子に突然先立たれた母の悲しみはどんなに深いか、ということです。太平洋戦争で何百万人の若者が死に、その親や恋人や兄弟は同じ思いをした。観客が、母の悲しみや愛情の深さに涙しつつ『なぜそのような不幸が起きたのか。この地球上で将来起きることはないのか』というようなことを、観終わった後でふと考えてくれるような作品になってくれていれば、ぼくにとってこれほど嬉しいことはありません。」(山田洋次監督)
母の伸子も婚約者の町子も、生き残ったことを素直に喜べない。愛するものが死んでしまったのに、自分だけがなぜか生き残っている。それが負い目となって、平和な生活に影を落とす。そしてその負い目は、死んだものによってしか解消させることが出来ない。だからこうして現れるのだ、広島でも長崎でも。死者は生者が人生を再び生きなおすために現れる。死者は限りなくやさしい。
亡くなった家族や友人を思うとき、死者によって生かされていると感じることがある。そうした思いはいつもすぐに消えてしまうが、この映画を見てまた思い出した。戦争というテーマだが、その意味では普遍的な死者と生者の物語でもある。
母の伸子にとって、婚約者の町子のこれからが唯一の気がかりだ。そのことをどうにかしようと、伸子は死んだ浩二を呼び寄せたようなものかもしれない。それが自らの孤独を招くことを知りながら…。伸子の決意は悲しい。その悲しさはいったいどこから来るのか、観るものは考えずにはいられない。ただこの端正な映画は、最後に大きな救いを用意しているのだが。
監督:山田洋次
音楽:坂本龍一
日本映画 2015 / 130分
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